二章・火の祭り
桶を投げ込むと、滑車がカラカラと音を立ててロープを滑らし、ぽちゃりと遠くで音がした。
水汲みは久美子の仕事だった。
桶が水を呑むのを待って、ロープを引くとずしりとした抵抗がある。桶いっぱいの水は重く、引き上げるのは重労働だ。
それを何度か繰り返し、傍らの桶に移し替える。
これを抱えて運ぶのがまた大変なのだ。
毎日しているから、今でこそ運べるようになってはいたが、最初はまともに運べなかった。
久美子よりはるかに小さい、女の子が──久美子の時代なら小学生の高学年くらいであろうか──二つの桶を棒に差し、肩で担いで難なく歩くのを真似してみるのだが、一朝一夕にできることではない。
二つの桶の水を半分にして、天秤棒をどうにか担ぐが、このバランスが難しい。
一歩ごとに体幹を試すように二つの桶がバラバラに揺れて、家に着くまでに溢れてしまう。
それでも久美子は水汲みが好きだった。
なぜこの世界に放り出されてしまったのかは分からない。分からないが、それでも分かっていることだってある。
今日を生きなければならないということ。
晶の家で、ただご飯を食べさせてもらっているだけではなく、いくらかでも仕事を与えてくれるのは、久美子の心を楽にした。
(とは言っても大変なのよね。)
慣れては来たものの重労働には変わりない。
以前と違い、筋肉痛を感じたり、肩や腰に痛みを感じることはなくなっては来たものの、好きな仕事ではあるが楽しい仕事ではない。
井戸と家の距離はそれほど遠くなく、距離だけで言えば世界最高のスプリンターなら恐らく十秒かからない程度。
もちろん段差も石もあるこの悪路で、パフォーマンスを発揮することは難しいだろうけど。
一日に何度もこれをやる。
久美子の顔は日に焼け、もはや一ヶ月前の脹脛の白さは失われていたが、どちらかというと健康美が加わった分、より魅力的になったかも知れない。
運び終わり、桶の水面に浮く葉や小枝を見る。
ずいぶんと水が残るようになったものだと、満足感もそれなりにあった。
*
村に初夏の風が吹き抜ける頃になると、大人たちの顔つきが少し変わる。年に一度の「火の祭り」が近づいているのだ。
祭りの目玉は、村中に振る舞われる大量の御馳走である。その仕込みを手伝うため、クミコは朝から隣家の冴の竈を借りていた。
晶は土間の片隅で道具の手入れをしながら、二人の様子を横目に見ていた。
「そう。皮と肉の間に指を入れて……焦らなくていいから、ゆっくり剥がすの」
「うん」
俎板の上には、毛皮を剥がされた兎が一羽、肉塊となって横たわっている。
晶は当初、クミコをどこか遠い国の貴族ではないかと考えていた。あの奇妙な衣服の生地は、それほど上等に見えたのだ。
だが、一月も暮らせば、その考えは消えた。
クミコは生活の仕事を嫌がらない。知らないことがあれば、出来ないとは言わず、やり方を尋ねる。
兎も鳥も捌いたことがないと聞いた時には驚いたが、今も彼女は目を背けず、冴の手元を真似ていた。
「次は首の関節ね。ここ。少し硬いけど、刃先を隙間へ滑り込ませて」
「首……ここね」
血で滑らぬよう、自分の手首で指を拭い、包丁を持ち直して刃を押し当てる。
何度か唾を飲み下し、手の震えを無理やり止めた。蟀谷に汗が滲んでいる。
うまく力が伝わらず、刃が鈍く骨に当たって滑った。手元を持っていかれそうになり、クミコは包丁を強く握り直して堪える。
冴が手を伸ばしかけたが、クミコは首を振った。
「やらせて。お願い」
関節の隙間を探り、覚束ない手つきで刃を巡らせる。
ぐちり、と音がした。
外れた首を脇へ置き、今度は腹へ刃を入れる。こぼれ出そうになった内臓の温かさに一瞬だけ手を止めたものの、教わったとおり、ひとつずつ丁寧に取り除いていった。
上手とは言えない。手際も悪く、ずいぶん時間がかかっている。脇の美味い肉も少し潰した。
それでも冴は手を出さず、黙ってクミコの手元を見ていた。
晶は口元を緩める。
冴も随分と面倒見がいい。
奇天烈な衣服を脱ぎ、村の着物をまとえば、クミコは少し口の達者な、どこにでもいる娘に見えた。
