指先の熱
失敗した。
彩の言う通りだった。
俺たちのことは、周囲に漏らすべきではなかった。
彩があんな風に傷つけられる事態になるなんて。腹が立って仕方なかった。
彩に馴れ馴れしく話しかけ、軽々しく馬鹿な発言をしたあいつのことは、顔の原形をとどめなくなるくらいぶちのめしたくなったけれど、そんなことをしたら絶対に彩が怖がる。そして、後になって確実に自分を責めるだろう。彩のために俺がそうした、と思って。そう思ってぐっと耐えた。
何よりも腹が立ったのは自分自身にだ。
俺は彩を守ることができなかった。
俺たちのことが知られてすぐのことだったのに。細心の注意を払って彩を気にかけていなければならなかったのに。
それなのに、彩が席を立って、目を離した数分後にはもうあの事態になっていた。
侮辱され、ショックを受けて顔を真っ赤にし、涙を浮かべていた彩の表情。
あんな辛い思いを俺がさせてしまった。
絶対に、何があっても守りたかったのに……
俺自身は他人にどう誤解されようと、噂されようと気にしない図太さを持っている。所詮他人だ。俺の人生はそんなどうでもいいことを言いふらすような人間に左右されることはない、と考えていた。
でも彩は違う。彩は俺なんかよりはるかに繊細だった。
彩は他人の気持ちを考えて行動することができる人間だ。そんな彩が、意味不明な噂にさらされて平気でいられるわけがなかった。
そんな彩の心を守りたかった。でも、一瞬でその願いは吹き飛んでしまった。
幸いなのは、俺たちの関係が周囲に知られてすぐにあのことがあったので、その後俺たちのことを根掘り葉掘り聞いてくる人間や、揶揄するような人間がまったく現れなかったことだ。
もしこれ以上彩を傷つけるような人間が現れたら、俺は絶対に許さない。何があったとしても叩きのめす。そう決意していた。
俺が部活を終え、図書室へ行くと、図書室の奥の席で彩が突っ伏して眠っていた。
昨日も倒れたわけだし、今日もあんなことがあってきっと疲れているのだろう。
できれば寝かせたままでいてやりたかったけれど、もう図書室も閉まる時間だ。いつまでもこの場所にいるわけにはいかない。
俺は彩に近付き、そっと肩に手を乗せた。
すると、彩がうーん、と言いながら目を覚ました。
「あ……瀬戸くん……じゃないや、晴くん。部活おつかれさま」
俺を見上げ、まだ完全に開かない目でパチパチと瞬きをしながら、笑顔を見せてくれる。
その笑顔があまりにも健気に見えて、ぐっと胸にせまるものがあった。
彩を見ると、自然と表情が緩む。あたたかい感情が全身をめぐっていくような気がする。彩と相対するたびに、新しい自分が生まれるような、不思議な感覚があった。
「ごめんな、今日も遅くなって」
「ううん、寝てたから平気。結構いっぱい寝てもた!」
「寝起きやけど動けるか? もうここも閉まるみたいやから」
「うん。大丈夫」
彩は腕を伸ばして伸びをして、バッグを手に持ち立ち上がった。
立ち上がって、すぐに俺の近くに来てくれるだけでうれしくてそわそわしてしまう。
こんなにもかわいくていじらしい存在を、なぜ傷つけようなどと思えるのだろう?
二人でゆっくりと歩きながら図書室を出て、靴箱の方へ向かう。
「……彩、ごめんな」
つい、口をついて謝罪の言葉が出る。
彩に嫌なことを思い出させたいわけではないのに。それでも俺の頭の中は彩に対する申し訳なさでいっぱいで、思わずその思いが口から漏れ出てしまった。
「え?」
彩が不思議そうな表情で俺を見上げる。
「今日、彩が傷つけられてるのに先回りして助けられんかった。ほんまにごめん。俺が悪かったんや」
「え? 何言うてんの? 晴くんはちゃんと私のこと助けてくれたやん」
「助けた言うても……遅すぎた。彩があんなん言われる前にあいつを黙らせることやってできたはずやのに」
口に出せば出すほど自分の情けなさが浮き彫りになる。俺が助けたと言っても、彩が傷つけられてしまった事実は変わらない。それが何よりも辛い。
彩は俺の謝罪があまりピンと来ていないようだった。
「いや、そんなん無理やん。他人がしゃべる前に、その人がなにしゃべるかなんて分からんでしょ? 私が嫌な思いしたとしても、それは嫌な思いをさせた人が悪いんやし、どう考えても晴くんは悪くないやん。晴くんて変なこと言うんやね?」
「いや、でも俺がもっと気を付けとれば」
「もう、晴くん?」
彩が頬を膨らませて俺を見る。その、小さい子供が不満を表明するような表情にどきっとする。
