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きみと私の放課後  作者: はる
悠太と彩
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傷と傷跡・2

 彩さんが体育館の中にいる。

 気が散って仕方ない。いつまでいるんだろう。

 いや、ハンド部を撮影してるってのは分かってるけど。でも彩さんはPR委員でも何でもない。本人も手伝いだって言ってたし。

 それならさっさと帰ればいいのに。

 練習していても、体育館二階の観覧席なんかじゃなく、同じフロアに部外者がいるってだけでどこか気になってしまう。

 もしボールが飛んで行ったら? あの人はよけられるのか?

 あんなコートの近くで、撮影している他の生徒と一緒に部員が練習している姿を興味深そうに眺めている。

 いや、分かってる。あの人が本当に見たいのは部長だけだ。

 でもおそらく、練習の邪魔をしてはいけない、とでも思っているのだろう。あの人は極力部長の方を見ないように意識しているようだった。

 そんな風に意識している姿はかえって目立つものだ。視界に部長が入ると慌ててぱっと目をそらす。でも気になるのか、そっと盗み見るように視線を動かし、いやいや、と目を閉じて首を振る。

 くだらない。彩さん自身は動画を撮影しているわけじゃないんだから、好きなものを好きなように見ればいいんだ。

 彩さんは気を取り直すように体育館全体をぐるりと見まわした。途中で一瞬俺と目が合う。

 彩さんはちょっと目を見開いて、ばれないように、ということなんだろうけど、小さくガッツボーズして見せた。

 何だ? 頑張れ、とでも言っているつもりだろうか?

 その後すぐに俺からも目をそらした。

 ああやっていろいろ周囲を見ているつもりでも、不意に襲い掛かってくる災難には完全に無防備なんだよな。例えば、自分の方に飛んでくるボールとか。


「なに、悠太、そんなに撮影が気になっとるんか?」


 同級生の部員に言われ、肩をすくめる。


「普段練習しとる時に、近くに部外者とかおることあんまりないやろ。別になんでもええけど」


「あれだけ長時間練習なんか撮っても、使われるのはほんの一部やろうしなあ。それより試合を撮ってもらった方がいい映像になりそうやないか?」


「確かに」


 そんな話をしていると、案の定、撮影しているやつらの方に誰かが投げ損じたボールが飛んで行った。

 思わず体が反応しそうになるが、ぐ、と踏みとどまる。

 俺が行ってどうする? 今動いたって間に合わない。たとえ間に合ったって、また彩さんの体に俺の手や体が当たって怪我をさせたら?

 一瞬の間に俺がぐるぐる考えていると、俺なんかより先に近くにいた三年の先輩がボールに手を伸ばしてはねのけた。


「うわー、びっくりした!」


 撮影していた二年生が声を上げる。彩さんも肩をすくめて大きく瞬きしていた。


「この近くはボール飛んでくるから危ないで。もうちょっと離れて撮影した方がええよ」


「ありがとうございます! でもこの近くで撮ってる臨場感がいいねんよなあ……」


 渋っている二年に、彩さんが声をかける。


「でもここにおっても練習の邪魔になったらあかんし……もうちょっと離れたところで、ズームで撮る方がええんちゃうかな?」


「そうですね……」


「あれ? 花房さん、そこぶつけた?」


 三年の先輩が彩さんに声をかける。彩さんが、え? と言って先輩の方を見る。


「ほら、その額のところ。なんか跡になってへん?」


「え? あ、これは今ちゃうくて、以前できた傷で……」


 ぎくっとする。彩さんの額の傷。それはまさに、俺がつけてしまった傷だった。


「あ、そうなんや。ごめん、いらんこと言うて」


 女性の顔に傷跡がある。もちろんそれは誰が見ても穏やかじゃない。そんな傷跡について指摘してしまったことを先輩は謝罪していた。

 でも彩さんは、屈託なく笑った。


「全然! なんもいらんことちゃうよ? 実はね、私、この傷跡結構気に入ってるねん。ほら、なんかかわいくない? 顔横にして見てみたら、ちょっとハート形っぽくなってるねん」


