第23話 君に名を
目覚めると、すでに陽が傾きかけていた。どうやらベッド脇で椅子に座ったまま、ウトウトしてしまっていたらしい。
ベッドに目を向けると、女の子はまだ目を閉じていた。慌てて毛布の下に隠れた細い手首に指を当て、脈を取る。それから規則正しい寝息を確認して、私はほっと息をついた。
――よかった、生きてる。
それからしばらくして、女の子の睫毛がぴくりと動いた。
薄いまぶたが、ゆっくりと開く。焦点の定まらない目が天井をさまよい、やがて私の顔を見つけてピタリと止まった。
とたんに、明るい琥珀色の瞳に怯えの色が宿った。目が覚めたら見知らぬ場所で、見知らぬ人がのぞき込んでいていたのだから、しょうがない。
「大丈夫だよ。ここは安全だから」
できるだけ穏やかに笑って、声をかける。色々と考えたけど、結局気の利いたことは言えなかった。女の子は石のように固まったまま、私をじっと見ている。
「のど、渇いてない? お水あるよ」
ブラッドさんが神殿からもらってきてくれた、あの聖別された水だ。壺の栓を抜いて、木のコップに注ぐ。
差し出すと、女の子はじっとコップを見つめた。しばらくして、おそるおそる小さな手を伸ばす。
コップを渡すと彼女はすぐに口をつけ、脇目もふらずに飲み始めた。こくこくと、小さく喉の鳴る音がする。
「ゆっくりでいいよ。まだたくさんあるから」
コップの中身が空になると、女の子はこちらをちらりと見上げた。両手でおずおずと差し出されたコップに、私は笑顔でおかわりを注ぎこむ。
「はい、どうぞ」
新しい水を、女の子はさっきよりもゆっくりと飲んだ。浄化の水が効いているのか、少しずつ顔に生気が戻ってゆく。
二杯目を飲み終えた女の子はコップを両手で膝の上に抱えたまま、無言でじっと私を見た。
「僕の名前、リュクスっていうんだ。あなたの名前、教えてくれる?」
静かに問いかけると、女の子は不思議そうに小さく首を傾げた。こちらの言葉はたぶん伝わっていると思うけど、もしかしてお喋りができないのだろうか?
「名前。あなたの、お名前」
もう一度、はっきりと口を動かして問う。すると女の子は、ようやく口を開いた。
「…………カナリヤ」
かすれた、小さな声だった。
「カナリヤじゃなくて、本当のお名前を聞きたいな。お父さんやお母さんにつけてもらったお名前、教えてくれる?」
女の子は、今度は小さく首を振った。
「ないよ」
「……ない?」
「うん。ずっと、カナリヤ」
――名前が、ないのか。
物心つく前からカナリヤとして坑道に置かれていたのなら、名前など与えられなかったのかもしれない。親がいたのかどうかすら、この子自身がわかっていない可能性もある。
胸の奥が、ずしりと重くなった。自分だけの名前すらもらえずに、ずっと『カナリヤ』として働かされていた。もしかすると名前を付けてしまったら、情が移って『道具』として扱いづらいゆえだったのかもしれないけれど――。
――それなら。
「じゃあ、僕が新しい名前をつけてもいい?」
女の子が、目を丸くする。
「そうだなぁ……」
私は腕組みをしてしばらく考え込んでから、一つうなずいて言った。
「ねぇ、ルミナ、っていうのはどうかな」
「……るみな?」
「そう。古い言葉で、『輝く光』って意味なんだ。僕の名前のリュクスもね、『光』という意味なんだって。仲間みたいな言葉なんだけど、どうかな?」
暗い坑道の中で出会ったこの子には、これから輝く光のもとで幸せになって欲しいと思う。
女の子は「るみな」と、もう一度つぶやいた。
そして三度目ははっきりと「ルミナ」と口にして、女の子が笑った。微かだけれど、あの坑道で見た虚ろな顔とは全く違う。
