妄執の行方2(第一部・了)
翌朝から、エリクは酒を断った。
それまで昼ごろに起き出してはすぐに浴びるように呑んでいた男が、突然、節制した食事と水しか口にしなくなった。心配した宿の主人が「金は大丈夫か」と声をかけたが、エリクは黙って、その日の宿代をカウンターに置いた。
そして部屋に戻って、辺りを見回した。持ち込んだ荷物はわずかだが、それにも増して部屋が狭い。粗末な寝台一つも置けばいっぱいだ。
天井を見上げると、屋根の下に剥き出しの梁が見えた。それは古く虫食いだらけで、見るからに朽ち始めている。
――好都合だ。
エリクは軽く跳んで梁に両手をかけると、ゆっくりと身体を持ち上げた。懸垂は、勢い任せに回数を重ねてゆくのは簡単だ。だが無理な力をかければ、安普請の梁はたちまち折れてしまうだろう。
朽ちかけた木の軋みを最低限に抑えるように、全身にゆっくりと負荷をかけてゆく。かつては禁欲的な近衛騎士団の制服に、きっちりと覆い隠されていた筋肉――それを極限まで引き絞れば、全身がぎちぎちと音を立てるようだった。
――以来、エリクは安宿の一室で気配を殺し、人知れず身体を鍛え直し始めた。やがて日が落ちると、密かに外へ出て剣の素振りを加えた。騎士団を除籍されても、あの日誓いを立てた剣だけは、まだ手元に残されている。
ここしばらくの不摂生で体力がずいぶんと落ちてしまっていたが、着々と取り戻していった。長年の鍛錬で染みついた動きが、ひと月の深酒ごときで消えはしない。
数日で、体から重さが取れた。さらに数日も経てば、以前と遜色ない動きになった。
その間も、鍛錬だけをしていたわけではない。身体を鍛え直すかたわらで、エリクは王都中の酒場を巡った。
もちろん、酒を飲むためではない。酒場には、様々な情報が集まってくる。
酒代のほかに少しの心づけを握らせば、酒杯の中身を水に変えてもらうことは簡単だった。酒に弱いが見栄は張りたい男の密かな依頼は、どこの酒場でもよくあるのだろう。
酔っ払った男どもの中で、エリクは一人、素面で聞き耳を立て続けた。
ある日、一人の男の愚痴が耳に入った。王女を隠しているんじゃないかと、雇い主のお屋敷が近衛騎士団に踏み込まれて大変だったというのだ。
王宮では『王女が一人で市井に紛れ込めるわけがないから、王家への反逆を目論む者にそそのかされて、どこかの屋敷に隠れているのだろう』との見方が強いらしい。それでこのところ、各所で家宅捜索が行われているのだ。
だがその話を聞いて、エリクは一人、鼻で笑った。
まったく、とんだ的外れだ。あの様子では、いくら探しても見つけることはできないだろう。
(あいつらは、姫様のことを何も解っていない)
彼女は、気弱だと周囲に思われていた。だが自分の味方が鞭で打たれるぐらいなら、自らの身を差し出して代わりに打たれるような芯の強さを併せ持つ人だった。
もし失踪した王女を匿ったことが露見すれば、その家の者たちは斬首を免れないだろう。あの心優しい姫様ならば、人に迷惑をかけることを厭う姫様ならば、外部に協力者などいないはずだ。
(ただ、俺のように心から信頼している相手であれば、協力を請いうるかもしれないが……姫様にそんな相手がいれば、ずっとお側にいた俺が、気づいていないはずがない)
――だが、そうだ。確かに、自分は心から信頼されていたはずだ。ならばもし、あのとき彼女の話を最後まで真摯に聞いていたならば。
(今ごろは、共に……?)
エリクは、愕然として両手を見た。
まだこの指に残る、柔らかな感触――。
(長年かけて築いた信頼を、一瞬で壊してしまったのは……俺だ)
◇ ◇ ◇
またその、数日後。採掘者らしき風体の男たちが、坑道で起こった瘴気漏れ事故の噂話をしていた。
その街の名を聞いた瞬間、なぜか心が騒いだ。
鉱山都市ファセッタ。この国第二の都市であり、宝石採掘者たちの楽園とも呼ばれている街。
エリクには、分かってしまった。
彼女が本当は何を望み、何を願っていたのかを。
(姫様が身を隠しているとしたら、そこだ)
この六年間、誰よりも側にいた。あの王宮にいた誰よりも、認知の捻じ曲がった王族どもの誰よりも、自分が一番、姫様のことを知っている。
だから、見つけられる。
見つけなければならない。
(あの方は俺がいなければ……いなければ、何だ?)
生きていけない? 警備の厳しい王宮からたった一人で逃げ出して、捜索隊を出し抜いて消えてしまった人間が?
