Track.70
第3次審査までは、もう十分もなかった。
通過者たちは、スタッフの案内で同じフロアの第二リハーサルスタジオへ移動していく。
俺も番号札を握りしめたまま、その流れに少し遅れてついていった。
ダンス審査。
正直、不安しかない。
けど、ここまで残った。
落ちたと思っていた二次審査を通過して、次の審査へ進めるところまで来た。
だったら、今さら尻込みしている場合じゃない。
上手く踊れるかどうかは分からない。
いや、たぶん分からないどころではない。
でも、やるしかない。
やるからには、今できることを全部やる。
そう腹をくくって、俺は第二リハーサルスタジオの扉をくぐった。
すでに残った候補者たちが、三十人ほど入っていた。
けれど、さっきの発表会場とは違って、空気は少し浮き足立っている。
「ダンスって聞いてた?」
「いや、俺も今知った」
「振り付けとかあるのかな」
そんな声が、あちこちから小さく聞こえてくる。
……だよな。
俺だけじゃなかった。
やっぱり、ダンス審査はここで初めて知らされたらしい。
少しだけ安心する。
いや、安心している場合ではない。
全員が知らなかったところで、これから踊る現実は変わらない。
俺は、改めてスタジオの中を見回した。
鏡の前で前髪を直している人。
床に座り込んで、靴紐を結び直している人。
落ち着かない様子で、壁際を行ったり来たりしている人。
みんな、それぞれのやり方で、急に突きつけられたダンス審査に備えようとしている。
その中で、杉田さんは数人の候補者と穏やかに話していた。
さっき後方の椅子に向かっていた時、隣にいた人たちだろうか。
笑っている。
普通に笑っている。
くそ。
世界の洋平、ダンス審査を前にしても余裕か。
……いや。
杉田さんを見て落ち込んでいる場合じゃない。
あの人には、あの人のやり方がある。
俺には、俺のやり方がある。
最善を尽くすために、準備をしないと。
準備を。
……いや、準備って何をすれば?
もう一度周りを見ると、鏡の端の方で、一人の候補者が肩を回していた。
首をゆっくり倒して、肩を回して、足首を軽く動かす。
それを見た瞬間、AYA先生の声が頭の奥でよみがえった。
――レッスン前は、まず体を起こしてあげてください。
……そうだ。
いつもダンスレッスンの前にやっているウォームアップ。
あれなら、できる。
俺は鏡の端の方に立ち、肩をゆっくり回した。
首。
肩。
背中。
腰。
足首。
AYA先生に言われた順番を思い出しながら、呼吸を止めないように体を動かしていく。
正直、俺の体は固い。
腿の裏も、股関節も、背中も、基本的に全部固い。
何なら心も固い。
だが、やらないよりはいい。
お腹に少し力を入れて、背中を丸めすぎない。
伸ばしている場所を意識する。
反動をつけすぎない。
AYA先生の声が、頭の奥で再生される。
――無理に伸ばすんじゃなくて、呼吸でゆるめてください。
そうそう。
呼吸だ。
俺は今、呼吸を忘れていた。
ゆっくり息を吐きながら、腿の裏を伸ばす。
……痛い。
普通に痛い。
でも、いつもの痛みだ。
知らない痛みじゃない。
「一緒にやらせてもらっても?」
不意に声がして、顔を上げた。
杉田さんだった。
「え?」
「邪魔にならなければ」
杉田さんは、いつもの落ち着いた表情でそう言った。
いや、邪魔どころか。
世界の洋平が隣に来た時点で、俺の心拍数はすでに邪魔されている。
「は、はい。もちろんです」
「ありがとうございます」
杉田さんは自然な動きで俺の隣に立つと、同じように肩を回し始めた。
何だろう。
ただ肩を回しているだけなのに、所作が綺麗だ。
くそ。
ウォームアップまで世界の洋平か。
しばらく二人で黙って体を動かしていると、杉田さんが小さく言った。
「さすが、ルクスプロダクション所属ですね」
「え?」
「準備運動からしっかりしている」
それは、褒め言葉だった。
たぶん。
でも俺としては、何もしていないと不安で死にそうだったから、知っている動きをしていただけだ。
「いや、これは……レッスンで教わっているやつを、そのままやっているだけで」
「それが大事なんだと思いますよ」
杉田さんは、軽く背中を伸ばしながら言った。
その声が、近くにいた候補者の耳にも入ったらしい。
「え、ルクスプロダクション?」
誰かが小さく呟いた。
その瞬間、周りの視線がちらほらとこちらへ向く。
やめろ。
今それを拾うな。
「ルクスプロダクションって、あの?」
「男性アイドルの?」
「研究生?」
ざわ、と空気が揺れる。
俺は内心で頭を抱えた。
違う。
いや、違わないけど。
今はそこを掘らないでほしい。
「でも、DUEL主演のミュージカルだろ?」
「じゃあ、バーターとか……?」
ぼそりと落ちた声が、耳に引っかかった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
バーター。
そう思われても仕方ない。
DUELはルクスプロダクションの先輩だ。
俺は同じ事務所の研究生で、しかも見た目は19歳、中身は四十二歳の新人。
客観的に見れば、いくらでもそう見える。
でも。
ここで変に言い返したところで、何の意味もない。
むしろ下手に騒げば、ルクスプロの顔に泥を塗ることになる。
俺は唇をぎゅっと結んだ。
俺は俺にできることをやるしかない。