「うん、ルミナ。よろしくね」
私がそう言うと、ルミナはこくりと頷いた。
「そういえば、ルミナって何歳なの? 年齢、わかるかな」
ルミナは少し考えるようにしてから、両手の指を広げた。片手は五本全部で、もう片手は一本。
「六さい」
四、五歳ぐらいかと思っていたけれど、もう少し上だったらしい。関節の目立つ手足を見れば、あまり満足な食事を与えられなかったのだろうか。カナリヤとして体重が増えないように調整されていたのだとしたら、酷い話だ。
考えれば考えるほど暗い気持ちになりそうだったので、私はいったん気持ちを切り替えることにした。あまり暗い顔をしていたら、この子まで不安にさせてしまう。
「ルミナ、お風呂に入ろうか」
お風呂と聞いても、ルミナはピンときていないようだった。まあ冷涼で乾燥したこの国の庶民にとって、身体を洗うといったら行水程度が普通なのだ。湯舟に浸かる文化がないから、そんなものかもしれない。
「コレットさんにお湯を沸かしてもらおうか。きっと気持ちいいよ!」
◇ ◇ ◇
コレットさんに何かいいものがないか聞いてみると、工房の裏手に大きな木の桶があった。普段は研磨に使う道具を洗うためのもので、ちょっとした子ども用の浴槽ぐらいの大きさがある。
コレットさんがお湯を沸かしてきてくれて、水で埋めてちょうどいい温度にした。石塀で囲まれた裏庭は夕日で満ちていたけれど、初夏の陽気がまだ充分残っているから寒くはなさそうだ。
すっかり汚れたワンピースを脱がせると、はっきりとあばら骨が浮いて見えるほど痩せている。それを見たコレットさんが小さく息を呑んだから、庶民にとってもこれは普通ではないレベルなのだろう。
細い体を抱き上げて、お湯の中に座らせる。ルミナは始め緊張していたけれど、すぐにほっと穏やかな顔をした。
「温度はどうかな。気持ちいい?」
私が問うと、ルミナはコクリとうなずいてみせる。私は手桶で湯をすくうと、細い肩に掛けてあげた。
この国の庶民が洗浄に使う石鹸は、獣脂と灰汁で作ったものだ。主に洗濯で服の汚れを落とすために使うもので、身体を洗うためのものじゃない。
だからシャンプーはないけれど、お湯があればかなりの汚れが落とせるものだ。しばらくお湯に浸かって汚れを浮かせてから、丁寧に手ぬぐいで肌をこすってゆく。たちまちお湯が真っ黒になった頃に、コレットさんが新しいお湯を運んできてくれた。
「さて髪も、そろそろいいかなぁ」
くすんだ金色の髪は、あちこちが毛玉のように絡まっている。無理に引っ張ったら痛いだろうから、コレットさんに頼んで食用油を少しもらった。
髪に馴染ませて、指先で少しずつほぐしてゆく。すっかり傷んだ毛先と、どうしても取れない絡まりは、コレットさんがハサミで器用に整えてくれた。
肩より少し短くなった髪は淡い金髪で、洗う前に想像していたよりも透明感がある。
「わぁ、すごくきれいな色ね……!」
最後に新しいお湯で流し終えた髪を見て、コレットさんが目を輝かせた。ルミナはきょとんとした顔で、不思議そうに自分の毛先をつまんで見ている。初めて向けられた言葉に、まだ理解が追い付いていないのだろうか。
桶から出して体を拭き、そのまま大きな布を巻き付ける。私の部屋に戻ったのはいいけれど、問題は小さな子ども用のお着替えがないことだった。元々ルミナが着ていたワンピースは布地がもう限界で、洗ってみたけど着せられる状態ではなかったのだ。
「とりあえず、わたしの上衣を着せてみましょうか?」
そう言ったコレットさんに「お願いします」と返したところで、ノックの音が響いた。




