遠い人
バウアー家の朝は早い。
一番に起き出すのはウルだ。
朝日の昇り切らない頃に身支度を整え、自分の部屋を飛び出している。
「さぁ、今日も頑張らなくっちゃ!」
身に着けたら最後一日中外すことのないエプロンを着けると、着古したワンピースの裾を翻して向かうのは、家庭菜園だ。
以前は食料集めに苦心していたのだが、庭の一部を潰して畑にして何とか野菜だけは確保できないかと思ったのだ。領主の館としての見栄えを気にしていた母を説得し、仲のいい農家から種を分けてもらっていくつかの野菜を育てている。
雑草をとり、水をやっていると「おはよう、姉さん」と弟が顔を出した。すぐ下の弟、長男のラグナだ。
「おはよう、ラグナ」
「毎日よくやるね」
母似の紅茶色の髪をかき上げながら、ラグナはウルが作っている畑を見渡した。小さい頃はウルよりも細く女の子のようだったというのに、寄宿学校に通い始めるとすくすくと育って今ではウルの方が妹に見られることが多い。
「ごめんね、ラグナ。すぐ朝食にするわ」
ラグナはようやく休学していた寄宿学校への復学を果たした。ただしまだ実家が心配だからとこうして頻繁に帰ってきている。
「薪をくべて湯は沸かしてあるよ」
さらりと言ってダイニングへ向かうラグナは大雑把なところがあるウルとは違ってそつがない。
森の屋敷からのウルの手紙を内緒にしてくれていたのも彼だ。
実家に帰ったウルは勝手に借金をしたことを両親に打ち明けた。
当然のごとく怒られたが、ラウレンツの添え状もあったことであとのことは両親とラウレンツのあいだで話を進めることが決まった。
ウルはというと、外へ出すと何をするか分からないとしばらく実家で領地の運営を手伝うことになった。運営といっても経営を出来るわけではないので、三日に一度領地の見回りを手伝うぐらいだ。
「お姉ちゃん! 私の髪飾り知らない?」
ウルが畑仕事を終えて台所に向かう途中、紅茶色の長い髪を流したままの妹が泣きついてくる。次女のカトリナだ。きらきらとした猫のような目でウルに訴えてくる。
「花の髪飾りが見つからないの!」
「自分の部屋の机の上は? それか洗面所」
「無いの。どうしよう」
花の髪飾りは、去年まだ今ほど困窮してなかった頃に買ってもらったカトリナの宝物だ。
泣き出したいのをぐっと唇を噛んで我慢する妹が可哀想でウルも一緒に探そうかと辺りを見回していると、
「ほら」
デイジーの意匠が可愛らしい髪飾りがカトリナに差し出された。
カトリナとウルが差し出し主を見上げると、眠たげな目をした次男がカトリナの手に髪飾りを落とした。
「これどこで見つけたのよ、フォル!」
首の後ろで尻尾のように伸びたハチミツ色の髪をくくった次男のフォルクマはカトリナの剣幕にも動じないで大きく欠伸する。
「カトリナの部屋の前に落ちてたよ」
「えっ」
「大事な物なら宝箱にでも仕舞っておきなよ」
そうのんびりとダイニングへ向かうフォルクマの背を「何よ、フォルは大事な物でもすぐ無くすくせに!」とカトリナが追いかけていく。この二人は年が近いせいか喧嘩も多いが、お互いをよく分かっている。
「おねえちゃん」
朝から元気な兄弟を見送っているとウルのエプロンを小さな手が引っ張ってくる。
見下ろせばハチミツ色の巻き毛の可愛い三男がウルを見上げていた。他の兄弟たちはもうウルの背を追い越してしまったので、今やこのイエニスだけが小さい弟だ。
「おなかすいた」
「ああ、そうだったわね。朝ごはんにしましょう」
イエニスの手を引いてダイニングへ入ると、すでに朝食の準備は始まっていた。
「遅いわよ、ウル!」
紅茶色の髪を綺麗に結い上げた婦人が大皿を四枚も両手に持ってウルを振り返った。
「お母さん! 食事の用意は私がするわよ」
「何を言ってるの。これぐらい動かなきゃ体がなまってしまうわ」
そうニカリと笑う妙齢の婦人こそウルたちの母であるフロレンティーナだ。病床に伏すまで領地経営と家事、さらには農地の経営まで一手に引き受けていた逞しい女性だ。
今は仕事のほとんどを夫であるジークハルトに任せているが、療養の甲斐あって回復してきたこともあり少しずつ家事や経営に携わり始めている。
「好きにさせてあげなさい。皆でやればいいさ」
そう言ってダイニングテーブルの端に腰掛けてのんびりと紅茶を飲んでいるのはバウアー家の家長であるジークハルトだ。褪せたハチミツの髪色も相まってのんびりとした雰囲気の中年で、太っても痩せてもいないが特別頑丈そうにも見えない。母が倒れるまではのんびりと農地で土いじりを得手としていたが、慣れない領地経営を任されて倒れそうになりながらも何とか踏ん張った。口癖の「皆でやればいい」を実践した形となった。
