ずるい人
「では、約束の品だ」
園遊会が終わった翌日、ラウレンツは王都のタウンハウスで約束通りに借金の証文と契約書をウルとテオに渡してくれた。
証文はテオが持ち、契約書は二人が一枚ずつ持つ。
契約書にはウルの実家であるバウアー家が十年で返済するという、テオの切った期限が記された。
立ち会っていたユーディトは「何て色気のない」と呆れていたけれど、約束は約束だ。
結局、園遊会でテオはウルと庭園で話して過ごしてしまった。
ユーディトとラウレンツがお開きを告げに来るまで長い時間話し込んでいて、テオは人脈を広げるどころか参加客と話すことさえほとんど出来ずに終わってしまったようだ。
ラウレンツはそんなウルとテオを咎めはしなかったが、ユーディトは大いに小言をテオに向けた。
「何を考えているのテオドール! せっかくの出会いの機会をふいにしてしまって」
「……約束通り、園遊会には参加した」
「ウルの出会いの機会を台無しにしたわよ!」
「……やはりそういう目的だったか」
「可愛いウルには最高の婚約者を用意したいの。邪魔しないでいただける?」
「いくら叔母だからと、姪に何でも押し付けるな」
ユーディトが睨みあげるとテオが不機嫌に眉をひそめる。互いになまじ整った顔立ちだから睨み合うだけで大迫力だ。
「ユーディはテオドールと仲が良くて少々妬けてしまうよ」
ラウレンツはそう苦笑するばかりで止めてくれそうにない。
おろおろとするウルを後目にテオとユーディトの舌戦は収まる気配も見せなかったが、
「まぁいい。証文は手に入ったから、ようやくウルを故郷に帰せる」
珍しくテオが折れてユーディトの小言を打ち消してしまった。
けれど、水を向けられたウルは思わず俯いてしまう。そうなのだ。借金が出来ることになれば、ウルがテオのそばにいる理由もなくなる。
(帰るんだ…)
借金のことが片付いた今、ウルが王都に留まる理由もない。
俯いたウルを見つけたユーディトは「急いで帰らなくてもいいわよ」と言ってくれるが、いつまでもお世話になるわけにもいかない。
「数日中には、帰ろうと思います」
両親や兄弟たちのことも気になる。ウルには恋よりもワガママよりも、大事な家族がいるのだ。
王都までやってきたのはウルのワガママ以上のことではなかったが、それを許してもらうのもここまでだ。
「私たちはしばらく王都に居るから、何も心配しないで滞在するといいよ」
ラウレンツが優しく言ってくれるのを、ウルは苦笑で受け止めた。
そんなウルをテオはじっと見つめていたがそれには気付かなかった。
「――えっと、王都観光、ですか?」
ラウレンツのタウンハウスで帰郷の準備をしていたウルをテオが訪ねてきた。
彼は園遊会以外に用はないから王都のホテルに泊まっているという。
「そうそう。僕も案内するよ。この朴念仁だけじゃあただの散策で終わりそうだからね!」
いつかのクジャク男、フロレンツが都会らしく整ったコートを着てテオの後ろから顔を出した。彼は王都で暮らしているらしい。
「やぁ、小鹿ちゃん。王都へようこそ」
相変わらずの銀髪は森で見るよりきらきらと輝いているようだ。
「……朝から俺の部屋に訪ねてきてうるさいから連れてきた」
にこにこと満面の笑みのフロレンツとは裏腹に不機嫌そのもののテオが低く呻いた。今日のテオは森で暮らしていた時のようなシャツにズボンだけではなくきちんとベストとコートを模範的に身に着けている。髭はもう伸ばさないのか、身綺麗にされていた。
「帰り支度で忙しいだろうが、今日は付き合ってくれないか」
もう接点も持てないと思っていたテオからこんな誘いをしてくれるとは思ってみなかった。
「ユーディ姉さんに話してみます」
ウルはちょうど出かけるところだったユーディトを捕まえて許可を得た。
「フロレンツ様が一緒なら大丈夫ね。楽しんでらっしゃい」
広大な領地を持つ伯爵夫人のユーディトが敬称をつける人は少ない。そんなユーディトが敬うフロレンツが何者なのか気になったが、田舎娘のウルが訊いて良いものかもわからなかったので、素直にウルは出かけることにした。
