Track.64
「では、二十六番の方。自己紹介からお願いします」
黒瀬さんの声が、静かに落ちた。
俺だ。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
まだスタジオには、杉田さんの歌の余韻が残っていた。
喫茶店の照明も、珈琲の香りも、主人公の沈んだ横顔も、全部そこにある。
その空気の中に、自分が立たされる。
……やりにくい。
やりにくすぎる。
握っていた台詞の紙が、かすかに震えていた。
俺は慌てて、それをもう片方の手で押さえる。
落ち着け。
世界の洋平と同じことをしようとするな。
そんなの無理だ。
できるわけがない。
だったら、俺は俺のサブローをやるしかない。
ヤマジの声が、頭の奥でよみがえる。
――あの役は、目立つ役じゃない。
そうだ。
サブローは、主人公の隣でスポットライトを浴びる役じゃない。
喫茶店の空気の中に、自然にいる役だ。
俺は震える手をぎゅっと握り込んだ。
小さく息を吸って、椅子から立ち上がる。
そして、一歩前へ出た。
「二十六番、ルクスプロダクション所属の一ノ瀬奏です。よろしくお願いします」
声は、少し震えた。
でも、途中で逃げなかった。
最後まで言い切って、頭を下げる。
黒瀬さんが資料に視線を落とし、それから顔を上げた。
「では、課題台詞をお願いします」
「はい」
俺は、台詞の紙を見なかった。
派手に見せようとしなくていい。
世界の洋平みたいに、何もない場所に喫茶店を建てられなくてもいい。
ただ、そこにいればいい。
この店で何度も客を迎えてきたサブローとして。
いつもの時間に、いつもの席へ、いつもの客を案内するように。
俺は肩の力を抜いた。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
声は張りすぎない。
けれど、ぼそぼそにもならない。
店の入口に立った客へ、自然に届くくらいの声。
毎日何度も言っている言葉みたいに。
今日だけ特別に用意した台詞じゃなく、サブローの体に染みついた接客の言葉として。
俺はほんの少し体を引き、席へ案内するように手を添えた。
「今日のおススメは、季節のミルフィーユです」
明るく。
でも、売り込むようには言わない。
いつもの説明を、いつもの調子で添えるだけ。
客が選びやすいように。
会話のきっかけが、少しだけ生まれるように。
それから俺は、主人公へ視線を戻す。
課題曲の歌詞が、頭の中で静かに鳴っていた。
いつもの席。
いつもの声。
それでも今日は違う気がした。
窓辺に揺れる午後の光。
開いたメニューをなぞる指。
そこが、ずっと引っかかっていた。
主人公は、いつもの珈琲を頼む常連客だ。
だったら、本来はメニューなんて開かない。
それなのに、今日はメニューが開かれている。
つまり――。
俺の声は、自然と少し落ちていた。
「……やっぱり、いつものですか?」
店内に響かせる声じゃない。
目の前の主人公にだけ届けばいい声。
いつも通りで大丈夫ですよ、と。
違うものを選んでも構いませんよ、と。
どちらにも逃げられるように、そっと置く。
それ以上は、踏み込まない。
言い終えたあと、数秒だけ間が空いた。
……長い。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
でも俺には、やけに長く感じられた。
何か、まずかったか?
長机の向こうで、プロデューサーの神崎さんがじっと俺を見ていた。
最初に見た時と同じ、柔らかい笑みを浮かべている。
けれど、その目の奥に、さっきまでとは違う光が宿っていた。
何かを測るような、確かめるような目だった。
「……いつもの、ね」
沈黙を破ったのは、黒瀬さんだった。
来た。
即興だ。
黒瀬さんも、ほんの少し声を落としている。
さっきの俺の声に合わせるみたいに。
「今日はさ、少し格好つけた方がいいかな」
格好つけた方がいい。
その言葉で、胸の奥に引っかかっていたものが、すとんと落ちた。
やっぱり、そうだ。
俺は、サブローとして小さくうなずいた。
「いつも通りで、よろしいかと思います」
「そう?」
黒瀬さんが、少しだけ口元をゆるめた。
「……じゃあ、やっぱりいつもの」
「かしこまりました」
俺は、静かにうなずいた。
「いつもの珈琲を、お持ちします」
黒瀬さんが、黙った。
また、一拍。
長机の向こうで、誰かのペンの音が止まった。
「……はい。ありがとうございます」
え。
終わり?
杉田さんの時みたいに、芝居が大きく広がるわけでもない。
黒瀬さんがさらに乗ってくるわけでもない。
ただ、静かに受け取られて、そこで終わった。
今ので、よかったのか?
それとも、広げられなかったと思われたのか?
手のひらに、じわりと汗がにじむ。
「では、続けて課題曲をお願いします」
「……はい」
白川さんが、MDコンポの再生ボタンに指を置く。
課題曲。
さっき杉田さんが、最後まで歌い切った曲だ。
あの声量。
あの響き。
一節で空気を変える、舞台の声。
俺に、同じことはできない。
でも、同じことをする必要もない。
観月先生に言われたことを思い出す。
誰に向けて。
どの言葉を。
どう届けるか。
俺のサブローは、店中に向かって歌わない。
目の前の主人公にだけ届けばいい。
短いイントロが流れる。
俺は息を吸った。
「♪ いつもの席 いつもの声」
声は、自然と少し抑えめになった。
小さいわけじゃない。
ただ、遠くへ飛ばす声じゃない。
目の前のテーブルに座る主人公へ、そっと置く声。
長机の向こうで、白川さんが譜面からわずかに顔を上げた。
ペン先が、紙の上で止まっている。
……え。
何か、引っかかった?
良い意味なのか、悪い意味なのかは分からない。
けれど、さっきまでとは少しだけ空気が変わった気がした。
「♪ それでも今日は違う気がした」
音程は外していない。
リズムも、大きくずれてはいないはずだ。
でも、杉田さんみたいな圧はない。
スタジオの空気を塗り替えるような声でもない。
それでもいい。
俺は、舞台の真ん中に立つサブローじゃない。
いつもの店の片隅で、変わらずそこにいるサブローだ。
「♪ 窓辺に揺れる午後の光」
歌いながら、ほんの少し視線を落とす。
そこへ、届けばいい。
「♪ 開いたメニューを――」
「はい。ありがとうございます」
白川さんの声が、静かに割り込んだ。
音が止まる。
MDコンポの再生ボタンが押され、スタジオに残っていた伴奏がぷつりと切れた。
え。
もう?
まだ、一コーラスも歌っていない。
二十四番の北川くんだって、もう少し歌っていた。
杉田さんなんて、最後まで歌い切った。
なのに、俺は。
ここで、終わり?
喉の奥に、続きの歌詞が残ったままになる。
頭が、真っ白になった。
やっぱり、サブロー役は圧倒的に杉田さんなんだ。
杉田さん以外の候補者は、もう見る必要がない。
俺の歌なんて、最後まで聴く価値もない。
そう判断されたのかもしれない。
胸の奥が、すっと冷たくなる。
……終わった。
そう思った。
でも、ここで黙り込むわけにはいかない。
俺は震えそうになる息を、無理やり押し込める。
「……ありがとう、ございました」
なんとか、それだけを絞り出して、頭を下げた。




