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ALIVE!42歳のおっさんが、国民的アイドルになった件。  作者: 舞見ぽこ
Chapter 3:Step Up Stage

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Track.67

 通話を切っても、耳の奥にはヤマジの沈黙が残っていた。


 励ましの言葉も。

 いつもの妙なネットスラングも。

 何も返ってこなかった。


 それが、余計にこたえた。


 駅前へ向かう道を、そのまま歩く。


 喉は渇いている。

 頭も冷やしたい。


 途中、ビルの壁際に置かれた自販機の前で足が止まった。


 水でも買うか。


 そう思って小銭入れを出しかけて、ふと値段を見る。


「……水も百五十円かよ」


 ただの水なのに、ジュースやお茶と同じ値段。


 自販機で水を買うようになったのって、一体いつ頃からだったんだろう。

 未来の感覚でいると、こういうところで地味にびっくりする。


 ……いや、今は水の値段に衝撃を受けている場合じゃない。


 小銭入れをポケットに戻して、また歩き出す。


 コンビニで飲み物でも買えばいい。

 店内なら、少しは落ち着けるかもしれない。


 そう思って駅前の通りへ出たところで、コンビニの看板が見えた。


 その少し手前。

 ビルとビルの隙間みたいな細い路地の奥に、小さな木の看板が出ていることに気づいた。


 ――喫茶 こもれび。


 古びた木の扉。

 少し色褪せた赤い庇。

 ガラス越しに、あたたかい灯りが滲んでいる。


 いかにも、昔からそこにありました、という顔をした店だった。


「……喫茶店」


 今の俺には、あまりにもタイミングが良すぎる。


 いや、良すぎて逆に入りづらい。


 コンビニの自動ドアは、すぐそこにある。

 ペットボトル一本買うだけなら、そっちの方が早い。


 なのに俺は、気づけばその細い路地へ足を向けていた。



 * * * * * *

 

 カラン、と控えめなベルが鳴った。


 扉を開けた瞬間、珈琲の香りがふわりと鼻先をくすぐった。

 そこに、ほんの少しだけ煙草の匂いが混じっている。


 薄暗い照明。

 飴色になった木の床。

 壁に掛けられた古い時計。


 カウンターの端では、新聞を広げた男の人が黙って珈琲を飲んでいた。

 奥のテーブル席では、年配の女性が二人、小さな声で話している。


 にぎやかではない。

 でも、静まり返っているわけでもない。


「いらっしゃいませ」


 店の奥から、低く落ち着いた声がした。


 カウンターの向こうに立っていたのは、白いシャツに黒いベストを着た、五十代くらいの男性だった。


 たぶん、この店のマスターだ。


 大きな声ではない。

 けれど、不思議と店の隅まで自然に届く声だった。


「お好きな席へどうぞ」


 マスターはそう言って、こちらを急かすでもなく、ただ軽く手を添えるように店内を示した。


 その仕草に、派手さはない。

 でも、どこに座ればいいのか、自然と分かる。


 俺は軽く頭を下げて、窓際の席へ向かった。


 椅子に腰を下ろすと、すぐに水の入ったグラスが置かれる。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 グラスの底が、木のテーブルに小さく音を立てた。


 それだけだった。


 それだけなのに、少しだけ息がしやすくなった気がした。


 マスターは、こちらに踏み込んでこない。

 けれど、放っておかれている感じもしない。


 必要な時に、必要な距離で、そこにいる。


 ――主人公にとっての“いつもの時間”として、そこにいる。


 ヤマジの言葉が、ふと胸の奥で形を変えた。


 

 * * * * * *

 

 

 時計を見ると、十四時四十五分を少し過ぎていた。


 そろそろ戻らないといけない。


 分かっている。

 分かっているのに、なかなか席を立てなかった。


 この店の空気が、思った以上に居心地よかったせいもある。


 けれど、それだけじゃない。


 控室に戻れば、またあの空気の中に入らなければならない。

 杉田さんの芝居を思い出す。

 自分の歌が途中で止められた瞬間を思い出す。

 結果を待つ候補者たちの顔を見ながら、十五時まで待っていなければならない。


 それが、少し怖かった。


「……戻らないとな」


 小さく呟いて、ようやく席を立つ。



「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


 会計を済ませると、マスターが静かに頭を下げた。


「お兄さん」


「え?」


 思わず顔を上げる。


 マスターは、俺の顔をまっすぐ見ていた。

 けれど、そこに探るような色はない。


「また、疲れた時にでも寄ってください」


「……」


「うちは、そういう時に来るお客さんが多いので」


 それだけだった。


 何かあったのかとは聞かない。

 これからどこへ行くのかも聞かない。


 でも、何も見ていなかったわけじゃない。


 たぶん、この人はちゃんと見ていた。


 そのうえで、踏み込まない。


 押しつけるでもなく、笑わせようとするでもない。

 背中を押すでも、引き止めるでもない。


 ただ、また来てもいい場所を、そっとひとつ置いてくれたみたいだった。


「……はい」


 返事をしたら、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。


「ありがとうございます」


 俺はもう一度頭を下げて、店を出た。



 * * * * * *


 ドアを開けると、控室には候補者のほとんどが戻っていた。


 午前中より、少し空気が重い。

 誰も大きな声では話していない。

 結果発表を待つ沈黙が、部屋全体に薄く張りついている。


 壁際に、二十四番の北川くんがいた。


 腕を組んで立っている。

 審査中のガチガチ具合が嘘みたいに、今は少し肩の力が抜けて見えた。


 目が合う。


 話しかけるべきか。

 いや、別にそこまで仲良くなったわけでもないしな。


 そう思っていると、北川くんが軽く会釈した。


 俺も、つられて頭を下げる。


 そのまま何となく、北川くんの少し横に立った。


「……どうも」


「……どうも」


 ぎこちない。

 めちゃくちゃぎこちない。


 発表予定の十五時までは、もうすぐだった。


 その時間をひとりで待たなくていいだけで、少しだけ息がしやすくなった気がした。

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