Track.55
昼からのボーカルレッスンが始まった。
軽いストレッチと発声を終えて、今日も中級はすぐに歌唱へ入る。
何人か歌い終わったあと、俺の番が来た。
昨日、観月先生に言われたことを頭の中でもう一度なぞる。
誰に向けて。
どの言葉を。
どう刺すか。
譜面を見つめる。
『――まぶしい背中を追いかけて
遠ざかる踵の音だけ 胸に残った』
このフレーズだ。
遠ざかっていった彼女に向けて。
もう届かないかもしれない、それでも祈るみたいに。
ただ追いかけるんじゃない。置いていかれた痛みごと、まっすぐ差し出すみたいに。
(……ここだ)
バチン、と何かがはまる感覚があった。
俺は息を吸って、歌い出す。
最初の一行。
次の一行。
そして、そのフレーズに入る。
♪――まぶしい背中を追いかけて
遠ざかる《きびす》の音だけ 胸に残った
(……よし!)
今の、入った。
昨日より、ちゃんと刺した。
自分でもわかる。今のフレーズは、かなり良かった。
……と、思った次の瞬間だった。
レッスン場の空気が、妙にざわついた。
ほんの小さく。
でも、たしかに。
(……ん?)
前の列の何人かが、一瞬だけ顔を見合わせる。
あのレンくんをいじめていた中学生たちまで、口元をひくっとさせていた。
観月先生も、譜面を見たまま、すっと眉をひそめる。
え、何。
今の、そんなに悪かった?
わからないまま続きを歌おうとした、その時だった。
「……“きびす”やなくて、“かかと”」
小さな声が、横から飛んできた。
「え?」
ちらっと横を見る。
少し離れた位置にいた、明るい髪の少年が、口元だけで笑いながら、譜面の一点を指で示していた。
俺は慌てて歌詞カードを見る。
踵。
(あ)
脳内で、何かがつながった。
(“きびす”って読んでたけど、“かかと”だった……!?)
やばい。
何だこの空気。
次の瞬間、観月先生が無言で曲を止めた。
しん、とスタジオが静まり返る。
漢字間違えるわ、
めちゃくちゃ感情込めて《きびす》って歌うわ、
しかも心の中では「これで届いた……か!?」って、ちょっとドヤってたわ。
最悪である。
四十二歳にもなって、何やってんだ俺……!
もう、俺のほうが踵を返して帰りたくなった。
……でも。
これまで、いくつもの恥ずかしい修羅場を越えてきた俺だ。
これしきのことで逃げるわけにはいかない。
ぎゅっと一度唇を結んで、顔を上げる。
「……あの、すみません。もう一度、“まぶしい背中を追いかけて”から歌わせてください」
観月先生は何も言わず、軽く顎を引いた。
その無言のままの合図が、逆にちょっと怖い。
俺はもう一度、息を吸う。
今度こそ、間違えない。
そう思って歌い直した。
♪――まぶしい背中を追いかけて
遠ざかる《かかと》の音だけ 胸に残った
……言えた。
今度はちゃんと、かかとって言えた。
でももう、気持ちを乗せるどころじゃない。
頭の中は「間違えるな、間違えるな」でいっぱいで、さっきまで掴みかけていた“誰にどう刺すか”なんて、全部すっ飛んでいた。
歌い終わったあと、観月先生が静かに言う。
「昨日も言ったけど、音程とかリズムは前提」
やわらかい声なのに、胸にはしっかり刺さる。
「それ以前に、歌詞を覚えるのは当然だから」
「……はい」
やっぱり消えたい。
そのあとの俺は、もう完全にしょんぼりしていた。
レッスン自体はまだ続いていたし、観月先生の指示に合わせて声も出したし、ちゃんと最後まで立っていた。
でも心の中ではずっと、《きびす》が反復横跳びしていた。
遠ざかる《きびす》の音だけ、胸に残った——じゃないのよ。
俺の黒歴史だけが、今ものすごい勢いで胸に残ってるのよ。
しかも最悪なことに、あのモブAだかBだかCだかDだかまで、微妙に肩を揺らしていた。
おい。お前らは笑うな。
レンくんをいじめてるやつに笑われる筋合いはない。
……いや、今回に関しては、ちょっと笑われても仕方ない気もするけど。
そんな微妙に死にたくなる空気を引きずったまま、レッスンは終了した。
「はい、お疲れさま。次は歌詞、ちゃんと見といてね」
観月先生が最後に念押しするようにそう言って、空気がふっと緩む。
研究生たちがそれぞれ水筒をしまったり、譜面をまとめたりし始める。
俺も黙々と荷物を片づけた。
今日はもう、誰とも目を合わせたくない。
とりあえず静かに帰りたい。
そう思いながら鞄のファスナーを閉めた、その時だった。
「一ノ瀬君?」
後ろから、明るい声が飛んできた。
振り向くと、さっきレッスン中に小声で「かかと」と教えてくれた、明るい髪の少年が、にこっと笑って立っていた。
「君、おもろいな~」
「……へ?」
間の抜けた声が出る。
少年はくすっと笑って、肩をすくめた。
「“かかと”やなくて“きびす”って読んでたん、だいぶおもろい」
うわああああ。
そこ来るか。
いや来るよな。
そりゃ来るよな。
「……いや、ずっと“きびす”って読んでた気がする」
「なんでやねん」
即ツッコミだった。
しかも、テンポがいい。
自然すぎる。
悔しいが、ちょっと面白い。
彼はまだ楽しそうに笑っている。
「きびすとも読むし、わからんでもないけど」
「だよな!!」
思わず前のめりになる。
すると彼が、間髪入れずに突っ込んだ。
「いや、漢字だけ見たらやで?」
「うっ」
容赦がない。
「きびすの音て! シュッ!!みたいな?」
「あんだけ気持ちこめて歌われたら、想像してもうて余計おもろかったわ」
「やめてくれ」
俺はたまらず額を押さえた。
「俺のほうが踵返して帰りたくなったわ」
そう言うと、彼は一瞬だけ目を丸くした。
それから、堪えきれないみたいに口元をゆるめる。
「……っ、はは」
肩を揺らして笑ってから、楽しそうに目を細めた。
「うまいこと言うやん」
「いや、笑いごとじゃないんだけど」
俺がそう返すと、彼はまだ少し笑いを引きずったまま、軽く手を差し出した。
「俺、立花レオ」
その名前を聞いた瞬間、頭の中で何かがつながった。
(えっ)
明るい髪色。
整った顔立ち。
そこへ自然に乗る関西弁。
(この完成されたルックス……まさか)
立花レオ。
未来のALIVEで、場を回して、空気を明るくして、ツッコミまでこなすムードメーカー。
その男が、目の前で楽しそうに笑っていた。




