第03話 共依存はやめましょう
姉を殴ってしまってから、たぶん半刻も経っていなかっただろう。父王からの使いがやってきて、私は自室に閉じ込められた。
正確に言うと、もともと自室にいたところに「謹慎せよ」という命令が下されたのだけど、やっていることは軟禁と同じだ。扉の前には衛兵が二人立ち、自由に外へ出られないよう目を光らせている。
『しばらく頭を冷やすがよい』
父王からの伝言は、それだけだった。呼び出して直接叱るのではなく伝言というあたり、怒っているというよりも、突然キレ散らかした娘にどう対応すればいいのか、サッパリ分からないだけだろう。
まあ、仕方のないことだ。殴ったのは事実だし、理由はどうあれ王女が王女を拳で殴るなんて前代未聞だろうから、反論の余地もない。
それはわかっていた。わかっていて殴ったのだ。反省はしてるけど、後悔はしていない。
ただ、とにかくやることがない。さあ今こそ引きこもって浄化せよとばかりに穢れに満ちた魔石が追加で持ち込まれたけど、今はさすがに思い通りになってあげる気分ではなかった。
では何をするかと思案しつつソファに座っていたら、扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
衛兵と、何かを言い合うらしき声。「通してくれ」「しかし」「俺は姫様の近衛だ!」というやり取りのあと、扉が開き一人の青年が飛び込んできた。
エリク・ヴェシエール。近衛騎士団に所属し、外出や式典の際に私の護衛を専任している騎士だ。
乱れた銀髪が、窓から射す光を受けて白銀に輝いている。整った面立ちは彫刻のようで、すっと通った鼻筋に、燐灰石のように鮮烈なネオンブルーの瞳。長い睫毛が極限まで見開かれ、美しい碧眼をいつになく際立たせていた。
騎士団の若手の中でも群を抜いて剣の腕が立ち、おまけにこの際立つ容貌だ。由緒正しき伯爵家の次男という出自も相まって、王宮の侍女たちから高位貴族の令嬢たちまで幅広く人気があるらしい。
そんな誰もが羨む有望株が、姉からの異動の誘いも断り、なぜ私のような日陰の王女の護衛に甘んじているのか……これまでは、不思議に思っていたけれど。
「リュクサーナ姫様!」
エリクは息を切らしながら私の前に膝をつくと、綺麗な顔をひどく歪めてこちらを見上げた。碧い瞳に浮かんでいるのは、狼狽と、困惑と、それから――焦りにも似た何か。
「お怪我は……いえ、それよりも」
膝をついたまま、すがるように私の手を握る。顔に似合わぬごつごつとした剣を取る者の手が、両手で包み込むように握りしめた。それも驚くほど、強い力で。
「俺が護って差し上げますと言ったのに、なぜ、自ら手を出してしまわれたのですか!?」
余裕のない、声だった。碧い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「なぜ俺を頼らず、ご自分で――姫様らしくない!」
――らしくない。
その言葉が、思いのほか深く私をえぐった。前世の記憶が蘇る前から、ずっと胸の中でくすぶっていた何かを、えぐり出す言葉――。
「私らしくない、ですって?」
考える前に、口が動いた。
「貴方の理想を私に押しつけないで。私の人格を決めるのは、私よ」
言ってしまってから、自分でも少し驚いた。エリクにこんな強気なことを言ったのは、初めてのことだった。
でも、これは前世の記憶のせいじゃない。私が、リュクサーナが、ずっとくすぶらせていた思いだったのだ。
でもそれ以上に驚いたのは、やはりエリクのほうだったらしい。私の手を握ったまま、まるで雷に打たれたかのような顔で固まっている。透き通った瞳がさらに大きく見開かれ、長い銀色の睫毛が微かに震えた。
「一体、どうしてしまわれたのですか……?」
かすれた、声が響く。
「まさか、とうとう穢れに人格を乗っ取られたのでは……!」
「っ……」
握りしめる手に、さらに力がこもった。まるで、この手を離したら私が消えてしまうとでも言いたげに。
――やっぱり、エリクには変わったことがバレてしまうのね。
もっとも、昨日まではただひたすら従順だった王女がいきなり姉を殴り、護衛騎士に口ごたえし始めたら、誰でもそう思うのかもしれないけれど。
申し訳ないとは、心から思っていた。この人はいつも、悲しむ私を慰めてくれていたのに。
姉に理不尽な扱いを受けるたび、『俺がお護りします』と言ってくれた。婚約者に冷たくされるたび、『姫様の価値がわからないあの男が愚かなのです』と代わりに憤ってくれた。
その優しさに、ずっと救われてきた。
だからこそ――言わなければならない。
「ごめんなさい、エリク」
私は穏やかに、でもはっきりと言った。
「もう、貴方の職務を超えるほど、全てから護ってもらう必要はないの。これまで本当にありがとう。でも私は、これが本当になりたかった姿だから……貴方に依存してしまう私も、やめようと思っているわ。だからどうか、これまで一番の味方でいてくれたエリクにも、応援してほしい」
これは、前世の記憶に乗っ取られたからの言葉じゃない。たとえ余分な記憶を得ようとも、私は私だ。自分の力で、再び姉と対等に渡り合う。それは私が、ずっと願っていたことだった。
エリクの顔から、すっと血の気が引いた。
彫刻のように整った顔が蒼白になると、怖いぐらいに美しい。白磁の肌に碧い瞳だけが燃え立って、まるで美しい白磁人形の、目だけに命が宿っているようだ。