更に娘が晶の庇護下にあると知れ渡ってからは、村人も遠巻きにはしなくなった。
元からの爛漫な性格もあって、受け入れられるまでに、そう時間はかからなかった。
「クミコ。上出来だよ」
「でも、この辺が……」
「何度もやれば上手くなるよ」
解体を終えたクミコは深く息を吐き、自分の頬についた血を手の甲で拭った。
赤い筋が刷毛で塗ったように頬へ広がる。
冴が笑いながら布を差し出し、二人が血を洗い流して鍋の支度に取りかかろうとした時、土間にぬっと影が落ちた。
村の年寄りの一人、トメである。
腰の曲がった小さな身体を揺らしながら入ってきて、縁側へ腰を下ろした。
「賑やかだねえ。火の祭りの支度かい」
「トメさん。ええ。クミコちゃんが手伝ってくれてるの」
「祭りといえば、昔はもっと盛大だったもんさ」
トメは囲炉裏の灰を煙管の雁首でつつき、遠い目をした。
「大昔、あの裏山からでっかい火が出たことがあってね。村が焼けちまうところを、通りかかった坊様が鎮めたのが始まりさ」
ゴホゴホと咳をしてから、すぐに首を傾げる。
「いや、違ったかね。空から恐ろしい火の玉が降ってきて、田畑が全部焼けたんだった。それを村一番の器量良しが、祈りで消したんだよ」
「トメさん、今、山から火が出たって言わなかった?」
「何を言ってるんだい、クミコ。地の底から悪いものが湧いたのを、初代の巫女様が火を焚いて封じたに決まってるだろう」
「出てくる場所も、退治する人も、毎回変わってるじゃない」
きゃらきゃらと笑うクミコに、トメは嬉しそうに歯を見せた。
クミコの笑い声には嘲りがなく、誰の耳にも心地よい。
冴もつられて笑う。
「トメさんの昔話は、その日の天気で変わるのよ。祭りの由来なんて、みんなで酒を飲む口実なんだから、それでいいの」
「適当とはなんだい、冴」
トメは紫煙を細く吐き、皺の奥から二人を見た。
「形はどうでもいいのさ。ただね、昔のことは、誰かが覚えていなけりゃ、無かったことになる」
冴は「はいはい」と受け流し、煮込み鍋の様子を見に立った。
誰かが覚えていなければ、無かったことになる。
晶は手の中の木片を削りながら、先日、川で彗が口にした言葉を思い出した。
『北の斜面を掘ったら、人工のものらしい石組みが出てきた』
『崩すにしても、記録は残す』
トメの話は、山から火が出たり、空から降ったり、地の底から湧いたりする。
ただ、火を焚き、何かを封じたというところだけは変わらない。
竈の中で薪が爆ぜた。
その小さな火が、晶の瞳に揺れていた。
*
出来上がった料理を大皿や重箱へ分け、祭場となる村の中央広場へ運ぶのは、女たちと若者の仕事だった。
夕刻が近づき、空が橙色から薄紫へ移り始める頃、クミコと冴は料理を詰めた重箱を抱えて、集落の緩やかな坂を歩いていた。
晶も酒樽を担ぎ、二人の少し後ろをついていく。
前方から、着物の裾を片手で摘まみ上げ、小さな草履で土を蹴りながら駆けてくる女の子がいた。
顎のあたりで切り揃えた髪が頬へ張りつき、細い腕に提げた巾着が、走るたび腰へぶつかっている。
アキだ。この前、十二になったと言っていた。
「あ、クミコ! サエ!」
「アキ。転ぶわよ。気をつけなさい」
冴が苦笑して声をかける。
アキはクミコの前で立ち止まり、抱えられた重箱をしげしげと見たあと、少し得意そうに鼻を鳴らした。
「水汲みの時は、今にも倒れそうな顔してるのに、ご飯を運ぶ時はしっかり歩けるんだね」
「だってアキちゃん、教え方が下手なんだもん。こうやって、こうって、それだけで分かるわけないよ」
アキはクミコの横を歩き出した。お前も一つ手伝えと、冴がアキに包みを持たせながら、
「口で教えられるものじゃないわな」
と笑いながら言った。
晶は後ろからそのやり取りを眺めていた。すっかりアキはクミコになついている。
アキはそのままクミコの横へ並び、先輩ぶった顔で村の作法を教え始めた。
「いい、クミコ。広場に着いたら、端の棚にある串焼きは勝手に食べていいの。でも、奥の朱塗りの膳に置いてある餅は触っちゃ駄目。あれは巫女様のものだから」
