◆12 放蕩王子の登場
ミュゼ伯爵夫人の貞操の危機が、即、人類の危機に直結しかねないーー。
そうした「伝承」を気に留めることもなく、現在、ミュゼはモレー・ポルカ公爵令嬢のお屋敷に避難していた。
ミュゼとモレーは小さなテーブルを挟んで対面しながら、お茶を飲んでいた。
モレー・ポルカ公爵令嬢は、銀色の扇子を広げて、その裏で笑う。
「グラス・パッシー伯爵が、貴女を探し回っているそうよ」
さすがにミュゼがポルカ公爵邸に逗留しているとは、彼は思っていないようだ。
ほんとうにグラス伯爵は男性にしか目を向けていないようで、モレー・ポルカ公爵令嬢が催した舞踏会に参加して、その際にミュゼがモレーと共にいたのを目撃したにも関わらず、意識していたのは同席していた上司のトロワ侯爵のみで、モレー公爵令嬢には儀礼的にお辞儀をしただけで、気にも留めていなかった。
モレー・ポルカ公爵令嬢については、まるでミュゼと接点がないかのように思っている。
「ところで、オタク伯爵との離婚については話が進んでおりますの?」
モレー公爵令嬢は扇子を振り向けるが、ミュゼはつい俯いてしまう。
「王弟殿下にお伝えしたので、そのうち沙汰が下るかと思いますがーー」
我がルモン王国では、妻の側からの申し立てでは離婚することはできない。
だから離婚を実現するために、王命を得なければいけないーーミュゼはそう思っていた。
モレー公爵令嬢の執事がやってきて、令嬢に耳打ちし、一つの封筒を手渡す。
それを手にして、モレー・ポルカ公爵令嬢は扇子をパチン! と通じた。
「ミュゼ様。朗報です。
王命をいただかなくとも、離縁ができそうでございますわよ」
「どうやって……?」
「あの魔法オタクのグラス伯爵が、王宮魔法師団を辞めるはずはないものね。
なかなかトロワ侯爵も鋭いところをお突きになられたものね。
ふふふ……」
どうやら夫の上司でもあるトロワ侯爵が動いたようだ。
だが、ミュゼにはどういった方法で、パッシー伯爵家からの離脱が可能になるのか、さっぱりわからなかった。
◇◇◇
翌朝ーー。
王宮の北側にある魔法師団棟では、緊張が走っていた。
鳴り物入りで、着任したばかりのグラス・パッシー伯爵が、上司から罪に問われていたのだ。
外務省に出向しているべき時間に、王宮宝物殿で、従姉のオヌリーヌと逢引していたことが明らかとなったからであった。
「証拠はあるのですか!?」
とグラス伯爵が抗弁すると、対峙するトロワ侯爵は溜息混じりに答える。
「私自身が見たのだ。
よもや君は否定すまい。
君の自慢の従姉も居たな。
一緒になって魔石台を前にして話し込んでいた。
そのときに見たのだよ」
トロワ侯爵は、あえてミュゼが一緒に居たことは伏せていた。
だが、実際、グラスとオヌリーヌの二人が外務省に出向しているべき時刻に宝物殿に居たことを、トロワ侯爵が、この眼で見たことに嘘はないのだ。
服務規定を盾に、トロワ侯爵は部下のグラス伯爵に通告した。
「魔法師団から追放されるか、ミュゼ伯爵夫人と離婚するかを選びたまえ!」と。
何も王命を持ち出すまでもない。
ルモン王国では、男側の意志さえあれば、離婚はたやすいものなのだ。
ならば、グラス伯爵に妻との離婚を決意させれば良いだけの話であった。
魔法オタクのグラス伯爵にとって、魔法師団に入ったことは誇りであるはずだ。
それなのに、家庭内のゴタゴタが理由で出世街道から外れるのは許せないだろう。
そういう価値観で生きてきた男だと、トロワ侯爵はグラスのことを思っていた。
通常、服務規定違反程度で職を辞するように要求するのは、罰にしては重過ぎる。
普通なら、数日の謹慎や減給で片が付くレベルの話だ。
