Track.44
午後の講義が終わるころには、朝の緊張もだいぶ薄れていた。
もちろん、全部思い出したわけじゃない。ノートの取り方も、教授の癖も、教室移動の流れも、その場その場で身体が勝手に反応しているだけだ。
記憶として綺麗に戻ってきたわけじゃない。だが、それでも午前中みたいな「どこに立てばいいか分からない」感覚は、かなり薄くなっていた。
チャイムが鳴り、学生たちがぞろぞろと席を立つ。
俺もノートを閉じて立ち上がろうとした、そのときだった。
「一ノ瀬氏」
すぐ後ろから、妙に改まった声。
振り返ると、ヤマジがわざとらしく眼鏡をくいっと上げ、意味ありげな顔でこちらを見ていた。
「今日の、アニ研の活動は長期戦の構えでファミレス直行だお」
「長期戦の構えって何だよ」
「コミケ明けだからな。成果報告会が始まるだろ常考」
ああ、なるほど。それは、長くなる。
しかも、かなりの確率でどうでもいい方向に。
ヤマジの言葉だけで、ファミレスのドリンクバー、山積みの戦利品、オタク特有の早口、そしてどんどん追加されるポテトの姿が脳裏に浮かんだ。
「行くよな? 一ノ瀬氏」
「……行くしかない流れだろ、それ」
「話が早くて助かる」
ヤマジは満足げにうなずいた。
ゴリが鞄を肩に引っかけながら、こっちを見る。
「なんだ? またアニ研か」
「またって何だよ。俺、アニ研なんだから当たり前だろ」
「ハハハハ⤴ いや、お前、見た目だけなら絶対そっちじゃねえし」
「見た目だけなら、ゴリのほうが絶対ラグビー部だろ」
「やめろハハハハ⤴」
ゴリは笑いながら俺の肩をばしんと叩いた。重い。痛い。こいつ、運動苦手なくせに一発一発の圧だけは無駄に強いんだよな。
東も椅子を机の中に押し込みながら、面倒くさそうにこちらを見た。
「アニ研って、今日もファミレスなの?」
「冷房きいてるし、ドリンクバーあるし、気づいたら朝まで語れるやん。あそこ、最強のオタクの拠点だお」
「うわ、濃そう」
「東氏も一緒にどう?キリッ」
ヤマジが、イケボで誘いをかける。
東は一瞬だけ顔をしかめ、それから肩をすくめた。
「いや、キョーミね〜(笑)」
「デスヨネ~」
ヤマジが、分かりきっていたみたいに頷く。
「じゃ、また明日」
「おう」
「またな」
ゴリと東に軽く手を振って別れ、俺とヤマジは講義棟を出た。
外の空気は、朝よりやわらいでいた。日差しはまだ明るいが、真夏みたいな刺す暑さじゃない。
九月の頭らしく、夏の名残の中に、ほんの少しだけ秋が混じっている。
半袖の学生が多い。けれど、薄手のシャツを羽織ったやつや、七分袖のカットソーを着ているやつもちらほら見かけた。
ああ、そうか。
二〇〇〇年代って、こういう感じだった気がする。
二〇二五年だと、十月に入っても真夏みたいな顔をしていたから。残暑、なんて言葉でごまかせる暑さじゃなかった。
たった二十年で、こんなに違うのか。
ヤマジがいつもの調子で前を歩く。リュックの肩紐が片方だけずり落ちかけているのに、本人はまったく気にしていない。こいつ、本当に昔から変わらないな。
「タケゾーと近藤は既にファミレスに到着済だお」
「……ああ」
その名前を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが少しだけ繋がった。
タケゾー。近藤。
一回生の頃から、アニ研でつるんでいた濃い連中。ヤマジとはまた違うベクトルで、濃い。
歩きながら、その二人の輪郭を探る。
タケゾーは、小太りで、汗をかくとすぐハンカチを出すタイプだった気がする。
興奮すると声が一段上がる。好きな作品の話になると、誰も止められなくなる。
近藤は、小柄で、やたら目だけが鋭い。
普段は無口寄りなのに、何かのスイッチが入ると急に早口になり、語彙が中二病っぽくなる。
あれは演出なのか地なのか、今でもよく分からなかった。
そんなぼんやりした記憶を拾っているうちに、大学近くのファミレスが見えてきた。
ガラス扉の向こうに、夕方前の中途半端な時間らしい、まだまばらな客席が見える。
学生らしい集団もいるが、夕食にはまだ早い時間帯だ。ドリンクバー目当ての長居勢には、ちょうどいい。
ヤマジが当然みたいな顔で先に入る。
「待ち合わせだお」
案内しようとした店員にそう告げると、店の奥へすたすた進んでいく。
大学近くのファミレスだけあって、こういう学生の待ち合わせには慣れているのか、店員も「あ、どうぞ」と特に気にした様子もない。俺もそのまま後についていった。
奥のボックス席。
そこに、すでに二人の男が陣取っていた。
「ややっ、ヤマジ殿に、一ノ瀬殿!」
先に立ち上がったのは、少し小太りで、いかにもオタク然とした男だった。メガネ、丸顔、やや前のめりな姿勢。テーブルの脇には大きめの紙袋が二つ、すでに置かれている。中身はたぶん、コミケの戦利品だ。
間違いない。タケゾーだ。
「揃ったでござるな!」
ああ、そうだ。
タケゾーって、学生時代はこういうやつだった。
懐かしくて、思わず口元がゆるむ。
「……相変わらずだな」
「夏休み明けは再会の儀にござる!」
相変わらず、無駄に暑苦しい。
その隣で、おしぼりの袋を細かく折りながらこちらを見たのが近藤だった。
小柄で、目元だけが妙に鋭い。ぱっと見はクール寄りなのに、口を開くとだいたい変になる。
「……来たか、ヤマジ、一ノ瀬」
抑えた声で言ってから、一拍置く。
「さあ、開幕だ。戦果報告会という名の、魂の品評会が……な」
近藤の言い回しに、ヤマジがすっと背筋を伸ばした。
「ついに始まるのか――。我らの魂を、互いに品定めし合う禁断の儀式が……」
無駄に重々しく呟いてから、俺にだけ聞こえる声で言う。
「——長期戦、確定だお」
「だろうな」
席に着くと、ほどなくして店員さんが俺とヤマジのおしぼりと水を持ってきた。
テーブルの上に人数分のグラスが並び、メニューがぱたぱたと配られる。
ヤマジはそれをほとんど開きもせず、当然みたいな顔でドリンクバーを指差した。
「今日は長期戦だし、まず飲み物の確保が最優先だお」
「ドリンクバー四名様でよろしいですか?」
「はい」
店員さんは軽く会釈して、ドリンクバーのある方へ手を向けた。
「あちらからどうぞ」
その案内が終わるや否や——
タケゾーはもう待ちきれないと言いたげに、足元の紙袋を抱え上げる。
「ではまず拙者より、今回の戦果を報告つかまつる!」
「待て待て、せめてドリンク取ってからにしろって」
「情熱に待ったはないでござる!」
「フッ……浅いな、タケゾー」
近藤がそこで、すっと身を乗り出した。
「戦果とは数ではない。そこに至るまでの過程——すなわち覚悟と執念、その結晶にこそ価値が宿る」
「いや、でも数も大事だろ」
「一ノ瀬、それは俗な見方だ」
「うるせえ」
まだドリンクバーにも行っていないのに、テーブルの上の空気だけで腹がいっぱいになりそうだった。




