Track.54
レッスンが終わってスタジオを出ても、頭の中はまださっきのままだった。
観月先生の言葉。
レンくんの歌。
そして、本人の口から飛んできた「余計なことするな」。
情報量が多い。
朝からずっと多い。
譜面を鞄にしまいながら廊下を歩いていると、エレベーター前の壁にもたれていた五十嵐君が、こっちに気づいて軽く手を上げた。
「終わった?」
「あ、五十嵐君」
「お疲れ。昼行く?」
言い方が軽くて、変に気を遣っていない。
その一言だけで、少し肩の力が抜けた。
「行く。むしろ助かる」
「よかった」
五十嵐君は小さく笑って、エレベーターのボタンを押した。
* * * * * *
社員食堂で向かい合って座ると、五十嵐君が先に口を開いた。
「で、中級どうだった?」
「……普通に衝撃だった」
そう返すと、五十嵐君が少し笑う。
「そんな顔してる」
「そんなに?」
「うん。だいぶ食らった顔」
見たまま言われただけなのに、ちょっと救われた。
「……で、何が衝撃だった?」
「いや、いろいろあるけど」
いろいろありすぎて、逆にまとまらない。
観月先生のこと。
中級の空気。
歌のレベル。
そして、レンくん。
「……やっぱ、レンくんかな」
口に出した瞬間、自分でもいちばんそこに引っかかっていたんだなと思った。
「すごかった?」
「すごかった。なんか、同じ曲歌ってるように聞こえなかった」
「やっぱり目立つよね。彼」
「うん……いや、ほんとに」
ルックスがどうとか、歌が上手いとか、そういうひとことで済まない。
立ってるだけで目を引くし、歌えばなおさら空気が変わる。
正直、同じ研究生って言われても、まだ少し実感がない。
「今、十五歳だっけ?」
「たしかそう」
「十五であれって、ちょっと反則じゃない?」
「まあ、反則だよね」
五十嵐君は苦笑しながら、肩をすくめた。
「彼。俺よりかなり先輩だし、あのルックスに歌唱力あって、ダンスもできて、ドラマとかも出てるし。そりゃやっかむやつはいるよね、って感じ」
その言い方が妙に現実的で、俺は思わず箸を止めた。
「……今日さ、レンくん、ちょっと絡まれてたんだよ」
五十嵐君も箸を止める。
「絡まれてた?」
「うん。しょうもない雑用押しつけたり、断ったら感じ悪いとか言ったり。で、俺、つい口出しちゃって」
そこまで言うと、五十嵐君は少しだけ苦い顔をした。
「……ああ。いたよ、そういうの」
「やっぱり前から?」
「うん。ダンスの中級で一緒だったときも、ちょこちょこ。荷物いじったり、雑用押しつけたり。露骨じゃないけど、地味に嫌なやつ」
「うわ……」
「でも、朝倉君、わりと飄々としてたよ。いちいち反応しないっていうか。流すの上手いんだよね、あの子」
そこで俺は、今朝のレンくんを思い出した。
「……だから余計なことするな、なのか」
「え?」
「あ、いや」
少し迷ってから、観念する。
「俺さ、口出したあとレンくんに大丈夫?って聞いたんだよ」
「うん」
「そしたら、“余計なことするな”って言われた」
五十嵐君がぱちぱちと目を瞬いたあと、ふっと息を漏らした。
「……ああ。言いそう」
「言いそうなの?」
「いや、なんか……助けられた、みたいになるの嫌そうじゃない?」
その言葉に、少しだけ納得する。
今日のレンくんは、たしかにそういう顔をしていた。
「……でも、歌はすごかった」
「うん」
「あれはほんと、すごかった」
同じ曲だったのに。
同じ課題だったのに。
俺の歌と、レンくんの歌は、まるで届き方が違った。
「観月先生にも言われた。俺の歌は上手いけど、“なんとなくしか伝わらない”って」
「……俺にはそこまでわかんないけど」
五十嵐君はそう言ってから、少しだけ考えた。
「でも、一ノ瀬君がそこで引っかかってるのは、でかいんじゃない?」
「でかい?」
「うん。俺だったら、たぶん上手いねって言われた時点で満足してると思う」
その言い方が、妙に五十嵐君らしかった。
「……そりゃ、悔しかったから」
「うん。そういうの、大事だと思う」
ハンバーグをひと口食べて、俺は小さく息を吐いた。
「……中級、思ってたよりだいぶしんどいかもしれん」
向かいで五十嵐君が少し笑う。
「うん。今の話だけでお腹いっぱいなんだけど」
「だよなあ……」
それでも、レンくんの歌だけは、まだ耳の奥に残っていた。
気持ちがあるだけじゃ足りない。
なんとなく伝わるだけじゃ足りない。
狙って届かせる歌。
その領域があることを、今日初めてちゃんと知った気がした。
* * * * * *
翌日。
昼からのボーカルレッスンへ向かいながら、俺はひとりで小さく頷いていた。
昨日のことは、まあ、反省している。
中学生相手に「中学生じゃないんだから」とか言ってしまったし、レンくんには余計なことするなと睨まれた。あれは完全に、こっちが張り切りすぎた結果だろう。
だから今日は、普通にいく。
爽やかに挨拶だけ。
余計なことはしない。
変に首を突っ込まない。
……ただし、レンくんが本気で困ってそうなら、その時は別だ。
そこはさすがに放っておけない。
よし。
完璧だ。
そんなことを考えながらスタジオに入ると、少し離れたところにレンくんの姿が見えた。
グレーのトレーナーにベージュのパンツ。今日も今日とて、やたら絵になる。
(うん)
(落ち着け俺)
(今日は普通に、だ)
俺はさりげなく歩み寄って、できるだけ自然な声を出した。
「おはよう、レンくん」
レンくんが、ちらっとだけこっちを見る。
その目が一瞬こちらをかすめて——
そのまま、すっと視線が外れた。
返事は、ない。
ないまま、レンくんは自分の荷物を置いて、何事もなかったみたいにスタジオの奥へ行ってしまった。
……ええ?
俺は、その場で固まった。
いやいやいや、待って。
昨日は余計なことしたからだと思ってたんだけど?
今日は何もしてないよね?
ただ爽やかに挨拶しただけだよね?
(どゆこと?)
頭の中で、警報が鳴る。
(え、俺)
(レンくんに嫌われてる――?)
——その時だった。
その少し離れたところで、一部始終を見ていた少年が、ふっと口元をゆるめた。
「……ん~~? なんか、こじれてるやん」
おかしそうに目を細める。
「面白くなりそうやな。これから」