「ハート形?」


「そう! ファッションでそういうペイントする人もおるやん? 私はそんなんせんくても、天然物で顔にハートがあるねん。すごいやろ?」


「はは、そうなんや」


 先輩もそう言われると笑うしかないみたいだった。


「ええ傷ができてラッキーやったんや。……いや、傷なんやし、ラッキーまで言うたら言いすぎか」


「全然言いすぎちゃうよ! そんな風に言ってもらえた方が、おお、私ってラッキー! って思えるから」


 笑顔で先輩と会話している彩さんの話を、俺は呆然としながら聞いていた。

 ……ラッキー? あんな傷ができたのに? 俺のせいで消えない傷を負ったのに? それをあの人はかわいい、ラッキーだ、と笑い飛ばしてしまうのか。

 先輩と彩さんのところに部長がやってきた。


「少しくらいはかまわんけど、練習中にあんまり雑談されるんは……」


「おう、晴太郎、すまん」


「あ、晴くん……やなくて、瀬戸くん!」


 彩さんがぱっと表情を輝かせる。


「ごめんね。今私のこの傷のことちょこっと話しとって……」


 彩さんが額の傷に指で触れる。部長の視線もそこで止まった。


「ああ。……花房さんの新しい長所、やっけ」


「長所っていうか、チャームポイントね!」


 楽しそうに笑っている彩さんを見て、部長も表情を緩めた。

 その二人を見て、理解した。

 そうか、この人たちは、二人であの傷を乗り越えたのか。

 俺が傷つけた苦しみに留まり続けている間に、二人は傷について考え、消化し、一般的な女性の顔の傷は忌むべきものだという価値観を脱ぎ捨て、傷にまったく新しい意味を与えたのか。

 傷がかわいい? 長所? チャームポイント?

 その価値観を、二人は無理に思い込むのではなく、ごく当たり前のように、自然に受け入れているように見えた。

 俺と二人は、見ている世界が違う。

 そこで初めて、俺はどこかで傷つけた苦しみを持ち続けていたいと願っていたのだと気付いた。

 そのことによって、俺と彩さんはいつまでもつながりを持ち続けられると思っていた。

 彩さんは傷を見るたびに俺を思い出す。彩さんの傷を見るたびに、俺は彩さんの中に俺がいるのだと感じられる。

 忘れられるくらいなら、苦い思い出としてでもあの人の心の中に残り続ける方がいい。

 ……でも、なるほど。部長がそれを許すはずがない。

 部長はきっと、俺なんかでは想像もできないような方法で、彩さんの傷から俺を切り離したんだ。

 だから彩さんは、おそらくもう傷を見ても俺を思い出さない。



 俺は大きく一つ、ふう、と息をついた。

 いや、これでいい。

 俺の欲なんてものは置いておいて、あの人の心を曇らせたままでいていいはずがない。

 今あの人は、額に残ってしまった傷のことを気に病んでいない。それが一番じゃないか?

 あの人の笑顔を消した人間が俺じゃない。それで充分だ。

 ぐっと両手を天井につきあげて伸びをし、腕をぐるぐる回してから、俺は二人に向かって思いきりボールを投げつけた。

 当然すぐに部長が気付いて、バシッとボールをとらえる。

 俺は素知らぬ顔で二人に駆け寄った。


「あーすんません。コントロールミスっす」


「気いつけろよ」


 部長が俺にボールを軽く投げ、それを受け取る。

 ボールを手に持ったまま、俺は彩さんに近付いた。


「へー、どれどれ、どれが彩さん自慢の跡やって?」


 俺が突然近付いたので彩さんは驚いたように目を見開いたが、後ずさったりひるむことなく俺を見上げた。

 彩さんの目の上に傷跡が見える。

 その傷を、こんなにしっかりと見たのは初めてだった。

 こんな風にまじまじと見つめることができるのは最後かもしれない、と思ってしっかりと傷を目に焼き付ける。


「うーん、これ、ハートか? むしろあの、中華街で売っとる角煮まんみたいな形に見えるけど」


「角煮まん!? ひど! ハートやって!」


 彩さんが眉を上げると、一緒に傷も少し動いた。彼女の顔に刻まれた、彼女自身に組み込まれた傷跡。


「へいへい、ハートね。そのお気に入りの傷がついたんは、俺のおかげでもあるわけやんな」


「え、だからちゃうって。私が勝手に転んでできた傷やねんから」


 あくまでも彩さんはその傷ができたのを俺のせいだと認めない。分かってるけど。でも俺の中でだけその事実を持ち続けるんだ。この先もずっと。


「あ……でも」


 彩さんが、少し宙を見てから俺の目を見た。


「この傷ができた時、その前に、ユウくんが野球のボールから私を守ってくれたってこともセットで覚えてるからね。傷は傷で私がどんくさかったからついてもたけど、同じ時に他のことからユウくんがちゃんと私を守ってくれたんも分かってるよ。だからユウくんは、自分のせいで私に傷がついたって思うんちゃうくて、ユウくんのおかげで私はこれしか怪我せんですんだんやって自慢に思ってくれてええよ」


