Track.58
レッスンが終わって、汗を拭きながら荷物をまとめていた時だった。
「一ノ瀬君、ちょっといい?」
顔を上げると、美央さんがレッスンスタジオの入り口に立っていた。
久々に会った美央さんは、テラコッタ色のちびカーデに白いスキニーパンツを合わせた、洗練されたスタイルだった。
相変わらずお洒落で、スタイルもいい。
つい見惚れてしまってから、そういえばと思う。こうして美央さんとちゃんと顔を合わせるの、二か月ぶりくらいかもしれない。
俺が仕事をもらえない限り、基本はレッスンだけの日々だったからだ。
「はい」
なんだろう。
この間の“きびす事件”の件じゃないよな、と一瞬だけ嫌な予感がよぎる。
「DUEL主演のミュージカルで、若手キャストのオーディションがあるの」
美央さんはそう言って、手元の書類を一枚めくった。
「主人公に憧れて、ウェイターを辞めて同じ会社に入る新人役で……」
その一言に、顔を上げる。
元ウェイター。
主人公に憧れて、飛び込む新人。
それ、あまりにも――
「その役に、一ノ瀬君はどうかって、DUELの二人から話が出たの」
「……え」
心臓が、どくんと鳴る。
「まだ決定じゃないわ。ただ、候補の一人として名前が挙がってるの」
そこまで聞いて、俺の頭はようやく追いついた。
候補。
オーディション。
DUEL主演。
ミュージカル。
そして――俺。
「え? 俺がミュージカルに出演ですか!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「出演が決まったわけじゃないの。これから受けてもらうオーディションで、ちゃんと役を取らなきゃいけない」
「は、はい……いや、でも、オーディションって」
頭が追いつかない。
「いつですか?」
「一週間後」
「え、……え?」
一週間後?
「オーディション急すぎないですか!? な、何の準備をすればいいんです?」
「一ノ瀬君、落ち着いて」
美央さんが苦笑しながら、そっと書類を差し出してくる。
「台本の抜粋と、課題曲、それから簡単な概要は今日渡せるわ。歌と芝居、両方見ることになると思う」
歌と芝居。
そこまで聞いて、俺はますます固まった。
少し前までなら、歌にはそれなりに自信があった。
でも今は違う。ボーカルレッスン中級の洗礼を浴びたばかりだ。
観月先生に“なんとなく伝わる歌”だの“歌詞を覚えるのは当然”だの、しっかり現実を突きつけられている。
その上、芝居だって?
芝居なんて、まともにやったことないぞ。
小学生の頃の学芸会ですら、一番セリフの少ない役を選んだ気がする。
「し、芝居って……どういう練習すれば?」
そう聞くと、美央さんは苦笑しながら手元の書類を整えた。
「まずは台本を読むこと。役の流れをつかんで、どういう子なのか考えるの」
「そのうえで、指定のシーンを実際にやってもらうことになると思う」
台本を読む。
役を考える。
実際にやる。
言われていることはわかる。
わかるが、わかるのとできるのは別問題だ。
「だ、大丈夫か、俺……」
「大丈夫かどうかは、これから決まるの」
美央さんはそう言って、俺に書類を差し出した。
「でも、一ノ瀬君に合うかもしれないって思われたから、こうして話が来たのよ」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
嬉しい。
でも、それ以上に戸惑う。
DUEL主演のミュージカル。
しかも一週間後にオーディション。
急すぎる。
急すぎるし、俺はミュージカルなんてものを、ほとんど別世界の話として生きてきた。
テレビで見るもの、舞台で輝く誰かのもの、自分とは縁のない華やかな世界——そういう認識だった。
それが今、急に目の前へ降ってきたのだ。
しかも役どころが、元ウェイターで、主人公に憧れて会社へ飛び込む新人。
そんなの、他人事みたいに聞けるわけがない。
「……そんなの、受けるしかないじゃないですか」
気づけば、そう言っていた。
美央さんが、ふっと笑う。
「ええ。私もそう思う」
その一言で、少しだけ腹が決まった。
怖い。
でも、ここで逃げるのは違う。
あの夜、勝太郎でDUELの二人を見て、俺も誰かの心を照らせる存在になりたいと思った。
その二人が俺の名前をあげてくれたのなら、なおさらだ。
「……オーディション、受けます」
自分の声が、思ったよりちゃんと出た。
「うん。まずは台本と課題曲、ちゃんと読んで。焦るのはわかるけど、一つずつ整理していけばいいから」
「……はい」
書類を受け取る。
紙の重みが、妙に現実的だった。
* * * * * *
「マ? 一ノ瀬氏、ミュージカル出演とか!?」
「しーっ! 声でかい!」
俺は慌ててヤマジを制した。
放課後、いつものファミレス。
周りには部活帰りらしい高校生や、ドリンクバーで粘っている大学生グループまでいる。
こんな場所でアイドルだのミュージカルだの叫ばれたら、こっちは普通に死ぬ。
「出演決定じゃない。これからオーディションがある。一週間後、だ」
声を潜めてそう言うと、ヤマジは目を見開いたまま、ぐっと身を乗り出してきた。
「急すぎん?」
「一ノ瀬氏、次はミュージカルとか、展開が雑に強すぎるんだが」
「それは俺がいちばん思ってる」
俺は小さくため息をついた。
「ミュージカルの練習なんて、何をすればいいんだ……」
するとヤマジが、ぽん、と俺の肩に手を置いた。
それから妙に芝居がかった動作で、ぐっと親指を立てる。
「任せろ」
「何を」
「漏れ、ミュージカル観たことあるお」
「観たことあるだけかい!!」
「あれは……忘れもしない――!」
ヤマジが、急に芝居がかった低い声を出した。
「公演四日目のことだった……!」
「やめろ。急に物語を語り出すな」
俺が引き気味に突っ込んでも、ヤマジはもう止まらない。
むしろ目をギラつかせたまま、前のめりで続けた。
「まつりタソが、出だしを間違えたところから始まった第二幕第三場!!
夢タソもつられてトチる。
会場全体が“あっ”となったあの空気……漏れは今でも忘れていない」
そこでヤマジは、無駄に芝居がかった動きで天を仰いだ。
「そして桃タソもそれに続くと思われたが――!!」
ヤマジがテーブルをばんっと叩く。
「だがっ!! 桃タソは違った!!
起死回生のアドリブで見事な軌道修正!!
全てを飲み込み、アドリブひとつで流れを正道へ戻したあの瞬間!!
あれはもう、舞台の神が桃タソに降りたとしか思えんかった!!
漏れは囁いたね。これは後世に語り継がれる伝説のミュージカルになる、と……!!」
ほとんど息継ぎもせず、ヤマジは一気にまくしたてた。
「待て。いったい何のミュージカル観たんだよ」
俺がそう聞くと、ヤマジは眼鏡をチャッと押し上げた。
「ドキッ♡ぱにぱにロード ~恋と友情のトラブル急行!?~」
「えっ、何それ」
「声優ユニット、ぱにぱにまじっくの初ミュージカル作品だろ常考」
更にヤマジは無駄にキリッとした顔を作る。
「桃タソのアドリブ力、伝説級なんだぜ☆」
「偏りがすごいんよ」
――少なくとも、俺の相談相手のミュージカルの知識がだいぶ偏っていることだけは確かだった。




