Track.65
「……ありがとう、ございました」
なんとか、それだけを絞り出して、頭を下げた。
頭を下げたまま、顔を上げられなかった。
「では、二十四番、二十五番、二十六番の方は以上です」
黒瀬さんの声がした。
終わった。
本当に、終わってしまった。
北川くんが、まだ緊張の残る顔で頭を下げる。
杉田さんも、静かに一礼した。
「ありがとうございました」
三人分の声が、ほとんど同時に重なる。
俺も、遅れないようにもう一度頭を下げた。
北川くんが先にドアへ向かう。
続いて、杉田さんが歩き出す。
俺もそのあとに続こうとした。
早く、この場から出たい。
杉田さんは最後まで歌った。
北川くんだって、俺よりは長く歌っていた。
なのに、俺は一コーラスにも届かなかった。
胸の奥が、まだ冷たい。
足元が少しだけ頼りない。
ドアの方へ一歩踏み出した、その時だった。
「一ノ瀬くん」
柔らかい声に、足が止まった。
先に出ようとしていた北川くんが、ちらりとこちらを見る。
杉田さんも、ドアの前で足を止めた。
え。
俺だけ?
心臓が、どくんと跳ねる。
「二十四番、二十五番の方は、そのまま控室へお戻りください」
スタッフに促されて、北川くんと杉田さんがスタジオを出ていく。
ドアが閉まる。
広いはずのスタジオが、急に狭くなった気がした。
声をかけてきたのは、黒瀬さんではなかった。
プロデューサーの神崎さんだった。
さっきまで、柔らかく笑っているだけで、ほとんど口を開かなかった人。
何を考えているのか、いまいち読めない人。
「はい」
声が、少し掠れた。
怒られるのか。
それとも、もう一度何かをやらされるのか。
神崎さんは、手元の資料に視線を落としたあと、ゆっくり顔を上げた。
「最後の台詞。どうして、あんなふうに声を落としたの?」
心臓が、どくんと跳ねた。
そこか。
やっぱり、変だったのか。
俺は無意識に、手のひらを握り込む。
「……主人公にだけ、聞こえればいいと思ったからです」
神崎さんは、表情を変えない。
「主人公にだけ?」
「はい。まず、サブローが接客している相手は主人公だと思いました」
口に出してから、少し怖くなる。
考えすぎだと言われるかもしれない。
そんな設定はどこにも書いていないと言われるかもしれない。
でも、ここまで来たら言うしかない。
「台詞の中に『いつもの』という言葉がありますし、課題曲にも『いつもの席』『いつもの声』とあったので」
神崎さんは黙って聞いている。
黒瀬さんも、白川さんも、驚いた顔はしなかった。
……つまり、そこはやっぱり、読んでいいところなのだ。
「だから、主人公はこの店の常連で、いつも同じ席に座って、いつもの珈琲を頼む人なんじゃないかと」
「うん」
神崎さんが、続きを促すように小さくうなずく。
「でも、歌詞には『開いたメニューをなぞる指』という言葉もありました」
俺は、できるだけ落ち着いて続ける。
「主人公がいつもの珈琲を頼む常連なら、本来はメニューを開かないと思いました。だから、そのメニューを見ているのは、主人公ではなくて……一緒に来た人なんじゃないかと」
黒瀬さんが、少しだけ口元をゆるめた。
さっきの即興を思い出す。
――今日はさ、少し格好つけた方がいいかな。
あの台詞は、やっぱりそこに乗ってくれていたんだ。
「たぶん、女性です」
言い切ってから、手のひらに汗がにじむ。
「だからサブローは、まずその人にも届くようにミルフィーユをすすめる。でも、主人公の注文はいつもの珈琲だと分かっている」
俺は、さっきの台詞を思い出す。
……やっぱり、いつものですか?
「あれは、連れの人に聞かせる言葉じゃないと思いました」
「それで、声を落とした?」
「はい」
俺は小さくうなずいた。
「店中に聞こえる声で聞くことでもないし、連れの女性に聞かせるための言葉でもない。主人公にだけ届けばいいと思いました」
いつも通りで大丈夫ですよ。
違うものを選んでも構いませんよ。
どちらにも逃げられるように、そっと置いた言葉。
「いつも通りでもいいし、違うものを選んでもいい。どちらでも大丈夫だと伝えるために、ああいう言い方になりました」
言い終えた瞬間、また静かになった。
やばい。
長い。
これは、やっぱり考えすぎだったか。
俺が固まっていると、神崎さんが小さく息を吐いた。
「そうか……」
その声は、叱るものでも、褒めるものでもなかった。
ただ、何かを確認したみたいな声だった。
神崎さんは手元の資料に視線を落とし、ペン先で軽く紙を叩く。
「うん。OK」
OK。
……え。
今の、OKなのか?
何が?
俺の答えが?
それとも、もう質問は終わりって意味か?
まったく分からない。
「ありがとう。下がっていいよ」
「……はい。ありがとうございました」
俺はもう一度、深く頭を下げた。
今度こそドアへ向かう。
背中に、審査員たちの視線を感じる。
歌は、一番早く止められた。
二十四番の北川くんみたいに、芝居と歌で空気が変わるギャップがあったわけでもない。
杉田さんみたいに、何もないスタジオに喫茶店を建てるほどの圧倒的な芝居も、舞台の奥まで届く声もない。
俺にあったのは、三行の台詞と歌詞をこねくり回した解釈だけだ。
……落ちた。
そう思った。
ドアの外へ出ると、スタッフさんが廊下で待っていた。
「お疲れさまでした。二次審査の結果発表は十五時以降になります」
「十五時以降、ですか?」
「はい。このあと別役の審査もありますので、少しお時間をいただきます。発表時間までには、控室へお戻りください。外出されても構いません」
「分かりました。ありがとうございます」
頭を下げて、控室へ戻る。
北川くんと杉田さんの姿は、もう控室にはなかった。
時計を見ると、まだ昼前だった。
十五時以降。
……長い。
長すぎる。
この精神状態で三時間以上待てと?
じっとしていたら、さっきの歌を途中で止められた場面ばかり思い出してしまう。
じっとしていられない。
喉が渇いた。
頭も冷やしたい。
俺は荷物を持って、控室を出た。
会場の外に出ると、冬の手前の空気が少しだけ冷たい。
駅前のコンビニで飲み物でも買おう。
そう思って歩き出したところで、ポケットの中の携帯に手が触れた。
……ヤマジ。
今朝の電話が、頭をよぎる。
『漏れは間違っていたかもしれん』
あの言葉がなかったら、俺はたぶん、もっと大きく、もっと分かりやすく、もっと“見せよう”としていた。
結果は分からない。
たぶん、落ちた。
でも。
一応、報告くらいはしておくか。
俺は携帯を取り出し、ヤマジの番号を呼び出した。
数コールもしないうちに、つながる。
『どやったん!?』
第一声が早い。
食い気味にもほどがある。
「早いな、お前」
『そりゃそうダロ。こっちは朝からずっと気になってたんだお! で!? 漏れの演劇アドバイスは効いたん!?』
その勢いに、思わず少しだけ笑ってしまう。
……さて、どこから話せばいいものか。




