会えない人
ウルが王都へ行くにあたっては、最初、父のジークハルトか弟のラグナが付き添う話も出たのだが、ジークハルトは領地の運営が、ラグナは寄宿学校の休暇が合わないということで別の付添人を用意することになった。反対していたラグナが王都へ着いていくと言い出したのは、ウルの宮廷入りを阻止するためである。
母のフロレンティーナは叔母のユーディトに再び頼ることにした。
手紙を受け取ったユーディトは喜んで迎えをやると快諾してくれ、最終的にウルの付添をしてくれることになったのは、
「お久しぶりです! サージェスさん」
船でラウレンツの領地近くにある駅で待ち合わせしていたコート姿の男性は、ウルを振り返って「お久しぶりです」と丁寧にお辞儀してくれた。ラウレンツの執事であるサージェスである。
彼が王都まで付き添ってくれることになったのだ。主人であるラウレンツとユーディトは未だ王都のタウンハウスに滞在しているという。
「わざわざ迎えに来ていただいてすみません。今回もよろしくお願いします」
「いいえ。本当はご領地までお迎えに行こうと思っていたのですが…」
サージェスはウルに苦笑すると、道を開けるようにして場所を譲った。
「やぁ、小鹿ちゃん!」
執事の後ろから現れたのは、地味なコートや帽子をまとっているものの派手な雰囲気はまったく隠せていない男性だ。
「フロレンツさん!?」
「そうだよ、小鹿姫」
静かに、と人差し指を口元に当てて、フロレンツは口の端を上げた。
「あいつは忙しそうだからね。僕が迎えに来たんだ」
「そんなわざわざ…」
「僕は何かと便利だよ?」
フロレンツの得意満面な顔を横目にサージェスは呆れたように溜息をついた。
「あなた様が物見遊山であちこち見物さえしなければ、私はウルリーケ様を領地までお迎え出来たのですが」
「……お前、ラウレンツに似て性格悪いね」
サージェスのあからさまな嫌味にフロレンツは顔をしかめたが、執事は平気な顔だ。
「主に倣うよう努めておりますので」
ウルだけでは止められそうにもないフロレンツをサージェスがうまく抑えてくれるようだと、ウルはひっそりと安堵した。
ウルはサージェスとフロレンツに連れられて、鉄道の駅へと向かうことになった。
彼らが用意してくれたのは、何と汽車の一等客室だ。この汽車で一泊し、王都へ入るという。
一人一室あてがわれたその部屋は汽車の部屋というには広く、ベッドに加えて小さなテーブルとイスまで備えてある。
初めて乗る鉄道に感動しながらも、ウルはラウレンツの領地を後にした。
「実家にたくさん兄弟が居るんだってね。寂しがられなかったのかい?」
一等客室でも特別な個室になるという席でサージェスの配膳で夕食を振舞われながら、ウルの向かいでフロレンツはワイングラスを傾けた。
そんなフロレンツにウルは千切りかけていたパンを置いて、苦笑いした。
「実は…」
家族を心配してなかなか発てなかったのはウルの方だった。
母の薬のことから、畑のこと、妹のドレスのことや弟の好きなおもちゃのことまで。気になって仕方ないウルを家族の方が追い出した始末だった。
「あはは、君らしい」
「しばらくしたら、ホームシックになりそうです」
