第22話 一方通行は禁止です
振り向くと、ブラッドさんが立っていた。とたんに、肩から力が抜ける。舐められないようにしなきゃと思っていたら、顔も身体もそうとう強張っていたらしい。
ブラッドさんはビール瓶ほどの大きさの、細長く白い壺を手に持っていた。神殿から借りてきてくれたのだろう。
さっきあったことを話そうとして、私は思い直した。ブラッドさんは面倒見がよくてつい頼りたくなるけれど、会社の先輩ではなくて、フリーランスの先輩だ。私を助けたところで、何のメリットもない。これ以上、良い人に甘えて迷惑をかけるわけにはいかないだろう。
「すみません、ちょっと頭が痛くて……」
「そうか……この水を飲むといい。神殿で聖別されたものだから、瘴気を中和していくらか楽になるはずだ」
そう言ってブラッドさんは私に座るよう促すと、壺を差し出した。
「本当に、申し訳ありません。とんだご迷惑をおかけして……これはおいくらですか?」
「無料でもらえるものだから、今は余計なことを気にせず飲むといい」
「では……ええと、ブラッドさんは飲みました?」
「俺はもう飲んだから、心配するな」
そう言って、ブラッドさんはふっと目元を和らげる。
「はい。ありがとうございます……」
私はようやく安心して壺を受け取ると、栓を抜いて口をつけた。瞬間、冷たい水が流れ込み、すっと澱みが流されてゆく。
ほっと息をはくと、ブラッドさんもほっとしたように目を細めた。
「どうだ、そろそろ動けそうか?」
「はい、大丈夫です。ただ、この子がまだ目を覚まさなくて……」
こんな小さな子に意識のない状態で水を飲ませたら、窒息してしまうかもしれない。
「そうだな、ひとまず安全なところへ運ぼう。君の下宿でいいか?」
「すみません……」
「いや、いい。困った時はお互い様だ」
私がうなずくと、ブラッドさんは女の子を抱え直して、立ち上がった。
本当に、ありがたかった。正直なところ、自分一人で子どもを担いで歩けるほどの体力は、もう残っていなかったのだ。瘴気中りでまだ頭がぼうっとするし、足元もおぼつかない。
ブラッドさんの腕の中で眠る女の子は、くすんだ金色の髪をしていた。頬はこけているし、腕も脚も枝のように細い。まともに食事すらもらえていなかったのだろうか。
でも、息をしている。それだけで、重い身体がいくらか楽になるようだった。
◇ ◇ ◇
下宿に戻った私たちを見るなり、ダヴィド親方が渋面を作った。
ぐったりした子どもを抱えた大男と、瘴気にやられてフラフラの店子が現れたのだから、何ごとかと渋い顔にもなるだろう。
「親方、お願いがあるんです」
私は、事情をかいつまんで話した。坑道でカナリヤの子どもを拾ったこと。採掘ツアーが所有権を主張してきたけれど、坑道のルールを盾にしてこちらに引き取ったこと。
いずれはしかるべき機関に預けることを考えているけれど、少しだけここで看病させてほしいこと――。
ダヴィド親方は腕を組んで、しばらく黙っていた。
コレットさんが奥から出てきて、ブラッドさんの腕の中の女の子を見た瞬間、手で口を覆った。
「この子、どうしたの!?」
「元カナリヤ、だとよ」
親方が、ぼそりと言う。その声には、怒りとも憐れみともつかない含みがあった。
「……急いで二階の部屋をもう一つ空けてやるから、とりあえず今はお前の部屋に寝かしとけ。湯と布を持っていく」
「ありがとうございます……!」
コレットさんが急いで湯を沸かしに行き、親方は黙ってたくさんの布を持ってきてくれた。
ブラッドさんが、女の子をそっとベッドに横たえた。毛布をかけると、小さな体がさらに小柄に見える。
「俺はこれで失礼する。何かあったらギルド経由で連絡を寄越してくれ。急ぎじゃないなら、伝言板でもいい」
「はい。ブラッドさん、今日は本当にありがとうございました」
「……次からは、一人で無茶をするな。本当に、遠慮せず声をかけていいからな」
深々とお辞儀をした私にそれだけ言って、ブラッドさんは帰っていった。笑い皺を寄せるでもなく、怒るでもなく、ただ少しだけ、疲れたような顔をして――。
あの人も坑道の奥まで走って往復してくれたのだから、疲れていないはずがない。なのに小言すら、ひとつも言わなかった。
――いつか、必ずお礼をしなきゃ。
私自身が何の見返りもあげられないのに、頼りすぎてはいけない。一方的に頼り過ぎた結果、エリクとの関係は壊れてしまった。
――早く、もっと強くならなければ。もう自分は、自立した大人なんだから。
でもこの子は、まだまだ子どもだ。大人の食い物にされてしまったら、絶対にダメだ。
ベッドの脇に椅子を引いて座り、かすかな寝息をたてる女の子の顔をのぞき込む。
自分がまだ子どもだった頃、無理な浄化のしすぎで寝込んだときのことを思い出した。目が覚めたとき心配そうに側についていてくれたのは、家族ではなくて――。
――私は、感傷を追い払うように頭を振った。
さて、この子が目を覚ましたら、まず何と言おうか。
かすかだけれど、規則正しい寝息が聞こえてくる。助けたからにはちゃんと責任をもって、安全な場所で暮らせるようにしてあげなければ。
それがこの国ではどれだけ大変なことなのか、まだ私にはわからない。でもとりあえず、今はこの子の傍にいよう。目が覚めたとき、心細い思いをしないですむように――。
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