Track.62
第四スタジオの中へ入ると、空気が一段、変わった。
さっきまで廊下にあったざわめきが、ドア一枚でぱたりと切り離される。
広いスタジオの奥には長机が置かれ、その向こうに四人の審査員が並んでいた。
二十四番の青年は、見るからに固まっていた。
歩くたびに、手と足が同時に出そうなくらい緊張している。
一方、杉田さんは落ち着いていた。
余裕そう、というより、無駄な力が入っていない。
ただ歩いて、指定された位置へ向かうだけなのに、ひとつひとつの所作が洗練されていて、自然と目を引かれる。
さすが世界の洋平。
歩くだけで画になる。
俺はというと、もちろん緊張していた。
していたが、二十四番の青年のガチガチ具合を見ているうちに、逆に少しだけ冷静になっていた。
……大丈夫。
少なくとも、手と足はまだ別々に出ている。
広いスタジオの奥には長机が置かれ、その向こうに四人の審査員が並んでいた。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
中央に座っていた男性が、手元の資料に目を落としてから顔を上げる。
「演出の黒瀬です。こちらから順に、音楽監督の白川、プロデューサーの神崎、制作の三浦です」
紹介された三人が、それぞれ軽く会釈する。
黒瀬さんは四十代半ばくらいだろうか。
穏やかそうな声なのに、こちらを見る目だけは妙に鋭い。
音楽監督の白川さんは、手元に譜面を置いた落ち着いた雰囲気の女性。
プロデューサーの神崎さんは柔らかく笑っているが、どこか読めない。
制作の三浦さんは、資料に細かくメモを取っていた。
「これより、新作ミュージカル『F.T.(仮)』、サブロー役の二次審査を行います」
二次審査。
え。
いつの間に一次通ってたの、俺。
……いや、今それを考えている場合じゃない。
「まずは簡単な自己紹介。その後、課題台詞、続けて課題曲を歌っていただきます」
黒瀬さんが淡々と説明する。
「課題台詞のあと、こちらから少しお芝居を返す場合があります。その時は、《《役のまま》》答えてください」
役のまま答える。
つまり、即興あり。
聞いてない。
いや、聞いていたとしても困るけど。
「それでは、そちらの椅子におかけください」
促されて、俺たちは番号順に並んだ椅子へ腰を下ろした。
「二十四番、二十五番、二十六番の方ですね」
黒瀬さんが手元の資料に目を落とす。
他の審査員たちも、それぞれ履歴書のような紙に視線を走らせていた。
そこには、名前や所属事務所、これまでの出演歴なんかが書かれているのだろう。
「では、二十四番の方。自己紹介からお願いします」
「は、はいっ!」
二十四番の青年が、弾かれたように立ち上がる。
「に、二十四番、北川陸です! えっと、所属は、えっと……」
声が完全に上ずっていた。
見ているこっちまで胃がきゅっとなる。
なんとか自己紹介を終えると、黒瀬さんが小さくうなずいた。
「では、課題台詞をお願いします」
「い、いらっしゃいませ! こちらへどうぞ!」
声が大きすぎた。
「きょ、今日のおススメは、季節のミルフィーユです!」
今度は早い。
早口すぎて、ミルフィーユがほぼミルヒーユみたいになっている。
「……や、やっぱり、いつものですか?」
最後だけ妙に弱々しかった。
そこで、黒瀬さんがふっと顔を上げた。
「うん。いつものをお願い」
え。
続くのか、これ。
二十四番の青年の肩が、びくっと跳ねた。
「か、かしこまりました! いつものですね!」
「はい。ありがとうございます」
黒瀬さんが穏やかにうなずく。
……終わった。
一往復。
いや、終わらせてもらった、の方が近いかもしれない。
「では、続けて課題曲をお願いします」
「は、はいっ」
二十四番の青年が譜面を持ち直す。
白川さんの前には、小さなMDコンポが置かれていた。
白川さんが再生ボタンを押すと、短いイントロが流れる。
大丈夫か。
思わずそう思った、その時だった。
「♪――」
歌い出した瞬間、空気が変わった。
さっきまで上ずっていた声が、すっと伸びる。
震えは残っている。けれど、音程はぶれない。
何より、声に芯があった。
白川さんが、手元の譜面から顔を上げる。
黒瀬さんも、ほんの少し目を細めた。
……上手い。
自己紹介も台詞もあんなにガチガチだったのに、歌になると全然違う。
二十四番の青年は、課題曲を途中まで歌ったところで、白川さんに止められた。
「はい。いいですよ」
「は、はいっ。ありがとうございました!」
また少し声が上ずる。
けれど、さっきとは違う。
審査員たちは、ちゃんと彼の歌を聞いていた。
やばい。
このオーディション、誰も簡単には落ちてくれない。
「では、二十五番の方。自己紹介からお願いします」
「はい」
世界の洋平――もとい、杉田さんが立ち上がった。
その瞬間、空気が少し変わった気がした。
大げさな動きは何もない。
椅子から立ち上がって、一歩前に出る。
ただそれだけなのに、視線が自然とそちらへ吸い寄せられる。
「二十五番、ホンダプロ所属の杉田洋平です。舞台を中心に活動しています。本日はよろしくお願いいたします」
低くて、よく通る声。
それだけで、自己紹介がもう芝居みたいに聞こえる。
いや、違う。
芝居みたいに飾っているんじゃない。
声の置き方が、最初から違うんだ。
黒瀬さんが小さくうなずいた。
「では、課題台詞をお願いします」
「はい」
杉田さんは、台詞の紙を一度だけ見た。
それから、ゆっくり顔を上げる。
さっきまで廊下で話していた穏やかな青年の顔から、ふっと余計なものが消えた。