「へえ。触ると怒られるの?」
「怒られるどころじゃないよ。それから、真ん中の大きな火の前を横切るのも駄目。トメばあに頭を叩かれるから」
「それは嫌ね」
「あと、あの火が消えると、悪いことが起きるんだって」
「あら大変。どんなこと?」
「ええと……悪いことよ」
「道が蛙で埋め尽くされたり?」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、アキちゃんがおねしょしたり?」
「もう!」
ひとしきり笑ったあと、アキは、みんなが無事でいるための火なのだと教えた。
広場の手前、集会所の脇に立つ木札の前へ、小さな人だかりが出来ていた。
新しい触れ書きが出されたらしく、通りかかる村人たちが足を止めている。
クミコも重箱を抱えたまま、後ろから首を伸ばした。
「アキちゃん、あれ、何て書いてあるの?」
「ええとね……『北の古の跡へ近寄るべからず』だって」
北の斜面にある古い遺跡の周りで、見慣れない者が目撃されたらしい。役所が改めて、村人へ近づかぬよう触れを出したのだという。
「近寄っちゃ駄目って、何か危ないの?」
「呪われるからだよ」
アキはこともなげに答えた。
「あそこに入るとね、恐ろしい呪いがかかるんだって」
「呪い……」
クミコが呟く。
その背後から、煙管の煙とともに掠れた声がした。
いつの間にか、トメが追いついていた。
「北の遺跡にはね、人の中へ入り込むものがいるんだよ」
トメが語るには、北の遺跡には姿の見えない物の怪が棲んでいるらしい。
遺跡へ入った者の影に取り憑き、本人にも気づかれぬまま村までついてくる。夜ごと身体の中を這い回り、髪の根を舐め、歯の裏を齧り、腹に溜めた血を啜る。
やがて物の怪は影の中で育ち、日の下に、本人とは違う姿を映すようになる。
角があったとも、腕が四本あったとも、顔だけがなかったともいう。
最後には、影だけがひとりで立ち上がり、北へ帰っていく。
そうなると、あとに残された身体も、まもなく動かなくなるのだそうだ。
冴は、またトメが子供を脅していると笑った。
だがアキはすっかり信じたらしく、それから広場へ着くまで、自分の影が妙な形になっていないか、何度も足元を振り返っていた。
*
広場へ着く頃には、山の端にわずかに残っていた赤みも消え、あたりはすっかり夜の色に沈んでいた。
中央に積まれた薪へ火が入る。
初めは薪の隙間に赤い舌がちらちらと覗くだけだった。それが乾いた枝を舐め、太い薪へ燃え移ると、炎はたちまち人の背丈を越えた。火の粉が夜空へ舞い上がり、広場を囲む村人たちの顔を明るく照らしては、また闇へ沈めていく。
燃える薪が崩れ、低い音を立てた。
その向こうから、白い衣をまとった女が現れた。
年の頃は二十五、六だろうか。
長い黒髪を背でひとつに束ね、白い衣の下に鮮やかな赤の袴を穿いている。昼間の村では目にしたことのない姿だった。火に近づくたび、白い袖の縁が炎の色に染まり、赤い袴は足元からさらに深い色へ沈んでいく。
そのすぐ後ろには、同じ装束をまとった幼さの残る二人の巫女が、影のように付き従っていた。先を行く女の歩みに合わせ、手にした小さな器から、時折何かを火へくべている。
先頭の巫女は、青い葉のついた枝を両手に捧げ持っていた。
一歩。
また一歩。
火の周囲を、地面の形を確かめるようにゆっくりと歩く。
草履が土を踏むたび、衣の裾がわずかに揺れた。枝を右へ振り、左へ振る。その動きに合わせて葉の表が火を返し、無数の小さな目のように瞬いた。
やがて巫女の口から、低く細い声が流れ始めた。
歌のようでもあり、誰かに語りかけているようでもあった。
村の言葉に似ているようにも思えたが、音の切れ目すら分からなかった。古い言葉なのか、意味を持たない節なのか、それさえ判然としない。
巫女が枝を大きく振る。
火の粉が巻き上がった。
村人たちは揃って頭を垂れた。何人かは胸の前で手を組み、唇を動かしている。
