Track.71
顔を上げる。
「……えっと、本当に基礎のウォームアップだけですけど」
自分でも驚くくらい、声は普通に出た。
「まず、首と肩からゆっくり動かした方がいいと思います。急に伸ばすと痛めるので」
言いながら、俺は肩を大きく回した。
「息は止めないで。吸って、吐くタイミングで力を抜く感じで」
AYA先生の受け売りだ。完全に受け売り。でも、今の俺が確かに持っているものでもある。
「あと、腰だけ反らないように、お腹に少し力を入れてください。ここが抜けると、たぶん背中とか腰に来ます」
「へえ……」
「分かりやすい」
近くにいた候補者が、小さく頷いた。
「あの、俺も一緒にやっていいですか?」
「じゃあ、俺も」
「すみません、今のもう一回お願いしてもいいですか」
気づけば、さっきより少し人が増えていた。
いや、待て。何で俺が仕切る流れになっている? 俺はダンス審査に怯えていたはずなのに。
鏡の前で、数人の候補者が俺の動きに合わせて肩を回している。
隣では、杉田さんまで自然な顔で同じ動きをしていた。
何だこれ。ダンス審査前に、なぜか俺がウォームアップ係になっている。
人生、何が起こるか分からないにもほどがある。
その時、スタジオの扉が開いた。
空気が、すっと変わる。
入ってきたのは、ダンス審査の担当らしい男女数人だった。先頭に立っていた女性が、スタジオ全体を見回す。
さっきまで軽くざわついていた候補者たちが、一斉に姿勢を正した。
「お待たせしました」
女性が、よく通る声で言った。
「これより、第3次審査を開始します。まずは皆さん、鏡の前に広がってください。前後左右、ぶつからない程度に間隔を取ってお願いします」
候補者たちが、少しずつ場所を探して動き始める。
「このあと、こちらで簡単な振りをお見せします。まずは動きを覚えていただいて、そのあと音楽に合わせて一緒に踊っていただきます」
簡単な振り。
その言葉に、俺の中の何かが警戒音を鳴らした。
――俺はもう、ダンス関係の“簡単”を素直に信じない。
簡単。基礎。軽く。ちょっとだけ。ダンスの世界におけるその言葉は、俺にとってだいたい罠だった。
でも、やるしかない。
俺は一度だけ息を吐き、鏡の前へ向かった。
審査員の女性が、音楽に合わせて動き始める。
最初は、軽いステップ。右、左、右。
そこに腕がつく。
……腕がつく。
やめろ。足だけで精一杯の人間に、いきなり腕を追加するな。
いや、文句を言っている場合じゃない。覚えろ。見ろ。
足。腕。向き。タイミング。
頭の中で必死に順番を並べる。
周りでは、すでに何人かが固まっていた。
途中で足を止める人。左右を見て、完全に見失っている人。
無理に踏み込んだのか、顔をしかめて足首を押さえる人もいる。
やっぱり、簡単じゃない。
少し離れた場所では、杉田さんが動いていた。
舞台をやっている人の身体だった。
腕の出し方も、視線の運び方も、ただ振りをなぞっているだけじゃない。
ひとつひとつの動きに、ちゃんと見せる意識がある。
けれど、お手本そのままではなかった。少しだけ、杉田さんの芝居になっている。
くそ。世界の洋平、ダンスでも世界の洋平か。
でも、見るな。
今は杉田さんを見ている場合じゃない。俺は俺の動きをしろ。
AYA先生の声を思い出す。
――分からなくなったら、まず足。
――足が迷ったら、止まってもいいからリズムだけは逃がさない。
――手まで無理なら、足だけ。足が無理なら、上半身だけ。全部捨てない。
そうだ。全部できなくても、全部捨てるな。
俺はまず、足を追った。
右。左。戻る。止める。
そこに腕。
……腕。
無理だ。一瞬、手と足がばらばらになる。
だったら、足を止める。手だけでも合わせる。次のカウントで、もう一度足を戻す。
ぎこちない。固い。たぶん、見ている人間からすれば、かなり危なっかしい。
でも、止まるな。
くらいつけ。
一回目が終わった時点で、息が上がっていた。
たった数十秒。それだけなのに、背中にじわりと汗がにじむ。
「では、もう一度、頭からお願いします。音楽に合わせて通してみましょう」
もう一度、頭から。
つまり、今ので流れは入った前提らしい。
頭では覚えた。
頭では。
問題は、身体がそれについてくるかどうかだ。
脳内の俺は、そこそこ動けている。
鏡の中の俺は、だいぶ怪しい。
この二人の俺を、次の数十秒でどうにか合流させなければならない。
無茶を言う。
でも、やるしかない。
音楽が流れる。
右。左。腕。向き。
最初の四カウントは入った。
次。
半歩遅れる。
戻せ。
腕が遅れる。
足を捨てるな。
俺の身体は相変わらず固い。腰も重い。切り返しもぎこちない。
でも、止まらなかった。
足が迷ったら、リズムだけ残す。手が追いつかなければ、次のカウントで戻す。全部崩れそうになったら、顔だけは上げる。
鏡の中の俺は、どう見てもダンス経験者の動きではなかった。
それでも、最後のポーズまで、なんとか立っていた。




