お嬢さんを驚かせる
こつこつと広い部屋に靴音が響き、やがてウルの前に立ったテオはウルを静かに見下ろした。
「フロレンツのエスコートは退屈ではなかったか?」
「え?」
見上げたウルに、テオは柔らかく微笑んだ。
「物見遊山に付き合わされたか」
「テオさん…」
ウルは困って眉根を寄せた。
「窓、開けていいですか?」
「え」
今度はテオの方が言葉を詰まらせたが、ウルは緊張も忘れて窓へと一直線に走り寄った。
テオの了解も得ないまま、部屋の側面にある窓をバンと開け放つ。
「煙草の煙で目が沁みそうなんです!」
煙で充満した部屋を閉め切っているのだ。セイマーがこの部屋に長く留まりたくなかったわけがよく分かった。
窓を開け放つとようやく清々しい朝の空気が入ってくる。
「……煙がひどかったのか」
唖然とするテオが窓際のウルに呆れたように振り返るので、ウルは「そうですよ」と肩を竦めてみせた。
本当は、会えると思っていなかったテオに真っ先に引き合わされて、どうしたらいいのか分からない。
けれど彼の前で泣き出してしまうようなことをすれば、困るのはテオだ。
このウルの虚勢がテオにバレないことを祈るような気持ちで、ウルは精いっぱいの笑みを作る。
「お久しぶりです。テオさん」
「ああ」
テオは目を細めて頷き、ウルへ向かって再び足を踏み出した。
これ以上近付かれると、本当にどういう顔をすればいいのか分からなくなってしまう。
ウルは慌てて「あの!」と声を上げた。
「我が家への援助、本当にありがとうございます。テオさんのおかげで私たち家族は危機を脱することができました。家族を代表して、御礼申し上げます」
ウルがそう淑女の礼をとると「ああ」と簡潔な声が聞こえて、またウルは慌てて言葉を続けた。
「それから、私に職までくださってありがとうございます。フロレンツさんがお迎えに来てくださったのはとても驚いたのですが、汽車の手配はもしかしてテオさんが?」
ウルの早口に「ああ」とまた答えると、ゆっくりとした足取りの靴音が近付いてくる。ウルは顔も上げられないまま、まくし立てる。
「汽車ってスゴイ速いんですね。それからあの客室! 本当に豪華で驚きました。移動しながらあんな美味しい料理が食べられるなんて。フロレンツさんは慣れてらっしゃるようでお酒を召し上がっても全然酔わないんですよ」
こつり、という靴音でとうとう目の前に長身の気配を感じたが、ウルは淑女の礼を続けることができずにスカートを握りしめてしまう。
「……私にこんなに良くしてくださって、いったい何をどうお返しすればいいのか分からなくなってしまいます。テオさんってこんなに親切な方だったんですか? 初めは私を追い出そうとしたのに」
「それについては、すでに謝罪しただろう」
ウル、と呼ぶ声があまりにも柔らかくて、ウルは開け放った窓を背に視線だけ上げようとすると、手袋に包まれた大きな手の平がウルの頬に手を添えて仰向ける。
(ああ、どうしよう)
バレないようにと必死に押し殺していたというのに、いつのまにか目に溜まった涙が頬を伝って結局テオの指先に落ちていく。そしてやっぱりテオは戸惑うように指先を躊躇させたが、親指でウルの目じりを拭った。
「――どうした、もうホームシックか?」
そう柔らかに目を細めるテオが、どうしてこんなに優しいのか。
「今からホームシックでは、俺の専属は務まらないぞ」
「え…?」
尋ね返すウルにテオは彼女の涙を丁寧に拭いながら柔らかな声で告げてくる。
「お前の仕事は他の女官とは違い、次官である俺の仕事を手伝う特殊なものだ。もちろん普通の女官の仕事もやることになるだろうから、仕事は倍になる。だから手紙で提示した給料にした」
ぱちぱちと瞬きで涙の残りがすっかり落ちると、ウルは改めてテオを見上げた。
「あの、私の仕事とはいったい……?」
鼻声のウルの問いにテオはアイスブルーの鷹の目を細めて笑う。
「お前の身分は外務省次官付女官、つまり俺の専属女官だ」
テオの笑みにウルは目を回しそうになりながら、そうだったと思い至る。
この人は優しいだけでなく、ウルを驚かせる天才なのだ。




