Track.50
十一月二日、土曜日。
朝の空気が、先週までより少しだけ冷たかった。
駅から事務所まで歩いているあいだ、手の甲にひやりと秋の空気が触れてきて、ああもう十一月か、と思う。
ルクスプロダクション本社のガラス張りのビルを見上げながら、俺は首元を軽く押さえた。
今日は——中級ボーカルレッスンの初日だ。
先週までと同じ十階。
同じボーカルフロア。
違うのは、入るスタジオと、そこにいる人間だけ。
エレベーターに乗り込んで、閉まる扉に映った自分の顔を見る。
別に顔色が悪いわけじゃない。寝不足でもない。
ただ、なんとなく口元が固い。
嬉しい。
それは間違いない。
青木先生に「来週から中級に行け」と言われたとき、心臓が追いつかなかったくらいには。
歌でなら前に進めている。その実感は、ダンスで何度も置いていかれてきたぶん、想像以上にでかかった。
でも、嬉しいだけで済まないのも事実だった。
中級。
たった二文字なのに、なんか妙に強そうだ。
別に修羅の国だと思っているわけじゃない。
ただ、初級より上のクラスなんだから、そりゃできるやつが増えるんだろうし、年齢層だって上がるんだろう。
どんな空気なのか、どんなやつがいるのか、実際に入ってみるまでわからないぶん、勝手に身構える。
(……まあ、普通に緊張するよな)
チン、と音がして、十階に着いた。
見慣れた廊下だ。
初級のボーカルレッスンでも通ったフロアだから、壁も照明も、スタジオの並びももう覚えている。
だからこそ、余計に変な感じがした。同じ場所なのに、今日は腹の底だけが落ち着かない。
ポケットから仕事用携帯を出して、研究生用掲示板をもう一度確認する。
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【本日のスケジュール】
10:00〜 歌唱レッスン(中級クラス)
場所:10F ボーカルスタジオB
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……うん、知ってる。
さっきも見た。
でも、こういうのは見たくなるものだ。確認したところで何かが変わるわけじゃないが、確認しないと逆に落ち着かない。
携帯をしまい、ボーカルスタジオBの前で立ち止まる。
深呼吸をひとつしてから、扉を開けた。
中には、すでにかなりの人数が集まっていた。
(うわ、多っ)
ざっと見て二十人前後。初級より明らかに多い。
しかも、小学生もいるにはいるが、そればかりじゃない。
中学生、高校生くらいに見える子もかなり混じっている。
ストレッチをしているやつ。
軽く発声しているやつ。
譜面を見返しているやつ。
水を飲みながら談笑しているやつ。
初級みたいにわちゃわちゃしているわけじゃない。
でも、静まり返っているわけでもない。
ちゃんと人がいて、ちゃんとざわめいているのに、全体に少しだけ張りつめた空気があった。
ああ、中級ってこういう感じか、と思う。
上手いやつが目立つ、というより、できるやつが普通にいる感じ。
立ってるだけで「あ、こいつ場数踏んでるな」とわかるような子が、何人かいる。
そして、その中に——俺が入る。
うん。
まあ、普通にビビる。
でも、ここで壁際にそっと移動して、目立たないように小さくなっているのも違う気がした。
俺は腹をくくって、一歩前に出る。
「一ノ瀬奏です! 本日からよろしくお願いします!」
声が、スタジオの中へすぱんと通る。
一瞬、空気が止まった。
(……あっ)
(やっぱちょっと声デカかった?)
だが、今さら小さくしとけばよかったとも思わない。
挨拶はしたほうがいい。
そこは大人として譲れない。
……いや、今は十九歳なんだけども。
数人がこっちを見る。
新入りを見る目だ。
へえ、という顔もあれば、誰だこいつ、みたいな顔もある。
その中に、見覚えのありすぎる顔がひとつ混じっていた。
朝倉レン。
窓際寄りの位置に立っていたその姿を見た瞬間、やっぱりちょっと思う。
(うわ……やっぱ天使だな……)
いや、自分でも何を言ってるんだと思う。
でもしょうがない。
そう見えるんだからしょうがない。
宣材撮影の日に初めて見たときも衝撃だったが、レッスン着の自然体でこれなのか、と思うと、なんというかもう反則だ。
白っぽいパーカーに黒のパンツ。それだけなのに、普通に絵になりすぎている。
顔が整っている、というだけじゃない。
そこだけ空気が澄んで見える感じがする。
俺は2025年の朝倉レンを知っている。
アイドルグループALIVEの絶対的エース。
そして、のちに俳優としても怪物みたいな才能を見せる男。
でも今、目の前にいるのはまだ中学生くらいの少年で、そのあどけなさと完成度の高さが妙に噛み合っていて、余計に現実味がない。
(同じ人間かな……)
思わずそんなことを考えた、そのときだった。
後ろのほうで、声が上がった。
「なあ朝倉、それ俺のなんだけど」
そっちを見ると、レンくんの足元にスポーツドリンクのペットボトルが転がっていた。
ラベルの派手なやつだ。
言ったのは、明るめの髪の中学生くらいの少年だった。
その周りに、似たような年頃の男子が三、四人いる。
レンくんは足元を見て、それから相手を見た。
「……知らないけど」
「いや、ずっとそこにいたじゃん」
「つーか、落ちてたなら拾ってくれればいいのに」
言い方は軽い。仲間内のノリみたいな声色だ。
でも、耳に入った瞬間にわかる。
(あー……めんどくさいやつだ)
レンくんの返事は短かった。
「僕のじゃないし」
「感じ悪」
すぐに返ってきたその言葉に、周りがくすっと笑う。
……何だそれ、と思う。
落ちてたものを拾わないだけで、感じ悪い認定。理屈として薄すぎるだろ。
でも、こういう薄い理屈ほど、妙にうっとうしいのも事実だった。
レンくんはそれ以上言い返さなかった。
少しだけ立ち位置をずらして、自分の譜面ファイルへ手を伸ばす。
すると今度は、別の一人が空の缶をひらひら振りながら言った。
「朝倉、ついでにこれ捨てといてよ」
「あと俺のも」
「お前どうせ今ヒマでしょ?」
(いやいやいや)
雑すぎるだろ、その押しつけ方。
レンくんの目が、すっと冷えた。
「自分でやれば」
「は?」
「何その言い方」
「やっぱそういうとこなんだよな」
また笑いが起きる。
その瞬間、腹の奥で何かがぴきっと鳴った。
(あー、もうダメだ)
ペットボトルの時点でちょっと嫌な感じはしていた。
でも、これはもう完全にアレだ。
雑用を押しつけて、断ったら「感じ悪い」で悪者扱い。
やってることが、あまりにもしょうもない。
気づけば、足が前に出ていた。




