◆5 貴女は怒るべきです
「あれ。私、どうして涙なんか……」
私、ミュゼ・パッシー伯爵夫人は、まさか自分が泣くとは思わなかった。
モレー公爵令嬢は黙って白いハンカチを手渡してくださった。
私はそのハンカチで涙を拭き、鼻をチンした。
「申し訳ございません。
ハンカチを駄目にしてしまいました」
「貴女に差し上げてよ。
それで、どうなさったの?
曇った顔をなさって」
事実上、一度しか会ったことのないモレー・ポルカ公爵令嬢に表情を読み取られてしまうとは。
私は、察しの良い貴人に対して、深々と頭を下げた。
「私ごときの心配をしていただき、感謝いたします。
ですが、家庭内の悩みでございますので」
「悩みの大半は身内に関するものですわ。
特に女性にとってはね。
お話しくださいな」
「でも……」
モレー公爵令嬢は、大きく溜息をする。
「正直、高位貴族の生まれというのも、ままならないものでしてね。
せっかくお茶会を開いて会話を楽しもうとしても、互いに腹の探り合いばかりになって、結局は、王都で流行している服飾や装飾品の話ばかりになるんですのよ。
『最近、あの店では素敵な指輪が売られている』とか、『宝石のカッティングがお洒落』とか、『ドレスの袖は膨らんだ方が良いのか、締まった方が良いのか』とか。
私に尋ねる内容も、『この服に似合うブローチはどのような色でしょうか』とか、『帽子のデザインは、これで良いでしょうか』とか、ほんとうにどうでも良い、お洒落や化粧、旅行先についてのことしか口にしないのです。
私にしてみれば、お茶会に出席なさる方々はそういった服飾や装飾のデザイン、化粧の種類や避暑地での過ごし方といったことに悩む必要がまるでないほど洗練された方が多くて、殆ど社交辞令のような、上辺だけの悩みしか耳にすることがないのです。
『私相手に話しても問題ない』とあらかじめ判断された内容を『悩み』という体裁で口にするだけなのです。
それなのに、貴女のように伯爵夫人になったばかりだというのに、学園時代のような騎士服をまとっただけの、服装に無頓着な女性が、コーヒーを片手に、窓辺で溜息をついている。
服飾といった表面的なものだけでなく、心の内にも悩みを抱えていらっしゃる。
私にしてみれば、久しぶりにアドバイスするに値する悩みが聞けそうで、心が躍りますのよ」
私、ミュゼは目を丸くする。
モレー公爵令嬢は広げた扇子の向こうで笑みを溢す。
「あら、さすがに不謹慎でしたかしら?
でも、貴女の悩みに真剣に答えるつもりですので、どうぞ胸につかえているモノを吐き出してお仕舞いなさい。
まさか、学園時代のように、『グレートボアをどうやって狩るのか』とか、『小型の魔物を追い込む時の陣形はどうするのか』といった不粋な悩みではないのでしょう?
もちろん、耳にした内容については、貴女の許可なくして、軽々に他言はいたしませんわ。
私、噂話を広めて陰で笑うような女性は嫌いですので」
久しぶりに、私は口に手を当て、失笑した。
目の前の高貴なご令嬢は、「誰も私に真っ当な悩みを打ち明けてくれない。ですから、心にある悩みを打ち明けてくださらない? 私の心が躍りますから」と言っているのだ。
満面の笑みを浮かべながら。
じつに皮肉な物言いで、聞きようによっては相当、失礼な発言だともいえる。
だけど、これはおそらくモレー公爵令嬢一流の気遣いなのだ。
「何を口にしようと、貴女が打ち明けることで、こちらが重みを感じることはありません。
私が興味本位で耳を傾けるだけなのですから、気軽にお話しなさい」
と呼びかけてくださっているのだ。
ここで扇子を広げて話をはぐらかすのが、あるべき伯爵夫人の態度なのかもしれない。
でも、今の私には口許を隠す扇子もない。
偽りの微笑を作るほどのゆとりもない。
誰にも話せなくて、心の中がモヤモヤしていたのだ。
たしかに、モレー・ポルカ公爵令嬢ほどのお方なら、私の愚痴に巻き込まれてどうにかなるお立場ではないし、ほんとうに、この場だけの打ち明け話として何かアドバイスしてくれるのかもしれない。
私、ミュゼは生唾を飲み込んで覚悟を決めた。
「じつはですね。
新婚の初夜に、別の女がベッドに侵入してきて、旦那様と契ることが出来なかったのです」
「まあ!」
モレー公爵令嬢は両眼を見開く。
想定以上のスキャンダルに、身を強張らせてしまったようだ。
構わず、私は話を続けた。
「その女は旦那様であるグラス様の従姉オヌリーヌ・モデスト子爵令嬢でした。
彼女は、『翌日には王命による仕事があるから』と昏睡魔法を旦那様にかけて眠らせてしまったのです。
ちなみに、私にも昏睡魔法をかけてもらうよう願ったのですが、私の方は気持ち悪くなって悪夢を見るばかりでしたけど。
で、翌朝もその女ーーオヌリーヌ嬢が居座って旦那様の隣に座って、『あ〜〜ん』と口を開けさせてトマトを食べさせる始末。
いくら馴染みの従姉とはいえ、おかしくはないでしょうか?
そう思った私は、『オヌリーヌ嬢には屋敷から出て行ってもらえませんか』とお願いしても、旦那様は首を横に振るんです。
『幼い時に母を亡くして以来、彼女は母親代わりだったから』と」
じつはオヌリーヌが旦那様にキスをした場面も目撃しているのだが、その時は夢うつつの状態で、現実のことなのか、妄想してしまったのかの区別が付き難かったので、そのことについては言及しなかった。
だがしかし、軽く事実を話しただけで、パチン! と扇子を閉じる音が聞こえた。
モレー公爵令嬢がこめかみに青筋を立て、憤怒の表情になっていたのだ。
「なんですか、それは!