フロレンツとテオはまず王都の中央通りにウルを連れ出した。
ここは凱旋通りとも呼ばれる大きな通りで、カフェや花屋、帽子屋や洋服店などの大きな店や銀行や会社なども軒を連ねる華やかな場所だ。
この通りは馬車も通るが三つの広い公園が並んでいて、東に向かって縦に歩くと王城が見えてくる。
ウルたちがやってきたのは王城から一番遠い公園だったので、王城は遥か遠くにうっすらとした影絵のように見える。
「さぁ、小鹿ちゃん。君の瞳に留まった幸運な店はどこかな」
冗談めかしたフロレンツに促されて目にも鮮やかな店々を見回したウルは、所狭しと菓子の並んだ駄菓子屋に目を止めた。駄菓子屋といってもさすが王都というべきか色とりどりのキャンディーやケーキは洗練された装いだ。ショウウィンドウから見える菓子の包装も凝っていて、馬やうさぎ、小鳥や花などの立体的な紙細工で包んである。
「あのお菓子屋さんに行ってもいいですか? 兄弟のお土産にしたいんです」
ウルの提案にフロレンツは少し不思議そうな顔をしたものの「よし、行こう」と微笑んでくれた。しかしその隣のテオは嫌そうな顔を隠そうともしないで眉を寄せる。
「二人で行ってこい。俺は外で待っている」
今日も前髪を軽く上げ、髭もないテオの表情はよく分かる。
そんなテオにフロレンツは「お前さぁ」と顔をしかめた。
「女性の買い物にそんな顔してたらヘソを曲げられるぞ」
「俺が菓子屋で物色している方が不気味だと思うが」
確かに、髭はないとはいえテオのような鋭い眼つき長身の貴公子が菓子屋でキャンディーを見ている様子は少し不気味だ。
「やっぱり俺がついてきて正解だったな」とフロレンツはテオに肩を竦めてみせる。
「じゃあな、テオ。お前は外で待ちぼうけしてろ。俺は小鹿姫とショッピングを楽しんでくる」
さぁ、とフロレンツは流れるようにウルをエスコートするが、ウルは今にも立ち去ってしまいそうなテオに呼びかけた。
「あの、付き合っていただいて申し訳ありません。そんなに時間はかからないと思いますので」
ウルの言葉にテオは少しでこちらを顧みたが、手を軽く振っただけで行ってしまう。どうやら公園のベンチで時間を潰すつもりのようだ。
帰ってしまわないところを見ると怒ってはいないらしい。
ほっと息をついたウルを見ていたフロレンツは笑みを深めたが「行こうか」とウルを連れだって菓子屋に入った。
フロレンツは自分の宣言通りにウルの買い物に根気よく付き合った。
幼い兄弟たちには菓子がいいが、年長の兄弟には文房具がいいのではないかとアドバイスもくれる。
彼のアドバイスは丁寧で、ウルの小遣いで買える物の中でもとても良い物を買うことが出来た。
「――まぁ、あいつが君に何も話していないのはよくわかったよ」
三軒目に訪れた文房具屋で美しいカットの入ったガラスペンを見ながら、フロレンツは不意にそんなことを言い出した。
「テオが何者か気にならないのかい」
フロレンツの問いかけはそのまま彼自身にも言えることだったが、ウルは少し考えて首を横に振っていた。
「気にならないといえば嘘になりますけれど……私に何も話してくれないのはやっぱり私が子供だからだと思いますし」
結局、テオは園遊会でもウルに何も話さなかった。話していたことといえば他愛もないことだ。森の屋敷で育てていた野菜を収穫したとか、屋根が少し傷んできたとか、まるで今も森で暮らしているようなことを話しただけだった。
「自分を子供だと自覚している子が、それほど子供だとも思えないけどね」
そうフロレンツは意味深に微笑んで、
「君はちゃんとレディだよ。自信を持って。小鹿姫」
そんな風にフロレンツやユーディトが甘やかしてくれることが、やはりまだ子供なのだとウルは思う。
「……ありがとうございます。フロレンツ様」
ウルが悔しさを呑み込んで何とか微笑みを返したというのに、フロレンツは「違うよ」と人差し指を立てた。
「君の前では僕はテオの友人でただのフロレンツ。敬称はいらないよ」
