12運命が変わる日
その夜、ジュリアはなかなか眠りにつけなかった。
月明かりにかざした指輪は、シリウスからの贈り物。
指先に冷たく触れる金属の感触が、ざわついた心をほんの少しだけ和らげてくれるようだった。
それでも、どうしても頭を離れないのは叔父のことだった。
本来、正当な王位継承者は叔父であるはずだった。
しかし、彼は精神的に不安定なところがあり、王位はより冷静で誠実だった弟――ジュリアの父に渡された。
だが、奪われたのは王位だけではない。
叔父が愛していた女性――ジュリアの母も、最終的には父の手に渡ったのだ。
王位も愛する人も失い、心に深い傷を負った叔父。
ジュリアは叔父を苦手に思っていたが、その痛みを完全に無視することもできなかった。
そんなことを考え込んでいるときだった。
静寂を破るかのように、扉がゆっくりと軋む音がした。
ジュリアの心臓は凍りつくような恐怖に包まれる。
まさか――おじ様が?
だが、月明かりに浮かび上がったのは、レオンだった。
ジュリアは一瞬、安堵の息をつくが、すぐに異変を感じ取った。
いつも規律正しい彼が、深夜に部屋に押し入るとは信じられなかった。
普段の落ち着いた面影はなく、レオンは額に汗を浮かべ、どこか焦った様子で立っていた。
ジュリアは驚きと困惑の入り混じった声で問いかけた。
「どうしたの?」
「姫様、説明は後にします。今はとにかく私と逃げてください」
レオンの表情は険しく、声には緊張がにじんでいた。
「逃げる?何が起きたの?」
「詳細は後です。今は一秒も無駄にできません。どうか、早く」
そう言うと、レオンは無言で部屋の壁に手をかけ、叩き始めた。
低く響く音が部屋に広がり、ジュリアはその異様な行動に目を見開く。
「何を…?」
しかしその言葉を言い終える前に、壁がゆっくりと奥へと動き出した。
冷たい湿った空気が流れ込み、その奥に薄暗い階段が現れる。
ジュリアはその光景に息を呑んだ。
「こちらです。急いでください」
しかし、不安と疑問の渦の中で、ジュリアはどうしても一歩を踏み出すことができなかった。
「待って、お兄様やシリウス、リリーが無事かだけ教えて。みんなが無事じゃないなら、私だけ逃げるなんてできないわ」
レオンは一瞬、眉をひそめたが、すぐに冷静に答えた。
「彼らには全員安全を確保する手配がされています。レガロの騎士たちを信じましょう」
「……本当にその言葉を信じてもいいの?でも、もし誰か一人でも無事じゃなかったら、必ずここに戻ってくるから」
「それで構いません。今は行きましょう」
レオンはランプを持たせ、ジュリアの背中を押した。
強引に促され、ジュリアは足を踏み出した。
恐る恐る階段を降りていく。
背後で扉が静かに閉じられ、その音が異様に重く響いた。
薄暗い階段を、ランプの弱々しい光だけを頼りに降りていく。
階段を下りきると、目の前には石造りの長い通路が続いていた。
湿った空気と、かすかに苔の匂いが漂っている。
その先がどこに続いているのかもわからないまま、ジュリアは足を進めるしかなかった。
何度も立ち止まりかけたが、レオンの強い促しに従い、再び歩き出す。
通路はどこまでも続くかのように思えた。
が、やがて、通路の先にかすかな光が見え始めた。
それが出口であることに気づくと、ジュリアの足は自然と速くなった。
通路を抜けると、広がっていたのは夜空の下の庭園だった。
見慣れた場所――レガロ卿の屋敷の庭であることに気づき、ジュリアは立ち止まる。
そんなジュリアを気にすることなく、レオンは早足で進んでいく。
裏口のベルを鳴らすと、現れた女性が、無言で屋内へと消えていく。
その後、白髪の老人――レガロ卿が現れ、ジュリアに向かって短く言った。
「ジュリア様、よくぞご無事で。急ぎ中へ」
その言葉には、急いでいることを隠せない焦りが滲んでいた。
ジュリアはただ無言で頷き、言われるがままに屋敷の中へ足を踏み入れた。
屋内は真夜中の静寂に包まれており、ひんやりとした空気が身を包んだ。
「シシー、ジュリア様のお召し物を変えてくれ」
レガロ卿が命じると、先ほどの女性――シシーが落ち着かない様子でジュリアを奥の部屋へと案内した。
その手には、予想外にも古びた黄ばんだ服があった。
「これを…?」
ジュリアは呆然とその服を見つめ、言葉を失った。
袖を通すと、チクチクと肌を刺激し、むず痒い。
靴も薄く擦り減り、ボロボロで使い古されたものだった。
鏡に映った自分を見て、ジュリアは一瞬、セレナ王国の下町でよく見かける娘たちの姿を思い浮かべた。
部屋から出ると、廊下でレガロ卿が不安げにうろうろしていた。
その隣では、レオンがセレナ王国の庶民的な服装に身を包みながらも、剣だけはいつも通り腰に帯びていた。
レガロ卿はジュリアのフードを目深に被せると、これで王女だとは気づかないだろう、と言った。
ジュリアはたまらず、口を開いた。
「どういうことなのか説明して、レガロ卿」
「王命なので、これ以上のことは私からは話せません。事情はセレナ王国のロナウド様にお尋ねください」
「セレナ?今からセレナに行くの?逃亡するってこと?お兄様やシリウスは?それにリリーだって…」
ジュリアの胸の内で次々と疑問が沸き上がり、その声は震えていた。
答えを求めていたが、レガロ卿はただ静かに見守り、やがて冷静にこう言った。
「聞きたい事がたくさんあるのはわかっています。ただ今は逃げることだけを考えてください」
その後、準備が整ったとの声が扉の向こうから静かに聞こえ、ジュリアは促されるままレガロ領の港へと向かった。
そこには、質素な船が待機していた。船の上には男が三人乗っており、ジュリアを待っている。
「私の息子たちです。ジュリア様を無事にセレナ王国までお連れします。どうかご無事で…」
その言葉に、ジュリアは答える間もなく背を押され、船に乗り込んだ。
船は漆黒の海を切り裂くように進んでいく。
静かな海の上を進みながら、ジュリアの胸には不安と疑問が募るばかりだった。
ジュリア ー ネフェルタリ王国の王女。この物語の主人公
レオン ー ジュリアの護衛。ネフェルタリ王国最強の男
シリウス ー ジュリアの幼馴染。アルナム卿の孫
ウィリアム ー ネフェルタリ王国の現国王。ジュリアの兄
ロナウド ー セレナ王国の末王子
アルシーア伯 ー ジュリアの叔父
リリー ー ジュリアの侍女
アルナム卿 ー 宰相。政治の中心地を治めるアルナム領領主
オーベン卿 ー 交易の拠点として栄えるオーベン領の領主
ベルク卿 ー 穀倉地帯を持つベルク領の領主
レガロ卿 ー 土木技術が優れるレガロ領の領主
トネール卿 ー 騎士たちを率いるトネール領の領主




