妄執の行方1
エリク・ヴェシエールが王国騎士の中でも最も栄えある近衛騎士団を除籍されたのは、春の終わりのことだった。
騎士団の記録に残されたのは『王族への反逆未遂』という、たった一行の記述である。
だがその一行で、すべてが失われた。騎士団の紋章入りの外套と剣帯は返上となり、自らの努力で手にした騎士爵位すらも、一瞬で廃された。
とはいえ、確実に守護宝石が発動していたにもかかわらず、王命で反逆未遂とされたのは異例の措置だったといえる。それは被害に遭った王女本人の希望によるものだったが、王女すら知らないエリクの特殊な出生を考えたならば、国王の判断も納得のゆくものだった。
最後に騎士団の宿舎のある門を出たとき、かつての同僚は誰一人として見送りに来なかった。
当然だ。未遂扱いとはいえ反逆罪に問われた男になど、関わりたい物好きはいないだろう。
もともと居場所のない実家――シャントルイユ伯爵家からも勘当されたエリクは、王都の安宿に転がり込んだ。
持ち金は、わずかだった。近衛騎士団の俸給は堅実だが上位貴族が社交に必要とする支出に足りるほどではなく、ひとたび実家の財力から切り離されてしまえば、残る蓄えはそれなりしかない。
とはいえ、それは華やかなりし貴族だった頃の話。質素な暮らしをしていれば、数ヶ月は余裕で持つだろう。
だが質素な暮らしどころか、エリクは酒に溺れた。安宿の一階にある酒場で、朝から晩まで杯を傾けた。軽い麦酒から始まり、すぐにより強い酒に手を出して、金が減るのも構わず飲み続けた。
――飲まなければ、考えてしまうからだ。
彼女の首に手をかけたとき、頭の中は真っ白だった。
何も考えていなかった、という訳ではない。考えていた。考えた末での、選択だったのだ。
(この方は、これは、姫様ではない。俺の姫様はこんなことを言わない。こんな目をしない。こんな笑い方をしない。だからこれは悪霊だ。穢れの悪霊が、姫様の御体を乗っ取ったのだ。早く、排除しなければ……!)
――排除?
護ると誓った相手を?
違う。姫様は、常に守護宝石を身につけていた。だから、永遠の別れとしての死が訪れるはずがないのは、分かっていたのだ。
守護宝石の力が発動すれば、あらゆる死の原因を無力化し、怪我も病気も全快した状態で復活する。
その範囲には、全ての状態異常をも含む。だから、悪霊も祓うことができるはずだったのだ。
だが――そうだ。守護宝石の力が発動したということは、彼女は一度、あのとき確かに死んだのだ。
(死んだ――殺した。俺が、俺の手で)
まだこの指に残る、生々しい感触。
命の灯が消えゆく、あの感覚――。
(――違う!)
酒を呷ると、喉が焼けた。
あの瞬間、彼女の目は怯えていなかった。怒ってもいなかった。あの澄んだ瞳に映っていた感情は――哀れみだった。
『思い通りにならなかったら、殺すのね』
声が、聞こえたわけではない。だがその唇の動きを見れば、自分に届かぬはずがない。
首を絞められながら、彼女は哀れむように笑った。その笑みが、未だ瞼の裏に鮮やかに焼きついている。
あの時、守護宝石は確かに発動した。だが発動したあとも、彼女の目の色は変わらなかった。
『護衛が乱心したわ!!』
エリクは、杯を叩きつけるように置いた。
「……違う」
誰に言うでもなく、呟く。
「やはり、あれは姫様じゃない。俺の姫様は、あんな目をしない」
自分の知っている姫様は自信がなくて、いつも不安げに目を伏せていた。悪意ある言葉に曝されては、小さく肩をすくめていた。そんな姫様に「俺がお護りします」と告げると、あの榛色の目に微かな光が灯った。
あの目が、好きだった。
自分を頼りにしてくれる目。自分がいなければ生きていけないと語る、世界でたった一人、『俺』だけを見てくれる目。
初めて、自分に存在する意味をくれた。あの目を失うくらいなら――。
エリクは頭を振った。杯を掴み直す。