キザなフロレンツはやはりテオとは正反対だ。
その対比がおかしくてウルは「はい」と笑った。
買い物を終えてテオを公園で探すと、彼は人通りの少ない花壇近くのベンチに腰掛けて煙草を吹かしていた。
園遊会の時もそうだったが、彼は結構愛煙家なのかもしれない。
森ではほとんど煙の臭いなどしなかったのは我慢していたのだろうか。
「お待たせしてすみません」
ウルの呼びかけにも煙草の煙を吐いただけだった。しかし彼の手元にある携帯灰皿からは吸い殻がはみ出しそうだ。
「そんなに待ってるのが嫌なら買い物についてこれば良かっただろうに」
呆れ顔のフロレンツをテオは不機嫌に見遣る。
「うるさい。どうせお前の方が連れ回したんだろう」
テオのひと睨みにもフロレンツは動じず、小馬鹿にするように肩を竦めた。
「おー怖い。男の嫉妬は醜いねぇ。自信のない男ほどよく吠える」
「……お前」
テオは低く唸ってフロレンツを今度こそその鷹のようなアイスブルーの双眸で睨んだ。
そんな二人を遠巻きにちらほらと視線が飛んでいる。
公園を散策する女性たちがフロレンツとテオへ視線を送っているのだ。
ひそひそと噂話をするというより秋波のような気配がするのは気のせいではないだろう。
テオとフロレンツは特別派手な格好でもないがこの二人が揃うと目立つらしい。
買い物中もフロレンツに視線が集まってた。
「ま、僕が連れ回したのは本当だし、何か飲み物でも買ってくるよ」
集まる視線をものともせず、フロレンツは軽い調子で行ってしまった。
残されたウルとテオにも衆目が集まっていたが、幾分和らいだのでウルは少し息をつく。
「疲れたなら座れ」
テオに言われてウルは少し迷ったが、足も疲れていたので座ることにする。慣れない石畳歩きで少し疲れてしまったのだ。
「……おい。どうしてそんなに離れて座るんだ」
テオが不機嫌そうにウルを横目に煙草の煙を吐いた。
「ええと…フロレンツさんが帰ってきたら、お座りになるかなと」
ウルは何となくテオから離れたベンチの端に座ってしまった。
腰掛けてしまってから気付いたが、今更テオの隣に座るのも気恥ずかしい。
「あいつが隣に座る前に俺が席を立つ」
そう言いながらテオは吸いかけだった煙草を携帯灰皿に放り込んでしまう。ウルが煙草の煙を気にしていると思ってしまったのだろうか。
少し申し訳なくてウルが俯くと、テオは「ウル」と呼びかけてくる。
「兄弟への土産は買えたのか」
ウルが膝に載せた小さな紙袋を見つけたのだろう。
ウルは「はい」と言ってテオを見る。
「フロレンツさんがアドバイスをくださったので、良い物が買えました」
「そうか」
短く返すテオは森に居た頃から変わらない。
まさかあの熊男がこんなに若い男性だとは思いもしなかったが。
(そういえば私、森小屋で抱えられて……)
大雨の降った日、ウルはテオに毛布の上からとはいえ抱えられていたのだ。
テオは何とも思っていないだろうが、見た目よりも頑丈な腕に囲まれて耳元で囁かれた記憶はまだ新しい。
どうしてここで思い出すのだろうと頭を抱えそうになっているウルをよそに、テオは溜息をついた。
「故郷へはいつ帰るんだ?」
飾り気もない、何気ない言葉だったがそれはウルをはっとさせるのに十分だった。
ふわふわとしていた気分が地に足をつけるように、ウルは努めて微笑みを崩さないようにテオと向かい合った。
「二日後を予定しています。ラウレンツおじさまが船の手配をしてくださったので」
「……そうか」
テオは再び短く相槌を打ったが、少しだけ黙り込んでおもむろに口を開く。
「俺は王都に残ることになった」
テオの言葉にウルはやはり、と思った。テオはいつまでも森の中で暮らしてられる人ではなかったのだ。
「園遊会に顔を出したことが実家にも知られて、早々に帰って来いと命令が来た」
実家から命令という不穏な言葉が気になるが、ウルは別のことを訊ねた。
「王都にご実家があるんですか?」
「ああ」
テオはウルに答えて深く溜息をつく。落ち込んだ様子から察するに実家に帰ることがよっぽど嫌らしい。
