彼女の傷跡について
彩が怪我をした。
校庭で転んで、レンガで額を切ったのだ。
傷は浅かったようだが、病院で傷口を縫い、額にガーゼを当てている彩の姿は痛々しかった。
本人は何てことない、平気だと笑っているけれど……
でも若い女性が顔に傷を作ってしまうなんて、本当は辛いんじゃないだろうか。
彩が額……右目の上に当てていたガーゼは、日が経つとやがて絆創膏に変わった。それだけ回復してきたのだろう。
二人でいる時に、俺がその絆創膏を見ていると、彩は俺に気になる? と尋ねた。
「……これ、まだ痛いか?」
「え、もうほとんど痛くないよ。ぶつけて切ったけど、傷口はもうふさがってるし……」
「ちょっとだけ触ってもええか?」
「え? ……うん、別にええよ? あんまり強く押さんといてくれたら」
彩の許可を得て、そっと絆創膏に触れる。絆創膏に血はにじんでいない。本当にもう傷口はふさがった、ということなんだろうか。
怪我をしてしまってかわいそうに、と思うけれど、そんなことを口に出したら彩が辛くなるだけかもしれない、と思って言わなかった。早く良くなるといいのに、とただそれだけを願った。
俺は少しだけ絆創膏に触れた後、ゆっくりと彩の頭をなでた。
彩はそれだけしか触らないの? と不思議そうにしながら、頭をなでる俺の手が気持ちいいと嬉しそうに目を閉じた。
絆創膏もやがて外された。
彩の右の眉の上には、薄く跡が残っていた。
でも近付かなければ分からない。半径1m以内に近付いてよく見ると、うっすらと傷が見える、という程度だった。
彩はやはり傷が気になるのか、前髪を傷の上に乗せて撫でつけたり、化粧をして隠したりしていた。
傷のせいで彩の表情が曇ってしまうのは嫌だった。それは避けたかった。
二人だけでいる時、俺はそっと彩の前髪をよけて、傷口を出した。
彩は特に嫌そうにすることもなく、俺にされるがままだった。その彩の反応が、俺を受け入れていると言葉にしなくても語っていた。
目の前に彩の傷が見える。
レンガにぶつけて、皮膚が裂けてできた傷。縫われたことによって、かすかにひきつれたような跡がある傷。
とてもかわいそうなのに、その傷口を見ると、それは彩が生きている証明のように見えて感慨深かった。
傷はもうふさがっている。血が出てかさぶたができていたはずなのに、それもすでに剥がれ落ち、新しい皮膚が生まれている。
彩の細胞が新しく生まれ、その場所で新たな皮膚として彩の体を守っている。
それが俺にはとても美しく見えた。
「……ここ、もう痛まんか?」
俺はできるだけ力がかからないように、指先に全神経を集中させながら彩の傷口に触れた。
「うん、もう平気。縫ったせいか、なんかその辺、触られても他の場所と感覚がちゃうねんよね」
「それは、痛いとかじゃなく?」
「全然痛くはないよ。ちょっと……なんか、触られても、薄い膜の上から触られとるみたいな感じ? まあほかの場所とはちょっと違う感覚かなあ」
「そうか。……痛くないんやったら良かった」
俺が触れても、彩は嫌がることはない。傷という繊細な部分を当然のように触らせてくれる。それだけ信頼してくれているのだということが嬉しかった。
俺はいつも、つい彩の傷跡に触れてしまう。
彩は俺より背が低いので、二人一緒にいる時に彩を見ると、自然と額の傷が目に入ってしまうからだ。
まるで誘われるように、俺の視線と指は彩の傷跡に吸い寄せられた。
俺の指が傷跡に触れる。そっとなぞるように指を動かすと、彩はくすぐったいのか目を細めて笑った。
顔を近付け、その傷跡に唇をつける。彩の顔の、他の部分……唇や頬とは少し違う感覚を唇で確かめる。
