Track.72
「はい。ありがとうございました。これで第3次審査は終了です」
「なお、審査結果は十七時頃に発表予定です。時間になりましたら、第一スタジオにお集まりください」
審査員の声が響いた瞬間、スタジオ中にざわめきが広がった。
(……は?、今のが本番だったんかい)
「え、もう終わり?」
「マジか……」
俺も同じ気持ちだった。
だが、膝に手をつく余裕もない。
息を整えるだけで精一杯だった。
歌なら喉。芝居なら心。ダンスは全身。
いや、全身どころか魂まで削ってくる。恐ろしい世界だ。
「あの」
近くにいた候補者が声をかけてきた。
「さっき、準備運動? 教えてくれて助かった。あれやってなかったら、たぶん俺、途中で足やってたわ」
「あ、いや……俺も受け売りなので」
「でも、かなり違ったと思う」
「俺も。身体、少し動かしやすかった」
気づけば、何人かが俺の周りに集まっていた。
いや、待て。感謝されるようなことを、俺はしただろうか。ただ、AYA先生に教わったことをそのままやっただけだ。
ウォームアップ。
俺にとっては、レッスン前に必ずやるもの。できない身体を、少しでも動かせるようにするための準備。
それが、誰かの役に立つこともあるらしい。
何だろう。この感じ。ちょっとむず痒い。
褒められ慣れていない四十二歳の魂が、急に日なたに出されて干からびそうになっている。
戸惑っていると、杉田さんがこちらへ歩いてきた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
「先ほどは、ありがとうございました」
「えっ、杉田さんまで」
「ええ。助かりました」
杉田さんは、いつもの落ち着いた声でそう言った。
「身体が動きやすくなった、というのもありますけど」
「けど?」
「それだけじゃなくて、あの場の空気が変わった気がしました」
「空気、ですか」
「皆、急にダンス審査と言われて、少し浮き足立っていたでしょう」
「ああ……はい」
「でも、一ノ瀬さんが準備を始めたことで、何をすればいいか分からなかった人たちが、まず身体を整える方へ向けた」
杉田さんは、そこで少しだけ笑った。
「やっぱり、経験者は違いますね」
「……経験者」
経験者。
俺が。
今の俺のダンスを見て、その単語が出るのか。
世界の洋平、視力がいいのか悪いのか、どっちなんだ。
いや、たぶん見ているところが違う。
違うんだろうけど、それにしても褒め方が強い。
「舞台に立つ前って、そういう空気の作り方も大事だと思うんです」
「……」
「だから、ありがとうございました」
さらりと言われた。爽やかに。ごく自然に。
しかも、こちらが照れる隙を与えないくらい真っ直ぐに。
くそ。世界の洋平、褒め方まで男前か。かっこいいにも限度があるだろ。
「いや、でも本当に助かった」
さっき一緒にウォームアップをしていた候補者の一人が、もう一度そう言った。
「急にダンスって言われて、何すればいいか分からなかったし」
「あ、それは俺もです」
即答すると、周りの候補者たちが小さく笑った。
「だよな」
「急にダンスはビビるって」
「しかも練習一回で本番とか、心臓に悪すぎる」
口々に言い合う声に、スタジオの空気が少しだけゆるむ。
さっきまで全員、必死だった。できた人も、できなかった人も。たぶん、余裕そうに見えた人だって。
「では、次もお互い頑張りましょう」
杉田さんが、穏やかにそう言った。
「はい」
「頑張りましょう」
誰かが小さく拳を握る。俺もつられて頷いた。
ダンス審査は、正直うまくいったとは言えない。
それでも、レッスンで教わってきたことが少しだけ誰かの役に立って、ありがとうと言ってもらえた。
しかも、杉田さんにまで褒められた。
うん。
嬉しい。
普通に、嬉しい。
ちょっと待て。俺、
さっきまでダンス審査で魂を抜かれていたはずなのに、今かなりほわほわしている。
人間、褒められるとこんなに簡単に浮くのか。
そんなことを思いながら、俺は第2リハーサルスタジオを出た。
足元が、さっきより少しだけふわふわしている。疲れのせいだけじゃない。たぶん、褒められ慣れていないせいだ。
廊下に出ると、待合スペースの椅子に見覚えのある姿があった。
美央さんだ。
俺が出てきたことに気づくと、美央さんはぱっと立ち上がる。
「一ノ瀬くん……!」
「あっ、美央さん!!」
つい声が明るくなってしまう。
今なら分かる。人は疲労困憊の時、知っている顔を見るだけで救われる。
ましてやそれが美央さんなら、なおさらだ。
マイナスイオン。待合スペースに突如現れたマイナスイオン。
俺はそのまま美央さんの方へ向かった。
その時だった。
「……美央?」
後ろから、低くてよく通る声がした。
思わず振り返る。
スタジオから出てきた杉田さんが、廊下の途中で足を止めていた。
さっきまでの穏やかな表情が、ほんの少しだけ揺れている。
え。
今。
美央、って。
呼びました?
美央さんは、一瞬だけまつげを揺らした。
けれど、すぐに何事もなかったように俺へ向き直る。
「一ノ瀬くん。お疲れさま」
にこやかな声だった。いつもの美央さんだ。
いや。
いつもの美央さんに見えるように、きれいに整えられた声だった。
「あ、はい……」
いや、待って。
(今の流れ、流していいやつじゃないですよねえ?)
杉田さんが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「美央……元気だったか?」
その声は、さっきまでの穏やかな舞台人の声とは少し違っていた。
低くて、静かで、それでいて隠しきれない何かが混じっている。
美央さんは、一瞬だけ視線をそらした。そして、小さく息を吐く。
「……おかげさまで」
観念したような、でも絶対に踏み込ませないような声だった。
「今日は、この子のマネージャーとして来てるから」
「美央」
「行きましょう。一ノ瀬くん」
美央さんはそれだけ言うと、すぐに踵を返した。
そっけない。めちゃくちゃそっけない。
「あ、はい……!」
慌てて返事をして、杉田さんにぺこりと頭を下げる。
「えっと、なんかすみません」
口から出たのは、そんなよく分からない謝罪だった。
そう言ってから、俺は美央さんの後を追う。
何に対する“すみません”なのか、自分でも分からない。
たぶん、この場の空気全体に対する“すみません”だ。
いや、空気に謝罪するな。
背中に、杉田さんの視線を感じた気がした。
廊下を数歩進んだところで、俺はもう我慢できなくなった。
いやいやいやいや。
ナニコレ。
どう見ても、今のは。
ナニかあった仲、ですよねえええ!?