とはいえ、外務省に対して顔向けができないという体裁と、魔法師団の顧問である王弟殿下の顔を潰したという表向きの理由を持ち出して、厳しい通告をしたのであった。
もちろん、トロワ侯爵としては、ミュゼがグラス伯爵と離婚することが目的であり、グラスを魔法師団から追い出すことは本意ではなかった。
グラスほどの攻撃魔法の使い手は、そうそう居ないのだ。
トロワ侯爵もかなりの使い手だが、あくまで回復や治癒を目的とした補助魔法であって、グラス伯爵の能力とは質が違っていた。
グラスに魔法師団を辞するよう迫ることは、当然、ミュゼとの離婚に同意しやすくするための方便であり、ミュゼのみならず、同時にグラス伯爵にとっても良かれと思ってのことであった。
すでにパッシー伯爵家での初夜の一件は有名になっていて、夫婦共にかなり恥ずかしい立場にあって、社交界に顔を出すのが憚られる状況である。
とはいえ、すぐさま離縁すれば、少しは噂も収まるだろう。
トロワ侯爵にすれば、グラス伯爵のためを思っての措置でもあったのだ。
ところが、グラス・パッシー伯爵は、思いもしない反応に出た。
顎を突き立て憤然と歩を進め、懐から一枚の紙を取り出して、上司の胸に押し当てた。
「わかりました。
魔法師団なんか、辞めてやりますよ!」
トロワ侯爵に辞表を叩きつけたのである。
グラス伯爵は顔を真っ赤にしていた。
肩で息をしている。
誰もが言葉を失った。
辞表を提出できるということは、あらかじめ魔法師団を辞する可能性を鑑み、文書にして用意していた、ということである。
上司のトロワとしては、まったくの想定外であった。
それに、これほど激した状態になったグラスを見たのは、同僚たちにとっても初めてのことであった。
グラス・パッシー伯爵は颯爽と身を翻し、ツカツカと出口へと向かい、皆に聞こえるような大声で叫んだ。
「ミュゼは僕のものだ!」
◇◇◇
グラス・パッシー伯爵がミュゼとの離婚を拒んで、魔法師団から追い出されたことは一つの事件として、王宮や貴族社会で話題として取り上げられる事態となった。
その日の夜にはモレー・ポルカ公爵令嬢の許にも、その報せは届いていた。
食後のデザートを愉しんでいるときに、事の経緯を記した手紙をトロワ・メスト侯爵から受け取り、モレー公爵令嬢は呆れてしまった。
「まさか、あのオタクくんが、自ら魔法師団から出て行くなんて……」
意外なことであった。
ミュゼも何度も目を瞬かせた。
「信じられません。
魔法科首席卒業なのに、経歴を丸ごと捨てたようなものです」
モレー公爵令嬢はけだるそうに吐息をつく。
「それが、そうでもないのよ。
彼、どうも外務卿からお声がかかっているそうなのよ」
外務卿エビウス・サキ伯爵の後ろには魔法国ゾルバがある。
グラス・パッシー伯爵は魔法科トップの成績でありながらゾルバ魔法国への留学を果たせなかった。
パッシー伯爵家は代々魔法を司る家系であったため、ルモン王国の面子を慮って「留学の必要なし」とすることが家の方針となっていたのだ。
だが、じつはグラスは内心、このパッシー伯爵家の方針に納得が入っていなかった。
その結果、彼は人一倍、ゾルバ魔法国への憧れを強くし、ルモン王国の王宮魔法師団に属することよりも、ゾルバ魔法国に贔屓にされる栄誉の方を選択したようだった。
「モレー様は王宮官僚の動向にもお詳しいのですね」
ミュゼは感嘆すると、モレー・ポルカ公爵令嬢は、
「私というよりお父様がね」
と、苦笑いを浮かべてテーブルに肘を付いた。
モレー公爵令嬢の父親ハルト・ポルカ公爵は、長年ルモン王国の宰相を勤めている。
王国宰相ともなると、相当広い情報網を持っているらしい。
モレー公爵令嬢は扇子を広げて、その上から覗き込むようにして相手を見詰める。
「そういえばミュゼ様。