「……嘘です」
低い声だった。膝をついたまま、エリクは私の手をより深く、手首まで覆うように握り直す。それでも護衛に許された、『手を取る』という一線を越えてくることはないけれど――。
「嘘だ。姫様は、そんなことをおっしゃる御方ではない。いつも俺だけを頼りにしてくださって、常に俺をお側に離さないでいてくださる方だ」
「エリク……」
「俺がいなければ、姫様はお一人になってしまいます。姫様の味方は俺だけなのですから。――ずっとそう、だったでしょう?」
『俺だけは、絶対に貴女の味方です』
甘やかな声で紡がれるその言葉に、以前の私ならきっと涙ぐんで頷いていた。
だってこんなに素敵な人が、ひざまずいて、手を取って、味方だと言ってくれるのだ。自分を肯定できない少女にとって、これ以上の救いがあっただろうか。
――でも。
前世の記憶が混ざった今の私には、この言葉の裏にあるものが見えてしまった。エリクがずっと『リュクサーナ』にしてきたことを、現代日本人の大人の目線で思い返す。
リュクサーナが姉に抗おうとするたび、エリクは止めた。『はしたないことはおやめください』と。正当な怒りを飲み込ませ、代わりに自分が盾になると言った。
少しでもおしゃれをしようとすれば、あの綺麗な顔を曇らせて『そんな売女のような格好は貴女らしくない』と諌めた。姉と比べて地味だと言われるのが悲しくて、せめてドレスぐらい流行りのデザインを着てみたかっただけなのに。
『姫様にそんなものは似合いません。姫様は、そのままでお美しいのですから』
そう優しい声で言い、穏やかに微笑む。でもその優しさは、私がありのままでいることを肯定しているのではなかった。私が変わろうとすることを、封じ込めていたのだ。
ずっと、変わらないままでいてほしかったのだろう。弱くて、自信がなくて、自分を頼るしかない地味な姫君のままで――。
近衛騎士団の同僚たちに『宝石姫様に異動を乞われたのに、なぜあんな地味な妹姫様の御守りに甘んじているんだ?』とからかい半分で問われたとき、エリクはその完璧な顔に満足げな笑みを浮かべ、堂々と言った。
『これが俺の使命なのだ。この命にかえてもお護りすると、あの日、この剣に誓った』
それを偶然立ち聞きしてしまったとき、かつての私は何よりも感激したものだ。こんな自分を護ることが使命だと、そう言ってくれる人がいる、と。
でも今思えば……それは、哀れな姫君を自分だけが守っているという、優越感からくる言葉だったのではないだろうか。
彼が大切にしていたのは、私じゃない。私が十二歳のときに近衛騎士に叙任されてから、もう六年。『か弱く、従順で、自分だけを頼りにする姫君』という、彼にとって都合の良いように育てた、理想の存在――。
良家から見目の良い若者だけを集めた近衛騎士団の中でも、ひときわ目立つ美貌の少年。彼は当時、今の私よりひとつ年下の十七歳だった。
初めはその月光のような容貌通りの冷徹な性格で、何より忠実に職務をこなすだけのタイプだったはずだ。それがまさか、こんな顔を隠し持っていたなんて――。
――これって、いわゆるグルーミングのようなものよね。
性的な要求はなかったけれど、少女を手懐け、精神的に囲い込み、この人の言う事を聞かねばならないと思い込ませる手口――。
現代日本で過ごした記憶が、価値観が混ざったことで、見えなかったものが見えてしまった。私はエリクにも、緩やかに支配を受けていたのだ。
「エリク、聞いて」
「聞きたくない!」
彼は、勢いよく立ち上がった。
まだ握りしめていた手を引き寄せるようにして、ぐっと顔を近づける。少し長めのさらさらとした前髪が揺れて、私の頬にふれた。
至近距離で覗き込んでくる碧い瞳は潤んでいるのに、ぞっとするほど必死な色を帯びている。
「姫様は何も考えなくていいのです。何も変わらなくていい。俺が、貴女を傷つけるもの全てからお護りしますから……」
「エリク」
「姫様に仇なすものは、これからも全て俺が排除します。だから――どうか、お願いです。いつもの姫様に戻ってください……」
そのお願いは、懇願の形をした命令だった。美しい顔に甘い声、そして必死な瞳――。全てを使って、彼が思う理想の姿に、私を押し戻そうとする。
彼の期待に応えられなくなったことには、少しだけ寂しく感じる気持ちもあった。でも、気づいてしまったら、もう元のようには戻れない。
「……エリク、貴方は別に、私に恋をしているわけではないのでしょう?」
「もちろんです! 俺は、そんな不埒な思いで貴女をお護りしているわけではない。これは、恋などという汚らわしい我欲ではない。この剣を捧げた貴女への、忠誠の誓いによるもので……!」
「やっぱり、貴方はそうよね」
まるで『恋』を嫌悪するかのように吐き捨てたエリクに、私は力なく笑ってみせる。
「それを聞いて安心したわ。エリク、ごめんね。私はもう、貴方の知っているリュクサーナではないの」
そして、今の正直な気持ちを伝えた瞬間――エリクの、目の色が変わった。碧い瞳から温度が消えて、代わりに浮かんだのは、見たこともないほど冷たい光――。
美しい顔が、まるで別人のように歪む。
「お前は……誰だ」
低く、唸るような声。
「お前は、姫様ではない」
ぞくり、と、本能的な震えが走る。
――これは、ちょっと、ヤバい……!
「姫様をどこへやった、悪霊め!!」
そう叫ぶや否や、エリクの手が私の首へと伸びた。