「――森の家は管理人に預けてきた」
顔を上げたテオは真っすぐウルを見つめる。
その瞳が心配するなと言うようで、ウルはいつのまにか緊張していた頬を緩めた。
「管理してくれる人がいるなら、いつでも帰れますね」
何気なくウルは言ったつもりだったが、テオは少し目を丸くして「そうだな」と穏やかに目を細くした。
「復職は考えていないが、この調子では仕事を押し付けられそうだから森へ帰るのは当分先になりそうだ」
「まぁ。働かざる者食うべからずですよ。テオさん」
テオはウルに小言をもらわなくてもちゃんと王都でやっていくだろう。
だからこうやってテオと笑い合える。そんな時間が嬉しかった。
別れの予感が迫る中でも、彼と穏やかに話せる時間がとても楽しい。
それから、帰ってきたフロレンツとテオは王都で存分にウルを連れ回し、夕方にくたくたになった彼女をラウレンツのタウンハウスへと送り届けた。
ウルの帰郷を前にユーディトは園遊会のために用意した様々な衣装をウルに押し付けようとしたが、ウルは丁重に断って自分で持って来たトランク一つを持って帰ることになった。
「船や馬車まで手配してくださってありがとうございます。ラウレンツおじさま」
ユーディトとわざわざ港まで船の見送りに来てくれたラウレンツにそう礼を述べると、彼は皺を深くして魅力的に微笑んだ。
「レディの旅の安全を守るのは紳士の務めだよ。本当なら私本人が家まで送っていきたいところだが」
「いいえ。サージェスさんをつけてくださってありがとうございます」
ラウレンツは自分の執事であるサージェスにウルを送り届けるよう頼んでくれたのだ。ラウレンツの執事である三十がらみの男性は、ウルと同じような外套を羽織った旅装で「お任せください」と微笑む。
「じゃあ頼んだわよ、サージェス」
ユーディトの念押しにもサージェスは頷く。
「もう二十回目ですよ。お任せください、奥様」
少し皮肉屋な執事に「もう」と口を尖らせて、ユーディトはウルのかぶった帽子を撫でた。この帽子だけは持っていきなさいとお土産としてユーディトがウルに持たせたものだ。
「いい? ウル。生水には気を付けなさい。あと船にはお酒が多いけどお酒なんて飲んじゃダメよ。船を降りたら馬車を手配してあるから。そこのサージェスは口は悪いけど信頼できるから遠慮なくこき使いなさい。それから…」
「そろそろ出港の時間だよ。君までついていくつもりかい、ユーディ」
ラウレンツに言われてユーディトは渋々引き下がった。
「それにしてもテオドールは遅いわね! 何をしているのかしら」
「ユーディ姉さん、テオさんは来ないのよ」
何でもない口調でウルが言うと、ユーディトは目をむいた。
「まぁ! 何を考えているのあの冷血漢! 誰のおかげで王都に戻って来られたと思ってるのかしら!」
「テオさんの実家はここから少し離れているんでしょう? お忙しいだろうからお断りしたの」
早々に実家に帰らなければならないというテオに、ウルは見送りを断ったのだ。
「ウル……」
ウルの笑顔にユーディトは眉を寄せた。
「ありがとう、ユーディ姉さん。本当にいっぱい感謝してる。ぜひラウレンツおじさまと二人でうちの領地にも遊びに来てね」
歓迎するから、とウルはおしどり夫婦に手を振った。
出港を告げる鐘が鳴る。
ウルはサージェスと共に船へと乗り込んだ。
甲板に出て港を見下ろすとユーディトとラウレンツが手を振ってくれていた。
動き出す船をずっと見送る夫婦に、ウルもずっと手を振り続ける。
やがて船が海原を走り始めると、王都がまるで蜃気楼のように遠ざかっていく。
(さようなら、テオさん)
借金の借主と貸主という関係なのでいつかまた会うこともあるかもしれない。
けれど、それだけの関係だ。
ウルは思い出だけを持って王都に全部置いていく。
そうすればテオは思い出の中だけの人になる。
告げるどころか蕾のままの恋はそっくりそのまま置いていくのだ。
それが今、どんなにウルの胸を焦がしていても、きっとその胸の痛みが思い出となるのだから。