お父様が貴女に会いたいって言っているわ。
どうする?」
「いえ、私などは……」
ミュゼは反射的に手を振る。
そんなミュゼに対し、モレー公爵令嬢は頭を振る。
「そのように謙遜するものじゃないのよ。
まだ上層部しか知らないんだけど、宝剣の所有者は貴女だって決まったようよ」
ミュゼは手にしたカップを置いて、居住まいを正す。
「宝剣については、実家に返していただきたいとお願いしたんですけど」
モレー公爵令嬢は、扇子で自らを煽ぎながら流し目をする。
「王家としては、貴女のご実家には何も知らせずに事を済ませたいみたい。
なにか、強固な理由があるようね」
「……」
私、ミュゼは何をどう言ったら良いのかわからなかった。
実家に隠し事をするのもはばかられる気がした。
とはいえ、たしかに宝剣の行方がどうなるかということについては、父から手渡された段階で私に任されているのだから、今更、宝剣の帰趨について両親に報せるのも負担となるだけだとも思われた。
実際、結婚式以来、実家とは連絡を取っていないが、すでに旦那様であるグラス伯爵とのゴタゴタを噂で聞きつけて恥ずかしい思いをしているだろう。
実家の両親は貴族にしては軽輩な騎士爵位ゆえ、もとより貴族の社交界に顔を出す習慣がないのが、せめてもの救いであった。
ミュゼがいろいろと思案して困惑する様子を見て取り、モレー・ポルカ公爵令嬢は話題を変えた。
「そう言えば、貴女宛てに招待状が届いているわ」
ミュゼは招待状を受け取り、封蝋が押された側を見る。
「差出人は?」
差出人名は、記されていない。
かといって、怪文書のような感じもせず、しっかりとした紙質の封筒であった。
「さあ、誰かしらね。
王宮からの使いが、ポルカ公爵家の侍女に手渡したものだから、王弟殿下の筋からじゃないかしら」
封筒に納められていた紙に記された文面を見ると、丁寧な文字で以下のように記されていた。
『ミュゼ伯爵夫人様へ。
グラス・パッシー伯爵との離婚を実現する方法がある。
明日にでも面会したい』と。
モレー公爵令嬢は、「随分と怪しい手紙ですわね」と言うが、ちょうどトロワ侯爵が狙った誘いを蹴ってまでグラス伯爵が私との婚姻に固執していることが判明した矢先である。
これは、トロワ侯爵による手紙と、ミュゼは踏んだ。
一つの作戦が失敗したので、新たな思い付きがあって、私と相談しようとしているのかもしれない。
「私、行ってみます」
ミュゼは丁寧に手紙を閉じて侍女に手渡すと、決意を込めて、両手を強く握り締めた。
◇◇◇
差出人不明の謎の手紙の指示に従った結果、思いも寄らぬ、変わった場所で、手紙の主と待ち合わせすることとなった。
貴族街の外れにある娼館ーー。
やたらと窓が大きい三階建ての建物で、夜になると、この窓の前で、半裸にも近い女性がポーズを決めるのだという。
往来を歩く貴族紳士や上級市民が、その姿を眺めて気に入れば、その娘を指名して入店するのだそうだ。
今は真昼なのでほとんど人の出入りはなく、ゴテゴテした看板と大きなガラス窓の向こうにガランとした娼館内部のさまが暗がりの中に覗き見えるだけだ。
そんな娼館の玄関前で、青いドレス姿で、ミュゼは仁王立ちしていた。
(なんて悪趣味。
トロワ侯爵も独身だから、遊んでいて当然なんだろうけど……)
ミュゼは招待状を寄越したのがトロワ侯爵だと思っているので、まさかこんなところに招かれるとは思いもしなかった。
それゆえ、トロワ侯爵の人となりに失望していた。
馬車が正面玄関に停まったから、仕方なくミュゼは堂々と玄関を開けて入る。
カランカランと鈴の音が鳴る。
玄関が開いたことを示す音だ。
その合図に反応して、年増で厚化粧の女がミュゼの近くに走り寄ってきた。
「あら、女性のお客様?