あのオタク伯爵、そんなヤツだったの!?
見下げ果てたオトコですわね。
とても新妻を迎え入れた夫が取る態度とは思われません。
なぜ、斬って捨てなかったのです!?
魔物討伐の際に見せてくださった、貴女の剣戟は見事なものでしたのに!」
喫茶店は静かになってしまった。
店内にモレー公爵令嬢の声が響き渡ってしまったようだった。
「あら。私としたことが。
はしたなかったですわね。
ほほほほ」
モレー・ポルカ公爵令嬢は半身を浮かべた姿勢から、椅子に座り直した。
そして手を伸ばして、私の手を強く握った。
「良く我慢なさったわね。
さすがは我がルモン王国を担う騎士の家に生まれた女性です。
で、貴女はこれからどうするのですか?」
「はい。それに悩んでいるのです。
私としては不快でしかたないのです。
実際の義母でもない女性に、旦那様を子供あしらいにされ、それを目の前で見続けるのは、耐え難い苦痛です。
いくら王命による仕事だからと、それを口実に寝室にまで侵入されるなんて」
「ほんとうですよ!
王国貴族の婦女子にあるまじき振る舞いです。
ましてや、初夜のベッドにーー」
「でも、私は考えたんです。
怒りを発するというより、私は悲しくなって、心が痛くなっていました。
それは何故か、と。
たしかに従姉オヌリーヌ嬢の振る舞いは、非常識極まりないものでした。
わざと見せつけるようにして、旦那様を子供扱いにするのですから。
でも、それが気に入らないのなら、その従姉のオヌリーヌ嬢を相手に怒りをぶつけているはず。
なのに、そんな気が起きなかった。
それよりも胸に痛みが感じられるばかりでした。
それは私が、旦那様の態度に失望したからだ、と思います。
旦那様が、彼女を母親代わりとして育ってきたのは事実なのでしょう。
それは、わかります。
幼くして母親を失った旦那様を、彼女が学園時代にまで世話を焼いてくれたのもほんとうなのでしょう。
でも、私と結婚したからには、私のためにーー『妻が嫌がっている』という事実の方を、旦那様には重視してもらいたかったのです」
「わかります。
その『母親代わりだった』という言い訳は、『オヌリーヌ嬢は従姉であって、愛人ではない。貴女のように女として好意を寄せていないのだから嫉妬するな』と弁明しているだけです。
結局のところ、貴女の旦那様は、その従姉の我儘ばかりを通している。
妻である、貴女の意向を無視して……」
モレー・ポルカ公爵令嬢が強く同意してくれたのが嬉しくて、また涙が溢れてきて、私の頬を伝った。
「ありがとうございます。
私、不安だったんです。
初夜を奪われたとはいえ、自分は、旦那様のーー嫁ぎ先での『当たり前』を崩そうとする『我儘な女』になってしまうのか、と。
ですから、私、旦那様に提案したんです。
『従姉には屋敷を出てもらって、仕事の上で昏睡魔法が必要なら、そのときにだけ外から呼び寄せる通いに出来ませんか』と。
でも、それすらも断られてーー」
モレー元生徒会長は、バン! とテーブルを平手打ちして席を立つ。
「なんということでしょう!
すでに貴女は譲歩したうえに、代案まで提示しているではありませんか!
それなのに無視するとは。
貴族紳士の風上にも置けません。
どうしてくれましょう!」
モレー公爵令嬢が怒声を発して以降、喫茶店内は水を打ったように静かになっていた。
そしてお客の誰もが、私の話に聞き耳を立てている状態であった。
ここは貴族街の中央に位置付く喫茶店で、学園にも近い。
客筋の殆どが貴族、それも学園関係者だ。
三十人ほど居るお客様の様子は似たようなものだった。
男性は眉間に皺を寄せるか、苦笑いを浮かべており、女性は頬を膨らませ、扇子を握り締めて震わせている。
この場に居ないグラス・パッシー伯爵に対して、男性は嘲り、女性は憤慨していたのだ。
やはり、これが普通の反応だったと知り、心中のモヤモヤが晴れる気がした。
が、同時に、自分が貴族婦人として、やってはいけない禁を冒してしまったとも思い、青褪めてしまった。
私は立ち上がって、周囲を見廻してから、深々と頭を下げた。
そして目の前に立つモレー公爵令嬢にも促して、改めて席に着き、訴えかけた。
「モレー・ポルカ公爵令嬢様。
どうか、お気持ちを鎮めてくださいませ。
夫は現在、王命を賜った仕事に従事しております。
何日にも渡る大仕事だと伺っております。
ですから、夫にしても、出かけの際のゴタゴタが面倒で、私のお願いを適当にあしらっただけのつもりかもしれません。
ゆえに、私の感想だけで非難するのはフェアではないと思います。
何日後かわかりませんが、夫が帰ってきたら、改めて妻である私の意向を汲んでいただけるよう、訴えようかと思います。
その従姉のオヌリーヌ嬢に対して女性として嫉妬しているのではなく、『貴方様が、妻である自分の意向を無視して、心に寄り添っていただけない夫であることに失望しているのです。悲しくてなりません』と!」
私が力強い口調で宣言した。
すると、モレー公爵令嬢は立ち上がって、拍手してくださった。
そして、やがて喫茶店のお客様全員から、拍手が湧き起こっていた。