 彩さんは鼻にしわを寄せてニッと笑った。


「ちゃんとボディガードの役目果たしてくれたんやんね!」


 彩さんの言葉は明確に俺を突き刺した。

 見事に俺を貫通して、棘を残すことすら許してくれなかった。

 この人と俺は全然違う。この人は俺の気持ちなんか知らないし、分かろうともしない。ただ自分の信念に従って行動するだけだ。それだけで俺はこの人との違いを思い知らされる。この人と俺の人生は絶対に交わることはない。慮られているのに突き放されているような気がした。

 怪我させてるのにボディガードの役目を果たした? その程度の怪我って、跡が残ってるじゃないか。

 俺が言葉を探す暇もなく、部長がパンパン、と手をたたいた。


「長くなりすぎや。さっさと練習に戻れ」


「あ……瀬戸くん、ごめん。私がいらんことばっかり話しとったから」


 彩さんが慌てたように自分の口を手で押さえる。


「いや、けじめをつけなあかんのはこっちやから。撮影の人らはもう少し下がってもらって、ボールが来ん場所で撮影を続けてもらってええか?」


「うん、もちろん」


 そう言って彩さんたちは体育館の隅の方へ移動した。もう近付くことはない、遠くへ。

 どれだけ離れた場所へ移動したとしても、部長と彩さんの間に距離なんてきっとないんだ。俺はどれだけ彩さんと物理的な距離が近付いたとしても、果てしなく遠くにいるのに。

 ……でも、そんなことは最初から分かっていたことだ。

 すぐに勝手に惑わされて、もしかしたらもっと近付けるんじゃないかと考えてしまうけれど。

 実際には、俺が彼女に近付けたことなんか一度もない。

 今までも、これからだって。

 俺たちはきっと、離れた場所から、あの人は元気なんだろうか、とたまに思い出す、それくらいの距離感で充分なんだ。

 そのうち時間が流れて、あの人も俺も、顔を見ることも、思い出すこともなくなって、やがてお互いのことなんて忘れてしまうんだろう。

 あの人の額に残った傷。ハート形の傷は、もしかしたら俺の心なのかもしれない。

 ……俺の心? どんなロマンチストだよ、と馬鹿馬鹿しく思うけれど。でもただの傷をハートだ、と言い切ったあの人の言葉に、俺の中のどこかが引きちぎられたような気がしたんだ。

 棘を残すことすら許してくれないあの人は、俺の心を引きちぎり持って行ってしまった。

 俺の心の一部分をあの人の額に残したまま、俺たちはやがてその存在すら忘れていくのだろう。

 あの人の傷は消えない。俺の傷も消えない。二人とも傷を抱えたまま、これからも何事もなかったように生きていく。傷があったことすら忘れてしまうけれど、傷は消えたわけじゃない。

 ずっと残り続ける。

 そう思うのは、悪くない気分だった。


 俺は駆け足で最初にいた場所に戻った。


「さっき、部長のところでなにをそんなに長話しとったん?」


 同級生に聞かれるが、俺はただ肩をすくめてみせた。


「あー腹減った」


 そう、俺は腹が減った。今日部活が終わった後、何を買い食いしようかあれこれ考える。コンビニで豚まんを買うか、それとも商店街で焼き鳥を買うか……

 食い物はいい。俺の腹も心も満たしてくれる。

 さっき引きちぎられてしまった分を満たすために、早く腹一杯食わないと。

 撮影のことも彩さんのことも、考えるのはやめた。

 そうだ、さっき角煮まんのこと考えたから、角煮まんを食いたい。

 でも中華街か……

 部活が終わってからじゃ、中華街に行ったって完全に店は閉まってる。

 土日も部活だし、買いに行く暇がない。

 いや、コンビニで豚まんとレトルトの角煮を買ってきて、豚まんの中身だけ先に食って角煮を挟むのはどうだ? 自作の角煮まん! めっちゃいいアイデア!

 ほら、こんな風にすでに俺の頭の中は食い物のことでいっぱいだ。

 腹はぐうぐう鳴ってるけど楽しくて仕方ない。

 だからもう傷のことなんて忘れてしまった。


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