Track.63
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
柔らかい声だった。
杉田さんの視線が、ほんの少し斜め前へ流れる。
手のひらが自然に開き、相手を席へ案内する。
その瞬間、何もないはずのスタジオに、喫茶店の入り口が見えた気がした。
扉を開けて入ってきた主人公がいて。
杉田さんは、その歩幅に合わせるように一歩引いて。
席まで導いている。
相手役なんていない。
セットもない。
それなのに、杉田さんの視線と表情だけで、そこに誰かがいるように見えてしまう。
うわ。
これが、舞台をやってきた人の芝居か。
さすが世界の洋平。
何もない場所に、喫茶店を建てた。
「今日のおススメは、季節のミルフィーユです」
声が、ほんの少し明るくなる。
押しつけがましくはない。
けれど、その一言に、店の空気までふっと華やいだように見えた。
たぶん主人公は、もう席についてメニューを開いている。
杉田さんは、その横に立っている。
……はずなのに。
目が離せない。
俺の視線は、どうしても杉田さんに吸い寄せられる。
今回俺が受けるサブローは、主人公が通う喫茶店のウェイター役だ。
名前のある役の中では一番出番が少ないらしい。
チョイ役、と言ったら美央さんに怒られそうだけど、少なくとも物語の中心に立つ役ではない。
そのはずなのに。
サブローなのに。
ウェイターなのに。
杉田さんがいる場所が、舞台の真ん中に見える。
なんかもう、登場人物として強い。
「……やっぱり、いつものですか?」
最後の一言だけ、少しだけ声の温度が変わった。
明るく勧める声ではない。
かといって、心配を前に出す声でもない。
いつもと同じ席。
いつもと同じ注文。
でも、今日は何かが違う。
そんな小さな違和感に気づいたみたいに。
それでも、踏み込まない。
声を潜めすぎず、距離を詰めすぎず、ただ注文を確認する形で置かれた一言だった。
……いや、上手いな。
たった一言で、主人公がどんな顔をして座っているのかまで見えそうになる。
黒瀬さんが、少しだけ身を乗り出す。
「いつもの、ね。……今日は、少し苦いものが飲みたい気分なんだ」
来た。
即興だ。
杉田さんは、一瞬だけ目を伏せた。
相手の言葉をちゃんと受け取ったように見えた。
「……かしこまりました」
杉田さんの声が、ほんの少しだけやわらかくなる。
「では、いつもの珈琲を」
そこで、ほんの少しだけ間を置いた。
杉田さんは、黒瀬さんを見ていた。
即興で投げられた台詞を受けて、目の前にいる相手役の表情を読む目だった。
「ご一緒に、少し甘めのベリーソースを添えたミルフィーユはいかがですか?」
ベリーソース。
世界の洋平、出してくる単語までお洒落。
俺ならせいぜい「砂糖多めにしときますね」くらいしか出てこない。
「甘めのミルフィーユ?」
黒瀬さんの目が、すっと細くなる。
「はい」
杉田さんは穏やかに微笑んだ。
「苦いものが欲しい日ほど、甘いものも少し必要だと思いますので」
「勝手にすすめるんだ?」
「すすめるだけです」
杉田さんは、少しだけ視線を下げた。
黒瀬さんの表情を確かめるような、静かな間だった。
「いらなければ、いつもの珈琲だけお持ちします」
「……へえ」
黒瀬さんが、ほんの少し笑った。
「じゃあ、それをもらおうかな」
「ありがとうございます。すぐにお持ちします」
杉田さんは、静かに一礼した。
それだけで、注文を受けたウェイターがテーブルを離れていく姿まで見えた気がした。
歩いてもいない。
皿も持っていない。
もちろん、目の前に客なんていない。
それなのに、今の一礼だけで、喫茶店の空気がふっと遠ざかる。
終わり方まで綺麗か。
世界の洋平、隙がない。
「はい。ありがとうございます」
黒瀬さんがそう言うと、杉田さんはすっと表情を戻した。
さっきまで喫茶店にいたサブローが、何事もなかったように二十五番の候補者へ戻る。
うわ。
切り替えまで速い。
「では、続けて課題曲をお願いします」
「はい」
白川さんが、手元のMDコンポに視線を落とす。
再生ボタンが押され、短いイントロが流れた。
杉田さんが、静かに息を吸う。
「♪ いつもの席 いつもの声」
最初の一節で、スタジオの空気が変わった。
声量がある。
けれど、ただ大きいだけじゃない。
まっすぐで、よく通る声だった。
マイクなんてない。
劇場でもない。
ただのオーディションスタジオだ。
それなのに、その声は長机の向こうまで一気に届いて、壁に反響する手前で綺麗に止まる。
うわ。
これが、舞台の声か。
音程が合っているとか、リズムが正確とか、そういう次元じゃない。
一音目で、こちらの耳を掴まれる。
一節で、目の前の空間が変わる。
さっきまで何もなかったスタジオに、喫茶店の照明が灯ったような気がした。
「♪ それでも今日は違う気がした」
次のフレーズで、杉田さんの視線がわずかに動いた。
たぶん、主人公を見ている。
席についた主人公が、いつものように笑っていない。
メニューを開いているのに、文字を追っていない。
珈琲を待つ横顔に、少しだけ影がある。
そんなものまで、見えてしまいそうだった。
歌っているのは、サブローだ。
主人公を案内して、注文を取って、少し甘めのベリーソースを添えたミルフィーユをすすめたウェイター。
そのはずなのに。
目が離せない。
サブローの一言。
サブローの視線。
サブローの歌声。
全部が、舞台の真ん中に立っているみたいに見える。
強い。
強すぎる。
世界の洋平、歌っても世界の洋平だった。
課題曲の最後の音が、スタジオにすっと溶けていく。
誰も、すぐには口を開かなかった。
白川さんは譜面から顔を上げたまま、じっと杉田さんを見ている。
神崎さんは、柔らかい笑みを浮かべたまま、目だけはまったく笑っていない。
黒瀬さんも、さっきより少し前のめりになっていた。
乗ってる。
完全に乗ってる。
やがて白川さんが、ゆっくりとペンを置いた。
「……はい。ありがとうございます」
「ありがとうございました」
杉田さんが静かに頭を下げる。
その所作まで、綺麗だった。
スタジオの空気が、まだ杉田さんの歌を引きずっている。
喫茶店の照明も。
珈琲の香りも。
主人公の沈んだ横顔も。
全部、そこに残ったままだ。
……いやいやいや。
この空気のあとに、俺?
やりにくすぎる……!!
手漕ぎボートのレースに、黒船が横づけしてきたようなものじゃないか。
こっちはオールを握ってぷるぷるしているのに、向こうは大砲まで積んでいる。
勝負の土俵が違いすぎる。
「では、二十六番の方。自己紹介からお願いします」
黒瀬さんの声が、静かに落ちた。




