Track.53
何人か進んだところで、ついに俺の名前が呼ばれた。
「一ノ瀬くん」
「は、はい!」
前に出る。
譜面を持つ手に、じわっと汗がにじんだ。
(落ち着け)
(歌は……歌は大丈夫だろ)
ダンスならともかく、歌は俺の土俵だ。
インディーズとはいえ、現場にも立ってきた。場数だけなら、たぶんここにいる誰より踏んでいる。
深呼吸をひとつして、歌い始める。
最初の一行は悪くなかったと思う。
二行目も、そのまま流れに乗れた。声もちゃんと出ている。変に震えてもいない。
(よし)
そのままワンコーラスを歌い切る。
観月先生はすぐには何も言わなかった。
譜面を見て、それから俺を見る。
「うん。上手いね」
胸の奥が、少しだけ浮く。
「音程も安定してるし、変に怖がってないのもいい。ちゃんと気持ちも乗ってる」
(よし……!)
やっぱり。
歌なら、いける。
だけど、その次の一言で、その気持ちはきれいに止まった。
「ただ、まだ“なんとなく伝わる歌”なんだよね」
「……え?」
観月先生は譜面の一点を軽く叩いた。
「今の一番、君は自分が気持ちいいところで膨らませたでしょ。でも、聴いてる側に届くポイントはそこじゃない」
言われて、言葉が詰まる。
たしかに膨らませた。
自分の感情が乗りやすいところで、自然にそうした。
でも、それが違う?
「その歌詞、誰に向けて歌ってる?」
「……誰、に……」
「うん。相手がまだ曖昧なんだよね」
「だから、気持ちはあるのに届き方がぼやける」
観月先生の声は静かだった。
静かなのに、妙に逃げ場がない。
「悪くないよ。むしろ、感情を出すのを怖がってないのは強み。でもその先。“なんとなく伝わる”から、“狙って届かせる”に上がるには、そこを決めないと」
俺は譜面を見る。
見ても、急にはわからない。
誰に向けて。
どの言葉を。
どう届けるか。
そんなこと、今まで考えて歌ったことがあっただろうか。
「……もう一回、いいですか」
気づけば、そう言っていた。
観月先生は少しだけ目を細めた。
「いいよ。今度は二行目の相手を決めて」
二行目の相手。
頭の中で歌詞をなぞる。
その向こうに誰かを置こうとする。
でも、急にはうまくいかない。
それでも、もう一度歌う。
さっきより意識はした。
したけれど——歌い終えた瞬間、自分でもわかった。まだ、何かがぼやけている。
「うん。今のほうがいい。でも、まだ浅いかな」
観月先生はそう言って譜面を閉じた。
「君、表現するのは上手い。でも、“どこに届けるか”がまだ甘い」
その言葉が、胸に残った。
表現はできている。
でも、届け方が甘い。
歌ならやれる、とは思っていた。
その“やれる”の先に、まだこんな段階があるのか。
観月先生はそこで、次の名前を呼んだ。
「朝倉くん」
その瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。
レンくんが前に出る。
さっきまで俺に「余計なことするな」と吐き捨てたのと同じ人間とは思えないくらい、歩くだけで絵になる。
(いや……まあ)
(天使は間違いだったかもだけど、やっぱり絵にはなるんだよな……)
複雑な気持ちで見ていると、レンくんが息を吸う。
そして、歌い出した。
最初の一音で、思わず顔を上げた。
(……えっ)
上手い。
それはもちろんそうだ。
でも、そういう言い方だと足りない。
声がどうとか、音程がどうとか、そういうことじゃない。
ちゃんと、まっすぐ届いてくる。しかも押しつけがましくなく、すっと入ってきて、気づいたら残っている。
同じ譜面。
同じメロディ。
なのに、さっき自分が歌ったものとは、まるで別物に聞こえた。
(……これか)
うまく言葉にならない。
でも、さっき観月先生が言っていたことの意味だけは、少しだけわかった気がした。
レンくんの歌は、ただ気持ちが乗っているだけじゃない。
どの言葉を、どこで、どう届かせるかを決めて歌っている。
そんなふうに聞こえた。
歌い終わる。
観月先生は短く頷いた。
「うん。そこはいい」
「二行目の抜きも正解。今の届かせ方は悪くない」
届かせ方。
やっぱり、そこなんだ。
観月先生はそのまま、こちらを見た。
「一ノ瀬くん」
「は、はい!」
「今の朝倉くんの歌、何が違ったかわかる?」
言葉が出ない。
でも、違いは確かにあった。それだけはわかる。
「……届き方、ですか」
観月先生は少しだけ笑った。
「そう。気持ちがあるかどうかじゃない。どの言葉を、どこで、誰にどう刺すか。朝倉くんはそれを決めて歌ってる」
刺す。
その表現に、妙に納得した。
たしかに、そうだ。
レンくんの歌は、ただ綺麗に流れていくんじゃない。ちゃんと残る。しかも、狙って残している感じがする。
俺は譜面を見下ろした。
さっきまでただの歌詞だった文字が、急に難しく見える。
歌にも、まだ上がある。
それを思い知った、中級初日だった。