かつての姫様は、そんな知恵も度胸もある御方ではなかったはずだ。
――でも、あの『姫様』は、もういない。
エリクの中で、二つの感情がせめぎ合っていた。
一つは、純粋な心配。護るべき女性が危険な目に遭っていないかを案じる、長年身に染み付いた、懐かしい感情。
そしてもう一つは――もっと昏い、何か。
(見つけたら、どうする? 連れ戻す? どこに? 騎士団は除籍された。俺には、王宮に戻る場所はない。姫様を連れ帰ったところで、俺はもう、何者でもないじゃないか……)
一瞬、見つけた後のことを空想し、エリクは強くかぶりを振った。
(俺は、あの獣のような男とは違う。そんなことは、望んでいない!!)
恋などという、我欲にまみれた情動ではない。もっと崇高な想いで繋がっていられたら、それだけで――。
――それでも、見つけなければならない。
見つけて、もう一度、あの目を見なければならない。
もう一度会って、それからどうしたいのか――もう、自分でもよく分からなくなっていた。
彼女は、純粋に石が好きだった。あるとき、浄化したばかりの美しい宝石をそっと陽光にかざして、夢みるような瞳で言っていたことがある。
『もしも男に産まれていたら、この手で原石を掘り出すところから、全ての工程を自分だけの手でこなしてみたかったわ』
『貴女は、そんな下々の仕事で御手を汚さねばならないご身分ではございませんよ』
『でもねエリク、レイ兄様は、とても楽しそうにお話ししていらしたわ。魔石の探求は危険だけれど、宮殿の中で護られてばかりでは知りえない、心躍る景色を見られる、と。もしも兄様が生きていらして、わたくしも男に産まれていたら……一緒に連れて行ってもらえたのかしら』
(駄目だ、そっちへ行かないでくれ……!)
『何をおっしゃいます。もし姫様が男君にお産まれであれば、今ごろお世継ぎとなられておりましたでしょうに』
『そうね……。もし男に産まれていたならば、わたくしにも自分だけの居場所があったのに』
『姫様……姫様の居場所は、もうここにあるではありませんか』
そう言ってエリクが自らの胸に手を当て微笑むと、彼女はとても嬉しげに笑みを返してくれた。
その笑みに、ほんの一匙の憂いが溶けていることを……エリクは見ないふりをしていた。
だが――。エリクは酒の臭いが染みついたテーブルに、地図を広げた。
ファセッタ。王都オーバリアから宿場沿いに騎馬で駆けて、四から五日ほどの街。いくつもの良質な魔石鉱山を持つ、王国第二の都市。
認めたくはないことだが、あの数日でしたたかな脱出劇を演じるような悪女へと変貌をとげてしまった姫様であれば、潜伏先に選ぶ可能性が高いだろう。
――いや、本当は知っていたのだ。辛い現実に思考を止めてしまう前の姫様が、初めて会った頃の姫様が、どれほど聡明な瞳で未来を語っていたのかを。
聡明だからこそ、日陰の身であることが皆にとっての最適解なのだと、我慢してしまった部分もあるのだろう。これがあのテネブラであれば、利害など抜きに絶対に嫌だと大騒ぎしていたはずだ。
『姫様』のことを細やかに思い出せば思い出すほどに、推測は確信へと変わった。
――姫様は、ファセッタにいる。
夜の酒場を赤々と照らす灯火を受けて、碧い瞳が異様な光を帯びた。
常に採掘者の人手不足と言われているファセッタならば、反逆という大罪を犯した男でも、ギルドにもぐり込めば充分食べていけるだろう。剣の腕の立つエリクであれば、なおさらだ。
だが今のエリクの頭にあったのは、それらの現実的な打算ではなかった。
どこまでも鮮烈な碧い瞳に、月光のような銀の髪。稀に夜会に顔を出せば令嬢たちの視線を一身に集めるほどの、美貌の青年。
だがその目は、すでに現実を見ていなかった。
薄く笑みを浮かべているのに、その両眼には底知れぬ闇がある。
「見つけたら」
エリクは地図を懐にしまいつつ、呟いた。
「二度と、逃さない――」
◇ ◇ ◇
――夜が明けて。
ファセッタへと向かう朝焼けの街道を、一騎の馬が走り出す。
彼を突き動かしているものは、もはやただの無意味な執着なのだろう。だがその妄執の果てがどこに向かっているのかは――もはや彼自身にも、分からなくなっていた。
第一部 宝石姫、やめました!《了》
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました!
第二部はまた書きためてから連続投稿する予定ですので、ブクマをしてお待ちいただけますと幸いです。
過去作は全て完結済ですので、よければそちらもご覧ください。




