Track.52
観月先生はそれ以上何も言わず、軽く手を打った。
「じゃ、始めようか。ストレッチから入るね」
その一言で、スタジオの空気がきれいに切り替わる。
研究生たちが、それぞれ慣れた動きで散っていく。
壁際に荷物を寄せるやつ、鏡の前へ入るやつ、水筒を足元に置くやつ。初級のときと、迷いのなさは同じだった。
どうやら、これが中級の日常らしい。
俺は一瞬だけ立ち尽くす。
(あ、やば)
(どこ行けばいいんだこれ)
そんな俺に、観月先生がすぐ気づいた。
「一ノ瀬くん、後ろでいいよ。そこ空いてるでしょ」
「あ、はい!」
助かった。
慌てて後ろの空いている位置へ入る。
譜面台の横に、今日の課題らしい譜面がまとめて置かれているのも見えた。なるほど、そのへんも各自で取る感じらしい。
「いくよ。まず首から」
観月先生の声は大きくない。
でも、不思議なくらいよく通る。
研究生たちが一斉に首を倒す。
俺も半拍遅れて合わせた。
初級の青木先生のときみたいに完全放置ではない。
でも、手取り足取りでもない。
……なんか、この先生、距離感が独特だなと思った。
肩を回しながら、ちらりと前を見る。
レンくんは何事もなかったみたいな顔で、もうストレッチに入っている。
……いや、本当に何だったんださっきの。
助けたつもりで「大丈夫?」と顔をのぞき込んだら、「余計なことするな」と低い声で返された。
あまりに想定外すぎて、まだ脳が処理を拒否している。
しかもそこへ、最先端のイケオジ先生が現れて、場の空気を一言で持っていった。
情報量が多い。
朝イチで処理するには、だいぶ多い。
観月先生はスタジオの前に立ったまま、全体を見渡して言った。
「中級、初めての子もいるし一応言っとくけど。ここは“上手く歌えました”で終わるクラスじゃないからね」
その一言だけで、また少し空気が変わった。
中級。
一筋縄ではいかない気がしてきた。
首の次は肩だった。
「上げて、落とす。力入れすぎないでね。もう一回」
観月先生の声に合わせて、研究生たちが一斉に肩をすくめる。
俺も慌てて真似する。
初級のときより、流れが速い。
ひとつひとつの動きにいちいち説明があるわけじゃないのに、みんな迷わない。置いていかれないように必死でついていくだけで、こっちは地味に忙しい。
肩の次は背中。
その次は脇腹。
横へ倒した瞬間、身体の固さが容赦なく主張してきた。
(いっっ……)
AYA先生のレッスンで少しはマシになったと思っていたけど、こういう基礎の動きになると誤魔化しがきかない。
しかも中級の連中は、ただ伸ばしているだけなのに妙に自然だ。変な力みがない。レンくんなんて、何事もなかったみたいな顔で身体を倒しているだけなのに、普通に絵になる。何なんだあれは。ストレッチにまでスター性いる?
「一ノ瀬くん、無理して折らなくていいよ。今日は柔軟大会じゃないから」
観月先生の声が飛んできて、スタジオのどこかでくすっと小さな笑いが漏れた。
「す、すみません……!」
「謝らなくていい。歌う前に壊れないのが一番大事だから」
やっぱりこの人、やわらかく言うのにちょっと刺してくる。
でも、青木先生のときみたいに「ちゃんとやれ」で空気が固まる感じはない。
そのぶん、変に縮こまらずに済むのはありがたかった。
ストレッチは初級より短めで終わった。
続いて、そのまま発声に入る。
「じゃ、リップロールから。息だけで押さないでね。ちゃんと音も乗せて」
ぶるるる、と唇を震わせる音がスタジオに重なる。
その時点で、初級とは違うなと思った。
みんな、普通にできている。
いや、初級でも上手い子はいた。
でも、こっちは“できるかどうか”を確認する感じじゃない。最初から、その先の精度を見ている空気がある。
「もう一回。今度は響き、もう少し上ね」
観月先生の声に合わせて、もう一度。
次はハミング、その次は母音を揃えた短いフレーズ。どれもテンポがいい。止まらない。迷わない。観月先生も、ここでは誰かを大きく止めたりはしなかった。
発声がひと通り終わったところで、観月先生が譜面台のほうへ目をやった。
「まだ譜面取ってない子いる?」
その声に、俺は反射的に手を挙げた。
見ると、俺のほかにも何人かがぱらぱらと手を挙げている。
「はいはい。じゃあ前から回して」
観月先生がそう言うと、譜面台の近くにいた研究生が紙束を手に取って、後ろへ順に回し始めた。
俺のところにも一部届く。
曲名を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
(あ、知ってる)
PRISMの夏のヒットナンバーだった。
初級でもずっと先輩たちの曲を歌ってきたけど、中級でもそこは同じらしい。
初級では、ここまで譜面を使って細かく見る感じは強くなかった。
歌う。合わせる。基礎を見る。
でも今日は、最初からその先をやるつもりらしい。
観月先生は譜面を片手に、さらっと言った。
「音程とかリズムは、とりあえず前提ね」
前提。
その言葉だけで、また少し空気が変わる。
「もちろん外していいって意味じゃないよ。でも、そこはもう自分で持ってきてもらわないと困るから。今日見るのはその先」
観月先生は譜面の一部を指先で示した。
「どこでブレスを取るか。どの言葉を立てるか。どこを流して、どこを残すか。そういうの、ちゃんと見るから」
スタジオが静かになる。
「気持ちを乗せるのは大事。でも中級は、“気持ちあります”だけじゃ足りない。なんとなく伝わる歌じゃなくて、狙って届かせる歌にしていこう」
その言葉が、妙に胸に残った。
(狙って届かせる……)
気持ちを込めて歌う、ならわかる。
感情を乗せる、もわかる。
でも、届けるために組み立てる、みたいなことは、今まであまり意識してこなかった。
観月先生はそこで譜面を軽く閉じた。
「じゃ、ひとりずついこうか。ワンコーラス。順番に」
……え、もう?
俺は思わず瞬いた。
初級みたいに、まず先生が手本を見せて、何回かみんなで合わせて、それから少しずつ……みたいな段階を踏むんじゃないんだ。
助走なんかない。
もう歌える前提。
そういう空気で、さらっと始まる。
(うわ)
(これが中級なんだ……)
前列から順に名前が呼ばれていく。
中級の研究生たちは、誰も大げさに緊張した様子を見せない。けれど、歌い出した瞬間にわかる。ああ、みんな普通に上手いんだな、と。
音程が安定している。
声も通る。
しかも、ただ声量があるだけじゃない。それぞれにちゃんと色がある。
(うわあ……)
軽くへこみそうになる。
いや、ここでへこんでる場合じゃないんだけど。
観月先生のコメントは短い。
「そこ、語尾流さない」
「二行目、ブレス早いかな」
「今の“好き”は自分に酔ってるね」
「そこは悪くない。残し方いいよ」
やわらかい言い方なのに、妙に刺さる。
言われた側もすぐ歌い直している。止められるのが特別なことじゃない。ここではそれが普通なんだろう。
何人か進んだところで、ついに俺の名前が呼ばれた。
「一ノ瀬くん」
「は、はい!」
前に出る。
譜面を持つ手に、じわっと汗がにじんだ。




