Track.67
通話を切っても、耳の奥にはヤマジの沈黙が残っていた。
励ましの言葉も。
いつもの妙なネットスラングも。
何も返ってこなかった。
それが、余計にこたえた。
駅前へ向かう道を、そのまま歩く。
喉は渇いている。
頭も冷やしたい。
途中、ビルの壁際に置かれた自販機の前で足が止まった。
水でも買うか。
そう思って小銭入れを出しかけて、ふと値段を見る。
「……水も百五十円かよ」
ただの水なのに、ジュースやお茶と同じ値段。
自販機で水を買うようになったのって、一体いつ頃からだったんだろう。
未来の感覚でいると、こういうところで地味にびっくりする。
……いや、今は水の値段に衝撃を受けている場合じゃない。
小銭入れをポケットに戻して、また歩き出す。
コンビニで飲み物でも買えばいい。
店内なら、少しは落ち着けるかもしれない。
そう思って駅前の通りへ出たところで、コンビニの看板が見えた。
その少し手前。
ビルとビルの隙間みたいな細い路地の奥に、小さな木の看板が出ていることに気づいた。
――喫茶 こもれび。
古びた木の扉。
少し色褪せた赤い庇。
ガラス越しに、あたたかい灯りが滲んでいる。
いかにも、昔からそこにありました、という顔をした店だった。
「……喫茶店」
今の俺には、あまりにもタイミングが良すぎる。
いや、良すぎて逆に入りづらい。
コンビニの自動ドアは、すぐそこにある。
ペットボトル一本買うだけなら、そっちの方が早い。
なのに俺は、気づけばその細い路地へ足を向けていた。
* * * * * *
カラン、と控えめなベルが鳴った。
扉を開けた瞬間、珈琲の香りがふわりと鼻先をくすぐった。
そこに、ほんの少しだけ煙草の匂いが混じっている。
薄暗い照明。
飴色になった木の床。
壁に掛けられた古い時計。
カウンターの端では、新聞を広げた男の人が黙って珈琲を飲んでいた。
奥のテーブル席では、年配の女性が二人、小さな声で話している。
にぎやかではない。
でも、静まり返っているわけでもない。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、低く落ち着いた声がした。
カウンターの向こうに立っていたのは、白いシャツに黒いベストを着た、五十代くらいの男性だった。
たぶん、この店のマスターだ。
大きな声ではない。
けれど、不思議と店の隅まで自然に届く声だった。
「お好きな席へどうぞ」
マスターはそう言って、こちらを急かすでもなく、ただ軽く手を添えるように店内を示した。
その仕草に、派手さはない。
でも、どこに座ればいいのか、自然と分かる。
俺は軽く頭を下げて、窓際の席へ向かった。
椅子に腰を下ろすと、すぐに水の入ったグラスが置かれる。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
グラスの底が、木のテーブルに小さく音を立てた。
それだけだった。
それだけなのに、少しだけ息がしやすくなった気がした。
マスターは、こちらに踏み込んでこない。
けれど、放っておかれている感じもしない。
必要な時に、必要な距離で、そこにいる。
――主人公にとっての“いつもの時間”として、そこにいる。
ヤマジの言葉が、ふと胸の奥で形を変えた。
* * * * * *
時計を見ると、十四時四十五分を少し過ぎていた。
そろそろ戻らないといけない。
分かっている。
分かっているのに、なかなか席を立てなかった。
この店の空気が、思った以上に居心地よかったせいもある。
けれど、それだけじゃない。
控室に戻れば、またあの空気の中に入らなければならない。
杉田さんの芝居を思い出す。
自分の歌が途中で止められた瞬間を思い出す。
結果を待つ候補者たちの顔を見ながら、十五時まで待っていなければならない。
それが、少し怖かった。
「……戻らないとな」
小さく呟いて、ようやく席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
会計を済ませると、マスターが静かに頭を下げた。
「お兄さん」
「え?」
思わず顔を上げる。
マスターは、俺の顔をまっすぐ見ていた。
けれど、そこに探るような色はない。
「また、疲れた時にでも寄ってください」
「……」
「うちは、そういう時に来るお客さんが多いので」
それだけだった。
何かあったのかとは聞かない。
これからどこへ行くのかも聞かない。
でも、何も見ていなかったわけじゃない。
たぶん、この人はちゃんと見ていた。
そのうえで、踏み込まない。
押しつけるでもなく、笑わせようとするでもない。
背中を押すでも、引き止めるでもない。
ただ、また来てもいい場所を、そっとひとつ置いてくれたみたいだった。
「……はい」
返事をしたら、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
「ありがとうございます」
俺はもう一度頭を下げて、店を出た。
* * * * * *
ドアを開けると、控室には候補者のほとんどが戻っていた。
午前中より、少し空気が重い。
誰も大きな声では話していない。
結果発表を待つ沈黙が、部屋全体に薄く張りついている。
壁際に、二十四番の北川くんがいた。
腕を組んで立っている。
審査中のガチガチ具合が嘘みたいに、今は少し肩の力が抜けて見えた。
目が合う。
話しかけるべきか。
いや、別にそこまで仲良くなったわけでもないしな。
そう思っていると、北川くんが軽く会釈した。
俺も、つられて頭を下げる。
そのまま何となく、北川くんの少し横に立った。
「……どうも」
「……どうも」
ぎこちない。
めちゃくちゃぎこちない。
発表予定の十五時までは、もうすぐだった。
その時間をひとりで待たなくていいだけで、少しだけ息がしやすくなった気がした。