珍しいわね」
玄関から娼館の中に入ると、いきなり吹き抜けのホールになっていた。
ホールには大きな丸テーブルが幾つも置かれてあり、そこにはすでに何人かの娼婦があられも無い格好で、ネイルや化粧の手入れをしたり、双六やカードで遊んでいた。
まだ仕事時間ではないから、ダラダラとしているのだろう。
建物の構造としては左右の壁と正面奥に幾つもの扉があり、その向こうで娼婦は客を招き入れて仕事をするようだ。
三階部分まで天井が吹き抜けになっており、玄関ホールから二階と三階の扉の列まですべて見渡せる仕様になっている。
二、三階に渡された廊下には柵があり、上からホールを見下ろせる。
まるで大勢の囚人を収容している刑務所のようだ、とミュゼが首をもたげて周囲を見渡す。
そんな彼女に近寄って来ていた厚化粧の女が、パンパンと手を叩く。
すると、丸テーブルに貼り付いていた娼婦だけではなく、奥の扉までが開いて、けだるそうな様子で、大勢の若い女性たちが姿を現した。
皆ほとんど下着が透けて見えるローブをはおっただけの格好だった。
年増女がミュゼの耳元で早口でまくし立てる。
「この娼館には可愛い娘を取り揃えていますわよ。
心配要らないわ。
相手が男性だろうと女性だろうと、夢心地にしてみせます。
ウチの娘たちは皆、プロですから」
女主人はそう言うが、どうだか怪しいものだ。
娼婦たちも、男相手になら媚びを売るところだろうが、相手はミュゼーー騎士コース卒業の女性である。
娼婦たちの表情はさまざまで、怪訝そうな顔をするのもいれば、中には「娼婦だからって、馬鹿にしてるのか!?」とばかりに、敵愾心いっぱいで睨み付けてくる者もいた。
ミュゼにしてみれば、騎士として鍛錬しているときに遭遇した、決闘相手や魔物と対峙した際とはまるで違う、別種の緊張が感じられた。
「いえ、私はーー」
二十名ほどの娼婦たちに詰め寄られて、にわかに化粧や香水の匂いが立ち込める。
ミュゼが喉を詰まらせながらも何か話そうとしたとき、上の方から声が聞こえた。
「おお、君がミュゼ・パッシー伯爵夫人か。
待ちかねたぞ!」
ミュゼが立つ玄関ホールから二階部分を見上げることができる。
その二階部分、正面奥の扉のから、一人の太った中年男が出てきて、廊下の柵に身体を乗り出すようにして手を振る。
「悪いな、主人。
ミュゼ夫人は俺の客なんだ」
二階から声をかけてきた中年男は、頭が少し禿げかかっているが、口髭も顎髭も綺麗に整えられており、葉巻を咥えている。
相当遊び慣れた感じだ。
ミュゼが知っている男性騎士とは違って、身体を鍛えていない分、醜く見えた。
だが、この娼館にいる娘たちからは人気があるようで、特に厚化粧の年増女がおっさんに向かって「殿下」と呼びかけつつ問いかけた。
「このご婦人は殿下のお客様でしたか。
ーーたしか今、ミュゼ・パッシー伯爵夫人と言いました?」
その瞬間、ミュゼの目の前で居並ぶ女性たちが、激しく反応する。
そしてミュゼの身体を頭から足の爪先まで見渡してから、互いに額を寄せ合い、囁き始める。
「ああ、この貴婦人が噂の……」
「なるほどねえ。
でも、女性にしては、筋肉が付き過ぎよね」
「これじゃあ、気弱な旦那様なら、裸足で逃げ出してもおかしくないわね」
「ほんと、凄い筋肉ねえ」
「ねえ、アンタ、私と遊んでみない?
太ったオヤジばかり相手をしていて、ウンザリしていたのよ」
何人もの娼婦が、それぞれ勝手なことを言いながら詰め寄ってくる。
当惑していると、彼女らを押しのけ、中年男が出張って来た。
「おいおい、どけよ、おめえら。
俺様の客だと言っただろう?」
二階から声をかけてきたおっさんが、いつの間にか玄関ホールにまで降りてきていた。
二階に居るのを見上げたときには、普通の背丈をした、少し太った男に見えていた。
が、同じ地面に立っていると相当に大きい偉丈夫であることがわかった。
思ったよりずっとお腹が突き出ているが、それによって余計に巨漢感が増していた。
「貴方が、私に招待状を?」
「ああ、そうだ」
上目遣いのミュゼに、おっさんは得意げに腹をポンと打つ。
トロワ侯爵ではない、見知らぬおじさんが招待状の差出人であった。
少しだけホッとした。
「貴方は誰?」
ミュゼが怪訝そうに尋ねると、周りに集まって来ていた娼婦たちが互いに顔見合わせ、「そんなことも知らないのか?」と驚いた顔をこちらに向けてくる。
おっさんは快活に腹を揺らせて笑った。
「俺か?
俺はルモン王国の第三王子エックス・ルモンだ。
夜の街では知らないヤツはいないんだが、ミュゼ伯爵夫人の耳にまでは、俺の武勇伝が轟いていなかったとは、じつに残念だ」
はっははは!
と、勝手にミュゼの肩をバンバン叩いて哄笑する。
ミュゼを呼び出した相手は、「放蕩王子」として名高い、三十路の第三王子であった。