そうやって父の言う通り、朝食の準備も家族みんなでやるからあっという間だ。
母とカトリナは朝食のメインを用意して、ラグナは紅茶を、フォルクマはイエニスとカトラリーと皿を並べ、ウルは添え物の野菜を用意する。そしてジークハルトはラグナの用意した紅茶を家族のカップ一つずつに入れて、イエニスのカップにホットミルクを入れてやる。
「さぁ、みんな席に着きなさい」
母の号令で家族全員が朝食の前に席につく。
今日の朝食はパンケーキだ。一人二枚ずつのパンケーキには春にとれた黒イチゴのジャムがかかって甘い湯気をあげている。
「今日の恵みに感謝を」
ジークハルトの言葉を家族が一斉に復唱する。
もっと信心深い家ならば神への感謝から始めるだが、せっかくの食事が冷めてしまうことを嫌ってジークハルトの祈りは簡潔だ。
「カトリナ、僕のジャムを取らないでよ」
「うるさいわね! フォルは野菜ばっかり食べるでしょ」
「イエニス、ニンジンをよけるな。食べろ」
「……はぁい。ラグナ兄さん」
「今日の会合には私もついていくわ」
「駄目だよ、ティーナ。医者からももう少し安静にと言われているだろう」
バウアー家の食事風景は賑やかだ。
この食卓から比べれば、テオとの食事は静かそのものだった。
(……テオさん、ちゃんと食べてるかな)
テオは料理を作ることは好きなようだったが、食べることにはあまり関心がないようだった。食事の時に美味いと口にしたのは、ウルが作った鳥の香草焼きの時ぐらいだ。
(王都には、フロレンツさんやユーディ姉さんもいるもの。きっと大丈夫よね)
ウルが心配するほどテオは子供ではない。
分かっていても心配したくなるのは、残してきたはずの恋心のせいだろうか。
テオは約束通り、バウアー家に援助をしてくれた。
その莫大な金額を前に家族共々目を回しかけたが、そのお金のおかげで領地経営は息を吹き返した。負債を返済し、崩れた崖は整備され、安全な新たな道まで整備した。
実は、送られた金額は最初にテオが提示してくれた金額よりも多かったのだが、援助の仲介をした銀行にウル宛の手紙が預けられていて、そこには「何も言うな」と短い言葉が添えられていた。差出人は書かれていなかったが、きっとテオだろう。
道の整備のおかげで経営が楽になったバウアー家はまず母の療養に従事した。領地の危機に極力医者にかかることを嫌がっていた母は、これを機に医者への診察を受けてくれるようになって徐々に回復してきたのだ。
それからラグナの寄宿学校への復学、イエニスの初等学校への入学、カトリナとフォルクマの進学も決め、少しずつバウアー家は活気を取り戻しつつある。
それもこれもテオの援助とラウレンツの助力のおかげだと、家族でラウレンツとテオへ感謝の手紙を送ったが、ラウレンツからの返事はあったもののテオからの返事はない。
――王都での暮らしは忙しいのだろう。
森の屋敷へはしばらく帰れないと言っていたはずだ。
ウルは自分へ言い聞かせるようにしてパンケーキを平らげた。
朝食を終えると兄弟たちは学校へ向かう。
今日は休みだというラグナは自室で勉強をするので、あとの家事を引き受けるのはウルだけとなる。
掃除に洗濯、昼食の用意。
七人分の洗濯物を干すのはなかなかの重労働で、庭いっぱいに張り巡らせた物干しに洗濯物を吊るし終えるとウルはようやく人心地つく。
「ウルリーケ」
洗濯かごを片付けようとしていたウルに二階から声をかけたのは母だ。自室の窓から顔を出して手招いている。部屋に来いということだ。
ウルはかごを洗濯室に片付けて母の部屋を訪れると、母が一人で紅茶を用意して待っていた。
「お疲れさま」
ウルを椅子に座らせて母が手ずから紅茶をふるまってくれるが、ウルは怖くて手が付けられなかった。母の入れた紅茶は、作法も温度も完璧でもなぜかとても苦いのだ。だから普段は父が入れてくれるのだが、肝心の父は会合に出かけて今はいない。
「もう何よ。私の紅茶が飲めないっていうの」
そう言いながらも母も自分の入れた紅茶に大量のハチミツとミルクを入れている。
「……それで、どうしたの。お母さん」
紅茶が苦いことを自覚している母が紅茶を入れることは滅多にない。
「ラグナも勉強中で部屋から出てこないだろうから、ちょうどいいと思って」
前置きして母が取り出したのは、小さな小箱と手紙だった。
「あなた宛てで三日前に届いたの。差し出し人を見たらラグナがうるさいと思ったから預かっておいたわ」
ラグナが帰ってきたのもちょうど三日前で、家族で農地へ行ったり買い物に出かけたりと少し慌ただしかった。テーブルの上に置かれた手紙を手にしてウルは「あ」と思わず声を上げる。
見覚えのある文字で書かれたウル宛の手紙の差出人は、テオドールとあった。