やっぱり傷があっても彩は美しかった。むしろ、傷ができたことによって彩の美しさが完成されたような気すらした。
「もう、晴くん、私の傷で遊んでばっかり!」
彩が口をとがらせる。
遊んでいる……つもりはないのだけど。ただつい触ってしまうだけで。
「そんなにこの傷気に入った?」
「え……いや、気に入ったというか……この傷もきれいやなあ、と思って」
「なにそれ? 傷がきれい?」
「きれいというか、えーと」
「病院の先生がきれいに縫ってくれたってこと?」
「……いや、そういうことちゃうくて」
俺のこの気持ちをどう表現しても、彩にはうまく説明できない気がした。
はじめは、この傷を負い目にしてほしくないと思っていたはずなのに、今はむしろこの傷をずっと見ていたいと思っているなんて。
彩は俺を見て、鼻にしわを寄せてふふっと笑った。
「なんかさ、前は、鏡見るたびにこの傷が目に入って、あー私、アホなことしてもたなあ……って憂鬱やってん。でも最近は、傷が目に入るたびに、ほんまに晴くんはこれが好きなんやなあ、って思うようになってもた。今日はどんな風に触るんやろ? ゆーっくりなでるんかな? それともふわふわってつつくんかな? って。傷跡見るたびに晴くんがこれで遊んでる姿が思い浮かぶようになった!」
楽しそうに話している彩の姿を見ると、俺の行動を嫌がっているわけではないのだろうけど。
「……あんまり触られるんは嫌やったか? そしたらもうできるだけ触らんようにするし、気にせんようにするけど」
「えー? 別にええよ! もう痛くもなんともないし、晴くんが無心で私の傷跡触ってるん、なんかちっちゃい子みたいでおもしろいし」
そんな風に思われていたのか。……確かに彩の傷跡に触れている時は、無心になっている……ような気もするけれど。
彩は笑顔のまま俺にもたれかかった。
「……なんかね、晴くんは、私の欠点も欠点のまま好きでいてくれるんやなあって思って、うれしくなった。ブサイクな傷ができても、あーあ、こんな傷つけてかわいそうにって私を憐れむんちゃうくて、私の体に新しい個性? チャームポイント? みたいなんが出現した! って思ってくれてる感じがする。だから私、このみっともない傷を隠して、ないものみたいに振る舞わなあかんって思わんくてすんでる」
「え? いや、その傷はなんも欠点ちゃうやろ。ブサイクでもなんでもないし……さっき言うたみたいに、俺にはこれはきれいに見えるから」
「晴くんの言うきれいって、縫われ方がきれいとかちゃうくて、実際にこの傷がきれいなものに見えとるってこと?」
「そうやけど……それこそ彩が言うチャームポイントみたいに、彩の新しい美点やと思う。欠点やなくて」
「あは! やっぱり晴くんて変なの!」
彩は体を揺らして笑った。
自分が変かどうかは分からない。俺は心からそう思っているけれど、他の人間は同じようには思わないと言うのなら、確かに周りとは感覚が違うのかもしれない。
でも彩のどんな部分も美しいと迷いなく思える自分が俺は誇らしい。だから変でも構わない。
彩は体を俺に預け、体重をかけたまま、頬を俺の腕に擦り付けた。
「……晴くん、ありがとね。私のきれいじゃない部分も全部好きでいてくれて」
「まあそこは見解の相違やから……。俺は彩に関してきれいやない部分が見つけられへんからなあ」
「ふふ、晴くんて、冷静に見えてけっこう盲目的やんね?」
「そうかなあ」
「そう!」
特に異論はなかったので、俺は黙ったまま彩の体を抱き寄せた。
安心しきった彩が心地良さそうに目を閉じる。
傷を負っても、傷を内包しても、こうやって俺の前で心を預けてくれる彩をずっとずっと守っていこう、とひそかに心の中で誓いを立てた。




