Track.68
発表予定の十五時までは、もうすぐだった。
その時間をひとりで待たなくていいだけで、少しだけ息がしやすくなった気がした。
「いやー……オーディションとか受けるの、はじめてで緊張したわ~~」
先に口を開いたのは、北川くんだった。
審査中のガチガチ具合からは想像できないくらい、声が軽い。
「もう、セリフとか何言ったか覚えてない」
「ははっ、俺もはじめてで緊張しました」
「え、はじめて?」
北川くんが目を丸くする。
「はじめてとは思えないくらい、ちゃんとしてたけど」
「そうですかね……」
ちゃんとしていた。
そう言われても、あまり実感がない。
俺の頭に残っているのは、途中で止められた歌と、世界の洋平の圧倒的な芝居だけだ。
「北川くんこそ、歌、めちゃくちゃ上手かったですよね」
「あー……一応、歌手志望なんだよ」
「歌手志望なんですね」
「うん。全然売れてないけど。事務所から、ミュージカルのオーディションも受けてみろって言われてさ」
「どうりで」
「どうりで?」
「歌になった瞬間、空気変わったので」
そう言うと、北川くんは少し照れたように頭をかいた。
「いやいや。セリフで全部台無しにした気がするけどな」
「でもさ」
北川くんが、少し声を落とした。
「あの二十五番の人、やばくなかった?」
「やばかったです」
即答だった。
「あれ、何?」
「俺が聞きたいです」
「芝居始まった瞬間、喫茶店見えたんだけど」
「見えました」
「歌もさ、もう……」
「はい」
俺は深く頷いた。
「世界の洋平でした」
「世界の洋平?」
「あ、いや。こっちの話です」
危ない。
つい口から出た。
北川くんは不思議そうな顔をしたが、すぐに「まあ、世界って言いたくなるのは分かる」と頷いた。
「正直、あの人を見たあと、自分のオーディションなんかもうどうでもいいのかなって思いました」
「いや、わかる。キツいわ。あの直後だったもんな」
「はい。俺、自分の番の記憶より、杉田さんのベリーソースの方が残ってます」
「ベリーソース!」
北川くんが吹き出した。
「あれな! あれ、即興で出てくる単語じゃなくない?」
「普通は出ないですよ。俺なら砂糖多めにしときますね、くらいしか言えないです」
「それはそれで喫茶店としては親切だけどな」
「ですよね」
少しだけ、笑えた。
「あ、そういえばさ」
北川くんが、ふと思い出したようにこちらを見る。
「審査終わったあと、審査員に呼び止められてなかった?」
「ああ……最後の台詞で、なんで声を落としたのかって聞かれました」
「そこ聞かれるんだ」
「俺も思いました」
「で?」
「主人公だけに聞こえればいいと思ったから、って」
「主人公だけ?」
「はい。あの場面、たぶん主人公は誰かと一緒に来てるんじゃないかと思って」
「え、そうなの?」
「分かんないです。俺がそう読んだだけです」
「へえ……」
北川くんは少しだけ考えるように眉を寄せた。
「……なるほど。俺、そこまで全然考えてなかったわ」
「いや、考えすぎだったかもしれないですけど」
「それ、何か引っかかったってことじゃないの?」
「良い意味か悪い意味か分からないですけどね」
「あー……それは怖いな」
「怖いです」
二人で、妙に真顔になった。
* * * * * *
話しているうちに、五分なんてあっという間に過ぎていた。
落ちたかもしれない。
たぶん、落ちた。
それでも、同じ場所で同じものを見て、同じように打ちのめされた相手がいるだけで、少しだけ息がしやすかった。
その時、控室の扉が開いた。
「お待たせしました」
スタッフの声に、部屋の空気が一瞬で変わる。
「二次審査の結果発表を行います。候補者の皆さまは、隣のスタジオへお集まりください」
時計を見る。
十五時を、少し過ぎていた。
北川くんが、小さく息を吐く。
「……行くか」
「はい」
俺たちは、ほとんど同じタイミングで壁から背を離した。
* * * * * *
隣のスタジオに入った瞬間、ざわ、と空気が揺れた。
午前中の控室とは、比べものにならない人数だった。
壁際にも、鏡の前にも、人が立っている。
そのほとんどが、前方に置かれたホワイトボードへ視線を向けていた。
そこには、すでに合格者の番号が書かれているのだろう。
けれど、人が集まりすぎていて、後ろからではまったく見えない。
「見える?」
北川くんが背伸びをする。
「……見えないですね」
俺も少し首を伸ばしてみたが、見えるのは人の後頭部ばかりだった。
前の方から、小さな歓声が上がる。
その一方で、ホワイトボードを見上げたまま動かなくなる人もいた。
肩を落として、人だかりから離れていく人もいる。
喜んでいる人がいる。
うなだれている人がいる。
同じ部屋の中で、空気がいくつにも割れていた。
「すみません、ホワイトボードを確認された方は、すみやかにご移動をお願いします。通過された方は後方の椅子にかけてお待ちください」
「番号がなかった方は、番号札を受付で返却のうえ、ご退場をお願いいたします」
スタッフの声が飛んだ。
前方にいた候補者たちが、少しずつ左右へ散っていく。
見えるかもしれない。
俺と北川くんも、ホワイトボードの方へ一歩踏み出しかけた。
その時、スタッフの声が響いた。
「番号は掲示していますが、見えづらい方もいらっしゃると思いますので、これから役ごとに合格された方の番号を読み上げます」
足が止まる。
北川くんも、同じように立ち止まっていた。
「……聞いた方が早そうだな」
北川くんが小さく言った。
「ですね」
俺は、手のひらを握りしめた。
見えないなら、聞くしかない。
「まず、ハヤセ・タクマ役です」
俺には関係のない役だ。
そう分かっているのに、番号が読み上げられるたびに、胸の奥がぎゅっと縮む。
「三番、九番、十六番、二十二番、三十八番――」
呼ばれた候補者たちが、ぽつぽつと後方の椅子へ移動していく。
小さく息を吐く人。
口元を押さえる人。
その場で一瞬、膝から力が抜けたようになる人。
反対に、呼ばれなかった候補者たちは、静かに視線を落としていた。
自分には関係ない。
そう思いたいのに、空気だけが先に胸へ刺さってくる。
「続いて、ウノ・トーヤ役です」
スタッフの声が、またスタジオに響いた。
北川くんが、隣で小さく肩を揺らす。
「……長いな」
「ですね」
たぶん、ほんの数分のことだ。
けれど、体感ではやけに長い。
「五番、十一番、二十番、二十七番、四十四番――」
番号が読み上げられるたびに、誰かが動く。
誰かが残る。
その中で、ひときわスラッとした男性が後方の椅子へ向かうのが見えた。
杉田さんだ。
やっぱり。
そりゃそうだ。
あの人が通らないわけがない。
後方の椅子には、少しずつ人が増えていった。
そのぶん、立ったままの候補者たちの空気は、少しずつ重くなっていく。
そして。
「最後に、サブロー役です」
その言葉で、喉の奥がひゅっと狭くなった。
隣で、北川くんが腕を組み直す。
俺も、知らないうちに息を止めていた。




