Track.51
その瞬間、腹の奥で何かがぴきっと鳴った。
気づけば、足が前に出ていた。
パンっ、と手を叩く。
乾いた音がスタジオに響いて、何人かがぴたりとこっちを見た。
「君たちさ~、中学生じゃないんだから」
わざと少しゆるい調子で言う。
でも、ただの軽口では終わらせない。そんなことしてる暇があるなら、もっとやることあるだろ——という空気をまとって、そのまま連中とレンくんのあいだに入った。
「そういうのに脳みそ使う元気があるなら、発声でもしてたほうがよくない?」
どうだ。
これが四十二歳。大人の対応ってやつだ。
……と、思った次の瞬間。
「は?」
明るい髪のやつが、あからさまに眉をひそめた。
「俺ら中学生ですけど~?」
しまった。
中学生相手に「中学生じゃないんだから」と言ってしまったぞ。
後ろで、くすっと笑う声がした。
「何このおっさん」
全く容赦がない。
だが、ここでひるんではいけない気がした。
俺は軽く片眉を上げて、わざとらしく小さく頷く。
「……あー。失礼」
一拍置く。
「君たちが《《あまりにも余裕ありそうなもんだから》》高校生くらいに見えてた」
一瞬、空気が止まる。
我ながら、なかなか嫌な返しだった。
「でも、中学生ならなおさらかな。そういう尖り方、普通にかっこ悪いよ」
空き缶を持ったまま固まっているやつに視線を向ける。
「レンくんのこと、やっかむなら、そういうとこでチクチクやるんじゃなくて、歌で勝てばいいじゃん」
そう言ってから、俺はリーダー格っぽい明るい髪のやつを見た。
「正々堂々と、ね」
軽く片眉を上げて、トドメを刺してやる。
どうだ、中坊。
これが大人のたしなめ方ってもんだ。
もちろん、相手が素直に引き下がるわけはない。
「は? 何こいつ、マジでウザいんだけど」
「急に入ってきて説教とか何様?」
「つーか、おっさんが混ざってくんなよ」
全く口が減らない。
ガキってすごい。語彙はまだ育ちきってないのに、うざさだけは一人前だな。
とはいえ、さっきまでみたいな薄ら笑いは止まっていた。
少なくとも、これ以上ちょっかいを出す空気ではなくなっている。
ならまあ、ひとまず目的は達成だ。
(よしよし)
(ここは大人として、これ以上は追撃せずにだな……)
俺は小さく鼻を鳴らしてから、くるっと踵を返した。
そのまま、レンくんのほうへ向かう。
さっきまでのやりとりのあいだも、レンくんはほとんど口を挟まなかった。
譜面を持ったまま、少し下を向いている。
(……やっぱ気にしてるよな)
そりゃそうだ。
あんなふうに絡まれて、平気なわけがない。
俺はレンくんの前まで行って、少しかがみこんだ。
「レンくん、大丈夫?」
顔をのぞき込む。
うん。
やっぱり天使だ。
伏せられた睫毛まで綺麗だし、少し翳った表情すら絵になる。
こんな至近距離で見ても破綻しないの、どういう構造なんだ。
……と、思った次の瞬間。
「……お前」
低い声が落ちてきた。
俺はぱちっと瞬いた。
うん?
お前?
……お前?
天使の口からもれる言葉じゃないぞ?
レンくんが、ゆっくり顔を上げる。
その目は、さっきまでモブAたちに向けていた無表情とも違っていた。
「余計なことするな」
睨まれた。
「………………へ?」
脳が、理解することを拒否した。
いや、待ってほしい。
今、俺は完全に助けた側では?
むしろちょっとカッコよく間に入った側では?
なんなら今の流れ、軽く好感度上がるイベントでは?
(えっ)
(何で怒られてるの俺??)
頭の中で状況がまったく整理できない。
その時だった。
スタジオの扉が開いた。
「騒がしいね」
低く、よく通る声。
空気が、一瞬で引き締まった。
入ってきたのは、ひとりの男だった。
三十代後半くらい。
背は高めで、細身なのに妙に目を引く。
黒髪は後ろでひとつにまとめられていて、サイドはすっきり刈り込まれている。マンバンってやつだろうか。ラフな黒のカットソーにジャケットというシンプルな格好なのに、なぜかそこだけ雑誌の一ページみたいに見える。気だるそうにも見えるし、妙に張りつめても見える。不思議な人だった。
顔立ちは、普通にかなり整っている。
いや、かなりどころじゃない。
普通にイケメンだ。
しかも、ただ爽やかなだけじゃない。
業界人っぽい色気がある、というか、近づいたらちょっと危なそうな空気をまとっている。
(……うわ)
(最先端のイケオジだ)
その男はスタジオの中をひと通り見渡したあと、ふっと小さく息をついた。
怒鳴るでもなく、苛立ちを露骨に見せるでもない。
なのに、さっきまで口の減らなかったモブAたちまで、ぴたりと黙っている。
空気が変わったのがわかった。
ざわめきが消える。
誰かの水筒の蓋が小さく鳴る音まで聞こえそうなくらい、スタジオが静かになる。
男は譜面台の前まで歩いていって、無造作にファイルを置いた。
それから、こちらを振り返る。
「初めまして、かな。中級ボーカル講師の観月 怜也です」
やっぱり、この人が先生か。
観月先生はひと通りスタジオの中を見渡してから、ふっと小さく息をついた。
「……朝から元気なのは結構だけど、レッスン前に消耗しないでくれると助かるかな」
声音はやわらかい。
けれど、妙に逃げ場がない。
笑っているわけでもないのに、言葉の端にうっすら笑みみたいなものが混じっていて、それが逆にちょっと怖い。
(あ、これだ)
(こういうタイプがいちばん怖いやつだ)
怒鳴り散らす先生のほうが、まだわかりやすい。
この人はたぶん、笑顔で急所を刺してくるタイプだ。
——こうして、俺のはじめての中級レッスンは、なかなか穏やかじゃない幕開けで始まった。