楽しげに笑うフロレンツにウルは苦笑を返した。
「私に女官が務まるかもわかりませんし、すぐ故郷に帰れてしまうかもしれないんですけれど」
「……まぁ、それは無いと思うけど」
「え?」
フロレンツは首を傾げるウルに「まぁ、とにかく」と空のワイングラスを静かにテーブルに置く。
「宮廷までのエスコートは全部、僕に任せていいからね。悪いようにはしないから」
ラグナがいれば詐欺師ではないかと疑うようなセリフだ。
けれど、不思議とそう見えないのはフロレンツのなせる業なのだろう。
汽車に揺られて一夜を過ごし、日が昇る頃には王都が朝もやの向こうに見えてくる。
その頃を見計らって車内ではスクランブルエッグやクロワッサンなど豪勢な朝食が用意され、フロレンツたちと平らげる。そうしているうちに尖塔がはっきり見えるようになってくると、汽車を飲み込むような巨大な駅舎が現れる。
降車準備をして通路に出ると、同じような乗客たちが集まっていた。
やがて汽車が止まると同時に人の波に乗るようにして駅へ降り立つと、雑踏と喧騒が高い駅舎の天井へ向かって渦を巻いていく。
人に押し流されそうになりながら乗降口を潜れば、そこから朝日に照らされた王都の街が広がる。
「乗り物酔いはしなかったみたいだね」
そういう本人も平気な顔のフロレンツは、人の波のひいた場所で待ち構えていた馬車にウルとサージェスを乗り込ませた。本人も乗り込むと馬車は走り出す。
「あの、この馬車は…」
「ああ、うちの馬車だから気にしないで。お金なんか取らないよ」
フロレンツはそう言って大きく伸びをする。
この馬車は王都でも滅多に見られないほど頑丈そうで立派な造りだ。地味な色合いでもビロードの張られた椅子を備えた内装は凝っていて、紋章がなくても大貴族の物だと分かる。
「それに汽車の代金も…」
「それは僕の出したわけじゃないから、もっと気にしないでいいよ」
「いったいそれは…?」
フロレンツは面白くなさそうに手を振るが、ウルは気が気ではない。
初めての汽車に浮かれていたが、すべてのことにはお金がかかる。
鉄道はまだ新しい交通手段だ。大量の物資を運搬できる反面、その運賃は一番低い四等席でも船の倍になる。一等客室ならどれほどか。
「それは本人に聞くといい。ああ見えても真面目な奴だからね」
フロレンツが意味深に笑っているうちに馬車は王都の中央通りを抜け、大きな門へと着いた。王城の外門の一つ、碧玉門だ。
「さぁ、行っておいで。首を長くして待ってるはずだ」
フロレンツはウルをサージェスと共に門の前で降ろしたが、自分は降りなかった。馬車の中からウルの頭をひと撫でして笑う。
「それではね、レディ。困ったことがあったら僕に言うといい。僕らはもう友人だからね」
気負いもてらいもないフロレンツからは親愛が感じられて、ウルは真っすぐ彼を見上げた。
「ありがとうございます」
たくさんの人が助けてくれる。
それがウルの背を押すように伸ばしてくれるので、ウルはそれにきちんと答えたいと思うのだ。
「あいつが嫌になったら僕のところに来るといいよ」
甘やかしてあげるから、とフロレンツは冗談ともつかないことを言って馬車はいってしまった。
(あいつ…?)
