Track.49
あれから、さらに一か月が過ぎた。
平日は大学生。休日はボーカルとダンスのレッスン。相変わらず、二足の草鞋みたいな生活だ。
大学のほうは、すっかり日常になった。講義にも慣れたし、ゴリや東とつるんだリ、ヤマジたちとファミレスに流れ込む放課後も、もう当たり前になっている。もちろん、何をやっても「これ、単位大丈夫か?」と不安になる授業は今でもある。だが、それはそれとして、なんとか食らいついている。
一方で、研究生としての週末も止まらない。
ボーカルのほうは順調だった。相変わらず、歌唱前の柔軟になると青木先生の周囲だけ空気がすっと冷える気がするが、そこを越えてしまえば、もう怖くはない。課題曲もいつの間にか四曲目に入っていて、気づけば俺ひとりで手本みたいに歌わされる場面も増えてきた。
「じゃあ一ノ瀬、頭から」
そう言われて、俺が最初のフレーズを歌う。
「続けて」
そのあとに、他の研究生たちが重なる。
最初の頃は小学生たちに混じってレッスンを受けるだけでも妙な気恥ずかしさがあったのに、今ではそういう流れすら自然になっていた。青木先生は相変わらず仏頂面だし、褒め言葉だってほとんどない。だけど、それでも前に進んでいる実感はあった。
問題は、やっぱりダンスだ。
こっちは、そう簡単にはいかない。
それでも、まったく変わっていないわけじゃなかった。基本のボックスステップは、ようやくAYA先生のメモなしでもみんなと一緒に踏めるようになっていた。
普通なら数分から数時間で覚えるらしいそのステップを、俺は二か月かけてようやく身体に入れたのだ。
何度もやっていれば、できるようになる。
その事実は、思っていたよりずっと大きかった。
何度も練習した課題曲も、なんとか手と足を両方動かせるようにはなった。もちろん、しなやかさなんて言葉とは無縁だ。
動きは固いし、切り返しもぎこちない。小学生たちのほうがよっぽど軽やかに見える。
それでも、できるようにはなった。
ただし——新しいステップが入ると、話は別だ。
そこでまた、手と足がばらばらになる。
結局、足から。あるいは手から。ひとつずつ身体に入れていくしかない。近道なんてなかった。
でも、その遠回りが、少しずつ怖くなくなってきていた。
* * * * * *
十月二十七日、日曜日。
その日のレッスンは、午前がダンス、午後がボーカルだった。
ダンスは相変わらずだった。できるところは増えた。だけど、新しい振りに入った瞬間、見事なくらい身体が止まる。AYA先生が額に手を当てて「そこまで綺麗に止まれるのも才能だよねえ……」と苦笑していたから、たぶん止まり方に関してだけは一流なのだと思う。
そして午後。
ボーカルレッスンが終わり、研究生たちがそれぞれ水筒をしまったり、荷物をまとめたりし始めた頃だった。
「一ノ瀬、ちょっと来い」
青木先生に呼ばれた。
低く、短い声。
俺は思わず背筋を伸ばした。
(……え?)
周囲の空気が一瞬で遠のく。
研究生たちのざわめきも、スタジオの床を擦る音も、急に薄くなった気がした。
(何かやったか?)
(いや、やったかもしれん)
(柔軟? 姿勢? 歌う前に変な顔してた?)
心当たりが多すぎる。
俺は妙な緊張を抱えたまま、青木先生の後について別室へ入った。小さなミーティングルームみたいな部屋だった。閉まる扉の音がやけに重く聞こえる。
青木先生は俺のほうを向く。
表情はいつも通り、厳しいままだ。
怒られる。
そう思って、無意識に喉を鳴らした、そのときだった。
「来週から、中級に行け」
「……え?」
一瞬、意味が入ってこなかった。
「ボーカルレッスンだ。来週から初級じゃなくて中級に入れ」
「え!!」
思わず声が裏返る。
「ほ、本当にですか!?」
「嘘を言ってどうする」
いつもの調子で返される。
だが、こっちは心臓が追いつかない。
「元々、お前は初級のレベルじゃない」
青木先生は淡々と続けた。
「発声も音程も安定している。表現も悪くない。基礎の確認は十分やった。これ以上、初級に置いても意味がない」
その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ落ちてきた。
初級のレベルじゃない。
それは、想像していたよりずっと嬉しい言葉だった。
この一か月、ダンスでは何度も置いていかれてきた。できないことを数える日のほうが、正直多かった。
だから、そのぶんだけ、歌まで「まだまだだ」と言われたら少し堪える気がしていたのだと思う。
でも、違った。
ちゃんと見てくれていた。
ちゃんと評価されていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……先生」
「なんだ」
「今まで、お世話になりました!!」
勢いよく頭を下げる。
青木先生は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく息をついた。
「そこまで感謝されることではない」
「いや、でも……!」
「中級でも頑張るように」
相変わらず仏頂面のまま、言葉だけがまっすぐ落ちてくる。
けれど、その不器用な一言が、かえって胸に沁みた。
「……はい!」
顔を上げると、青木先生はもう次の書類に目を落としていた。これ以上はない、という空気だ。だが、それでいい気がした。
充分だった。
部屋を出てスタジオに戻る廊下で、俺はひとり、そっと息を吐いた。
嬉しい。
めちゃくちゃ嬉しい。
歌でなら、前に進める。
その実感が、胸の奥にじわじわと広がっていく。
もちろん、ダンスはまだ全然だ。基本のボックスステップのマスターまで二か月かかった男だから。先は長い。長すぎる。
それでも——
ひとつ、確かに進めた。
そう思えたことが、何より大きかった。