「晴くんはすごい人やけど、そんななんもかもしてくれようとせんでええの。別に私やって普通に生きてるねんから、嫌な思いしたり傷ついたりすることやってそらあるよ。でも今は、そんな思いをした時に、晴くんがめっちゃ一生懸命私を守ろうとしてくれたやろ? それがうれしかったから……だからなんも不満ないのに。それやのに晴くんは自分を責めるん? そんなんやめてよ。それより、私のこと助けて、私がうれしいな、晴くんありがとうって喜んでることをちゃんと分かって。自分を責めるんやなくて、よし、ちゃんと彩を守れたんやって思ってほしい」
ふくれっ面で、俺をまっすぐ見つめて話す彩の純粋さに胸を打たれる。
傷つけられてもなお、俺のことを考えてくれている。
どうして彩はこんなにきれいなんだろう。俺には考えられないほど美しい心を持ったまま、どうやってここまで成長してこれたんだろう。
たとえ傷つけられてもいい。その後の俺の行動が大事なのだと示してくれている。何があっても最終的に俺が彩の味方でいればそれでいいと伝えてくれている。
絶対に、絶対に、彩のその想いは裏切らない。もちろんできる限り彩が傷つけられるような事態は避けるように心を砕くけれど、それでも俺の手の届かない場所でもし彩が傷つけられるようなことがあったら……そんな時は、全速力で助けに行く。何があっても見捨てはしない。そう誓う。
俺はそっと彩の髪に触れた。絶対に壊せない、大切な宝物に触れるように、俺にできる最大限で優しく触れた。
「彩、ありがとう。そんな風に言ってくれて。彩のおかげでめっちゃ心が軽くなった」
「ん? そんなに重たかったん?」
「ああ。腹ん中に漬物石あるんかってくらい重たかった」
あは! と彩が口を開けて笑う。その屈託のない笑顔が目の奥に焼き付く。
「……ね、晴くん」
彩が俺の指先に自分の指を絡ませる。柔らかな指先を感じて心臓が大きな音を立て、かっと体が熱くなるような気がした。
「みんなにうちらのこと知られるん、恥ずかしかったけど……でも良かったかも。晴くんのこと好きな子とかには、いらんこと知らせてしまって悪かったかなって気持ちもあるけど……でもこうやって晴くんがめっちゃ一生懸命私のこと考えて、みんなの前でも堂々と私のこと守ってくれようとしてるん、すごいうれしいなって思ったし……それにほら、もう隠す必要なければ、こんな風に、学校から一緒に帰れるしね?」
ぎこちない動きになりながら、絡まった指先に力を入れる。
「ああ。これからも、彩がしんどくない時は一緒に帰ろう。俺はほぼ毎日部活があるから、あんまり一緒に過ごせる時間はないけど……でもできる限り一緒にいよう。俺を好きな子いうんはよく分からんけど。そんなん彩しかおらんやろ」
「え、なに言うてんの? 晴くん、分かってへんの? 晴くんて割ともてるねんで?」
「……誰に? というか、それはもててるわけちゃうくて、ただ単に俺が部の部長やったり学級委員やったりするから、周りのやつらも嫌でも俺に寄ってこなあかんだけやろ」
「えー、それ、本気で言うてる!?」
彩が大きく目を見開いて俺を見る。そんな表情もかわいいな、と思って見惚れてしまう。
「彩みたいに魅力的な人間やったら、どんだけもてても全然不思議ちゃうけどな」
「いや、晴くん、それは……ほんまに私のこといい風に見すぎやから……私のことそんな風に言うん、晴くんしかおらんで?」
「そしたら俺は他のやつらより目が肥えとったってことやな。真っ先に彩を捕まえられたんが俺でほんまに良かった」
彩がもう! と言いながら、顔を赤くした。言葉とは裏腹に、どことなくうれしそうで、俺の言葉を頭の中で反芻したのか、やがてはにかんだ笑顔を見せた。
「へへ、私も……晴くんが彼氏でほんま良かった。好きになったんが晴くんで良かったな」
彩の言葉が胸にしみこんでいく。彩を傷つけてしまった痛みはまだ残っているけれど、その痛みすら包み込んでくれる彩の優しさを感じた。
彩と目を合わせ、微笑む。彩のようにはなれないけれど、俺が彩の笑顔を見てうれしくてたまらなくなるように、彩も俺の笑顔を見て少しでもうれしくなってくれたらいいと思いながら。
俺を見た彩は、更に目を細め、満面の笑みを見せてくれた。
二人で一緒に校門を出る。指先は絡めたままだった。
もう、誰に見られても怖がることなんてない。恥ずかしがって手を離すこともない。
こんな風に彩と手をつないで歩いているこの高揚感は、二人を見た誰かに知られてしまうほど明らかだろうか?
何があってもこの手を離さない。
彩の恥じらいも、戸惑いも、勇気も、笑顔も、すべて俺のものだ。
朝教室で感じた風が、同じように俺たちをなでる。すでに下校時間は過ぎていて、周囲に生徒の姿はほとんどない。それでも俺たちが二人で、手をつないで歩いていくことは、きっと彩にとって覚悟のいることなのだろう。
この痛々しく美しい、二人で歩く帰り道の風景。
少し頬を赤く染め、どこか遠くを見るような彩の横顔を見つめる。
この風景は、生涯忘れることはないだろうと思った。