フロレンツがあいつと呼ぶ人は限られているだろう。
ウルが知っているのは一人だけだ。
(まさか、ね)
ウルは降って湧いたような淡い期待を打ち消して、サージェスと共に門を潜った
門を潜った先には詰所があって、サージェスが紹介状と手続きをしてくれる。女官見習いの面接を受けるのだと言うと、詰所の事務員が案内してくれることになった。
「王宮は地図の作製が禁止されているので、自力で憶えて下さいね」
外敵の侵入に備えて今でも地図の作製はできないのだという。見習いのうちは自分に必要な道順を憶えるのが仕事になりそうだ。
事務員が案内してくれたのは女官長の部屋だった。
サージェスは待合室でウルの荷物を見ていてくれるというので、面会はウル一人となった。
紹介状だけ持ってウルが入室すると、そこには厳しい眼差しをした女性がすでにきちんとした装いで待ち構えていた。
ウルは緊張しながらも背筋を伸ばして淑女の礼をとる。
「見習い女官の募集を受けてまいりました。ウルリーケ・バウアーと申します」
特別大きくもないが、聞こえないほどの声でもなかったはずが、女性はしばらくじっとウルを見つめて溜息をついた。
その様子に内心どきりとしながらもウルが動かないでいると、
「……遠方からご苦労でした。ウルリーケ。私はセイマー。女官をまとめる女官長です」
セイマーと名乗った女性は自己紹介をし終えるとまた溜息をついた。
(何か良くなかったのかしら)
ここまでの道のりは順調すぎるほど順調だった。
むしろここまで順調であっては怖いほどだ。
フロレンツの迎えといい、碧玉門での事務員といい、ウルの待遇は良すぎるのではないだろうか。
今更ながら、手紙一つを頼りにここまでやってきたことが不安に思えてウルは冷や汗を垂らした。ここでお前などいらないと言われてしまえばそれまでなのだ。
両親や兄弟たちに何て言って謝ろう。
どんどん悪い方向へ考えるウルをよそに、セイマーはウルを存分に観察したのか「着いてきなさい」とウルを連れて部屋を出た。
王宮の掃き清められた廊下にまだそう高くない日が差し込んで眩しい。
コツコツと無駄のない靴音のあとをなるべくうるさくならないよう着いて歩くウルに、セイマーは「ウルリーケ」と呼びかけた。
「あなたの推薦は少々異例です。それに任される仕事も他の女官とはまったく異なります」
結局ウルは誰からも仕事の内容を聞かされていない。
それがようやく聞かされるのかと思ったが、セイマーは全く別のことを口にした。
「推薦も異例なら、待遇も異例です。あなたの扱いに私は少々悩んでいます」
まったく悩む素振りもないセイマーだが、先ほどの溜息がそれにあたるのだろうか。
「詳しいことはご本人に聞きなさい。話を聞いた上であなたが納得する選択をすることが私は良いと判断しました」
セイマーに連れられてやってきたのは王宮の厨房でも洗濯場でもない、王宮の中枢だった。人通りはそれほど多くはないが、行き交うのはどれも役人だ。そしてセイマーが示した部屋の重厚なドアには物々しいプレートが張られてある。
「……外務省次官室…?」
思わずプレートを読み上げたウルを隣に立たせ、セイマーはその重厚なドアをノックする。
「女官長のセイマーです。ウルリーケ・バウアーを連れてまいりました」
外務省や事務次官室にどういった用があるというのだろう。
どういうことかとウルはセイマーを見上げてみるが、彼女はちらりとこちらを見遣っただけだった。
やがて中から「どうぞ」と男の声がして、セイマーはドアを開けてウルを部屋へと連れて入ってしまう。
部屋は広かった。壁面を埋める書棚と大きな机だけの部屋だったが、むせかえるほどの煙草の臭いが染みついている。その煙草の煙の奥で書類を眺める人が居る。
「彼女は今朝、王都へ着いたそうです。ですから手短に」
「分かっています」
煙草を灰皿に押し付けて、机に書類を投げるとその人は席を立った。
「ウルリーケ」
小さくセイマーに声をかけられ見上げると、すでに彼女は踵を返すところだった。
「困ったことがあったら私に言いなさい」
そう言って「失礼します」と部屋を出て行ってしまう。
誰もかれもどうして何も言ってくれないんだろう。
縋るようにしてウルがセイマーを見送っても彼女はもうこちらを振り返りもしなかった。
近付く気配に改めて正面を向くと、ウルの後ろでドアが閉じられる。
「――ウル」
そう呼ばれてウルは今にも泣きだしたくなった。
その声は甘くも聞こえるというのに、甘さを感じさせないコーヒー色の髪、鷹のようなアイスブルーの双眸。その長身に見合ったコート姿の彼は、確かにそこに立っている。
「――テオさん」
会えるはずもないと思っていたその人が確かにそこに立っている。
彼はウルを見つめて静かに言う。
「ようこそ、王宮へ」




