第37話 領主様の事情1
「待たせてすまない。ちょっと体調を崩していてね」
伯爵の声は、競技会のときほどの張りがなかった。それに、あのとき会場に響き渡った声はテノールの音域だったけど、もっと男声らしい迫力があったはず。
むしろ、この声は……低めの女声?
さりげなく、伯爵の左手にはまる半球体の指輪に目を向ける。
――やっぱり、石の色が違う……!
競技会の日、その指輪は確かに発動中の陰陽石特有の、吸い込まれるような黒だった。でも今日の石はほんのり乳白がかった、シャボン玉のような色をしている。
「本日は、お招きを賜りありがとうございます」
私がとまどっているうちに、コレットさんが帽子をとって深く頭を下げた。一瞬、淑女の礼を執りかけていた私は、慌ててコレットさんにならって頭を下げる。
「顔を上げて、座ってくれ。あまり堅苦しい話にしたくない」
伯爵はそう言って、いつの間にか隅に控えていた年配の侍女に目配せをした。私たちが断りを入れて座る間に、侍女が手際よくお茶を用意してゆく。間に湯気が立ちのぼる中で、伯爵はわずかに口角を上げて言った。
「コレット嬢。改めて、先日の競技会は見事だった。あの回転研磨盤もさることながら、貴女の技術は本物だ。親方の薫陶がよく行き届いているのだろう」
「そんな……もったいないお言葉です」
「それで、今日呼び立てた理由だが」
伯爵は表情を引き締めると、まっすぐにコレットさんを見つめた。
「率直に言おう。コレット嬢、私と契約結婚をする気はないか」
「契約で結婚……って」
コレットさんの肩が、小さく揺れる。私も驚きに目を開きつつ、黙って続きの言葉を待った。
「ああ。とはいえ内情は白い結婚となるから、安心してほしい。期間は二年間のみで、任期満了後は正式に離縁する。契約を表沙汰にはできないが、私の方が全ての非を被る形とし、貴女の名誉は必ず守ると誓おう」
内容の堅さに反して口調はごく穏やかなのは、伯爵なりに雰囲気を和らげようとしてくれているのだろうか。
「報酬として貴女の工房を伯爵家の御用達とし、その先もずっと援助を継続すると約束する」
コレットさんは、しばし無言だった。膝の上で重ねた手が、彼女の困惑を示すように握りしめられている。
ややあって、コレットさんは静かに口を開いた。
「……何か、ご事情があるのですね。お顔色がよくないのも、そのために……?」
「ああ」
伯爵は短く認めたが、それ以上は語らない。コレットさんは小さく唾を飲み込むと、意を決したかのように口を開いた。
「その……できれば協力して差し上げたいのですが、仮初めとはいえ庶民の身で伯爵さまと結婚するなんて、とても恐れ多くて……。それに工房を御用達にしてくださる件も、技術を認められてのことでないなら、お断りしたいです」
その答えを聞いて、伯爵は目を細めた。
「……いや、貴女は技術も心構えも申し分ないから、契約婚の件がなくとも工房を後援したいと考えていたのだ。貴女が他の憂いなく技術の研鑽に打ち込める環境を、提供したい。それは純粋な評価によるものだと思ってくれていい」
「それは、本当に光栄です……! ただ、わたしには身に余る光栄で……お力には、なりたいと思うのですが」
それを聞いた伯爵は、ふっと頬を緩めてみせる。
「貴女は芯があるうえに優しい、本当に素敵な女性だな。私は見る目があったようだ。……絶対に悪いようにはしないから、もう少し考えてみてはくれないか」
まるで選択肢があるような口ぶりだけど、伯爵は全く引く様子がない。こんな状況で、領主からの提案を一市民が断ることなんて、できないだろう。
「――少しお待ちください。領主様に、わたくしからも申し上げたいことがございます」
私はコレットさんの困惑をみかねて、思わず口を開いた。伯爵の訝しげな目が、こちらへ向けられる。
「コレットには少し席を外してもらいたいのですが、よろしいでしょうか」
「……お前は、コレット嬢の従姉だと言ったな。彼女の前でできない話とは、何だ?」
伯爵の目が、すっと細くなる。するとコレットさんが、すかさずフォローしてくれた。
「ルーシーは信用できます! 僭越ながらわたしの方からも、お願いしてよろしいでしょうか。別室で待たせていただければ……」
伯爵はしばらく私の顔をじっと見つめてから、しぶしぶといった様子で顎を上げた。
「……いいだろう。案内してやれ」
護衛の人が進み出て、コレットさんに「こちらへ」と丁寧に声をかける。コレットさんは立ち上がりながら伯爵に深く頭を下げて、ついで私に小さく目礼をしてから部屋を出て行った。
やはり護衛の人まで外してもらうことはできないようで、間もなく部屋へ戻ってきた。再び伯爵の斜め後ろに寄り添うように立ち、無言でこちらへ圧を向けている。
まあ、この過保護すぎる様子からしても、護衛の人は確実に伯爵の事情を知ってそうだから……聞かれても大丈夫かな。
「で、話とは何だ」
伯爵が、静かな迫力を持って問う。私はつとめて穏やかに、話を切り出した。
「領主様の契約結婚のお相手について、私ではいかがでしょう?」
一瞬にして、伯爵の目が氷のように冷ややかになった。
「なんだ、伯爵夫人の座を狙っていたのか」
声は静かなままだけど、どこか侮蔑を含んでいる。
「生憎だが、よりによって従妹を裏切り出し抜こうとするような強欲な者に用はない。失せろ」
よりによって、とは、イトコになんか含みがあるのだろうか?……なんて考える間もなく、護衛が半歩、音もなく足を踏み出した。いつの間にか、手を剣の柄の上に置いている。
(え、切り捨て御免なの!?)
正直怖気づきそうになったけど、でも、ここで引くわけにはいかない。防壁の護石があるからビビらなくても大丈夫だと自分に言い聞かせ、私は伯爵をまっすぐに見た。
「陰陽石、今日は発動させないのですか?」
伯爵の表情が、一瞬にして凍りつく。
「左手の指輪、競技会でお見かけしたときと石の色が変わっていますね」
「……何のことだ?」
「まあ、陰陽石の件を抜きにしても……少なくとも今のあなたは女性である。違いますか?」
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。護衛の人が、剣の柄を握りしめる。鯉口を切る音がカチリと妙に大きく響くと、伯爵は片手を上げて制した。
「ほう、なかなかの眼力……と言いたいところだが」
伯爵の唇が、うっすらと弧を描く。だがその目は険しさを増して、これっぽっちも笑っていない。
「それを指摘したのは、軽率だったな」
「どういうことでしょう?」
「君を、ただで帰してやるわけにはいかなくなった」
護衛の人が、再び一歩踏み出した。空気が、ぴんと張り詰める。
――こわっ!!
いくら防壁があっても、プロの殺気を向けられたら内心穏やかではいられない。でもここで怖気づいてしまったら、交渉失敗だ。
私は努めて平然と視線を伯爵に戻すと、口を開いた。