失ってなどいない。あれは悪霊だ。姫様はまだどこかにいる。穢れに侵される前の、『俺』の庇護を待つ姫君が。あの儚げな微笑みが。あの縋るような瞳が。
酒が切れるたびに、そう言い聞かせた。
酔いが覚めるたびに、あの哀れむような笑みが蘇った。
◇ ◇ ◇
除籍から、ひと月と少しが過ぎた。
いつも通り二日酔いの頭で酒場に降りていくと、商人らしき風体の男たちが大声で噂話をしていた。
「聞いたか、第二王女サマが行方不明だと」
「ああ、宝石姫様の妹だろ? ここだけの話だが、守護宝石を作る道具を持ち逃げして宮殿から消えちまったらしいな」
「どうせ尾ヒレがついてんだろ。王女サマがそんな手癖の悪ぃことするかよ」
「いやいや、これもここだけの話だけどな、なんでも宝石姫様を殴り飛ばして、護衛騎士までぶっ飛ばして追ん出したとかで……」
カウンターで酒杯を受け取って、さりげなく隣のテーブルに着く。
――姫様が、王宮から、消えた。
頭から、全身から、ざっと血の気が引いてゆく。
「……いつの話だ」
気づけば、隣卓の商人に話しかけていた。
酒焼けの喉から、掠れた声が出る。
「あん? もうひと月ぐれぇ前の話だってよ。捜索隊が出てるようだが、全然見つからねぇらしい」
――ひと月も前。
エリクが王宮を出た直後のことだろう。彼が酒場で泥酔していたその間、彼女は王宮から姿を消していた。
震える手で、杯を置いた。
酔いは、とっくに吹き飛んでいた。
上階の部屋に戻って、エリクは壁に背をつけて座り込んだ。
(姫様が、いなくなった――俺の、知らないうちに)
最初に浮かんだのは、怒りだった。
(なぜだ。なぜ逃げた。そうか、俺がいなくなったから、王宮に居場所がなくなってしまったんだろう。当然だ。あの牢獄のような宮殿で姫様をお護りできるのは、俺だけだったのだから。俺の忠誠を裏切って、俺のただ一つの居場所を奪った報いだ)
――違う。
自分が居場所を失ったのは、護るべき主の首を絞めたからだ。
嫌な考えを払うように、頭を振った。
振っても、事実は変わらない。
次に浮かんだのは、恐怖だった。
(あの頼りない姫様が、市井の暮らしなど何一つ知らない姫様が、一人で何の護りもない宮殿の外にいる。外に出るときは、俺が必ず側でお護りしていたのに……!)
――なぜ、お側を離れてしまったのだろう。
悪い奴に騙されるかもしれない。暗がりで暴漢に襲われるかもしれない。
道に迷って、飢えて、傷ついて。
今頃は、もう――。
(俺の手を、振り払った報いだ)
悲惨な最期に後悔し、涙を流しつつ俺の名を呼ぶ。
そんな彼女の姿を思い描いて、一瞬、昏い笑みが浮かんだ。
だがすぐに、空想の中の彼女の瞳に意志が宿った。
何者にも屈しないと訴える、気高い光。
――姫様は、変わった。
突然の死に怯むこともなく、端的な言葉でエリクを拘束させた。かつての姫様に、そんな判断力があっただろうか。
(俺が知っている姫様には、なかった力ではないか)
あの見る角度で色を変える、神秘的な榛色の瞳――物陰で目を伏せれば褐色に枯れ、陽光の下で前を向けば新緑に輝く、あの変彩金緑石のような瞳。
あのときの彼女は新緑の瞳で、一片の迷いもなくエリクを見据えていた。
(あんな目を、俺は知らない。やはりあれは、俺の姫様ではない)
――だが。
(もしあれこそが、本当の姿だったとしたら……?)
その考えが脳裏をよぎった瞬間、エリクは壁に拳を叩きつけた。
「違う……!」
荒い石壁に打ちつけられた皮膚が裂け、血がにじんだ。痛みで、思考が中断される。
だが、それでよかった。
もう、考えたくなかったのだ。
――絶対に、認めない。
もしそれを認めてしまったら、自分が六年間かけて護ってきたものは、一体何だったというのか。
この命にかえても、お護りすると誓った。
あの方は、もう、どこにもいないのか。
それは。それだけは――絶対に、認めない。