久美子も周囲に倣いかけたが、隣にいたアキが袖を引いた。
「あの火が消えなかったら、今年も大丈夫なんだよ」
病になる者が少ないこと。作物が枯れないこと。山が崩れず、川が溢れないこと。北の古の跡から、悪いものが降りてこないこと。
アキの中では、それらはまだ別々の災いではないのだろう。
久美子は再び火へ目を向けた。
どこかで見たことがあるような気がした。
炎を囲む人々。白と赤の装束。枝を振り、古い言葉を唱える女。
神社の祭りにも似ている。盆の夜にも似ている。けれど、自分の知っているどの祭りとも違っていた。
巫女は火の前で足を止めた。
枝を胸の高さに掲げ、炎の奥を見つめる。
熱で空気が揺らぎ、女の顔が一瞬、別のもののように歪んだ。
その唇から、最後の言葉が落ちる。
途端、ひときわ強い風が広場を吹き抜けた。
炎が大きく傾き、火の粉が巫女へ降りかかる。
白い袖が翻った。
赤い袴の裾が、夜の中で火のように揺れた。
巫女は目を閉じることも、身を退くこともしなかった。
ただ枝を掲げたまま、火の前に立っていた。
その姿だけが、焼きついたように久美子の目に残った。
酒樽の脇に腰を下ろした晶は、夜空へ舞い散る火の粉と、息を呑んで立ち尽くす久美子の横顔を見つめていた。
熱を孕んだ風に炎が大きく揺らぐたび、橙色の明かりと濃い影が、久美子の白い頬を交互に滑っていく。
その明滅を眺める晶の瞳もまた、ちらちらと火の粉が明滅していた。
*
祭りを終えて家へ戻った頃には、夜もずいぶん深くなっていた。
夜の冷気が広場の熱をゆっくりと奪っていく中、板敷きの部屋に腰を下ろして一息ついていると、やがて戸を叩く音がした。
「晶、入るぞ」
戸口を叩いたのは彗だった。
その隣には、見覚えのない女が立っていた。
髪を無造作にひとつへ束ね、くたびれた着物の袖を肘まで捲っている。
女は家へ入るなり、張りつめていた背をぐにゃりと崩した。
「いやー、終わった終わった! 肩が凝って死ぬかと思ったわ!」
女は家へ入るなり、勝手知った様子で上がり込み、どさりと腰を下ろした。
片膝を立てた拍子に着物の裾が割れ、白い太腿が惜しげもなく覗いていたが、当人はまったく気にする様子もない。
祭りの残りとして持ち込んできた酒瓶の栓を抜き、そのまま手近な猪口へ注いで煽り始めた。
久美子はしばらくその顔を見つめてから、ようやく気づいた。
「えっ。さっきの巫女さん?」
「あはは、そうだよ。えーと、あんたがクミコだね。話は聞いてるよ」
酒を差し出され、久美子は思わず受け取った。猪口の縁に唇を当て、匂いだけ味わう。
先程まで、火の粉の中で神々しかったあの巫女と、目の前で太腿を見せる女が同一人物だと中々結びつかない。
「クミコ、晶に何かされてないかい? 不都合があればこの瑠衣さんに言うんだよ。と言っても──」
瑠衣は晶をチラリと見る。
「ま、こいつは大丈夫か。あたしがいくら誘いをかけても全くピクリともしない」
「お前は俺を揶揄っているだけだろう」
久美子が笑う。
「そうなの、私もいつでもどうぞって言ってるんだけど」
「お前のような子供に手を出すものか」
酒のせいか晶の顔が赤くなる。それを見て瑠衣がぐいと晶に身体を寄せる。久美子も反対側から寄ってみる。
「いい加減にしないと怒るぞ」
二人でごめんなさいと引き下がる。
面白くなさそうな表情を浮かべる彗に、久美子が寄って酌をした。それだけで彗の機嫌が直る。
「三人は昔から知り合いなの? えーと瑠衣さん」
「瑠衣でいいよ。瑠衣さんなんて背中がこそばゆくなる」
瑠衣が酒をゴブリと飲みながら「物心つく前からね」と言う。久美子も酒の匂いを嗅いだ。
「晶は子供の頃から、変なものばかり作ってた。川に橋を架けると言って、板を並べただけのものを作ってね」
「橋ではない。流れを測るための足場だ」
「最初に乗った彗が落ちた」
そしてそのまま三人で、川遊びをしていて怒られたとか。
久美子は三人の話を聞きながら、猪口に鼻を当てチラリと瑠衣を見る。荘厳な巫女姿も美しかったが、今の姿も違う魅力がある。
誘いをかけたという冗談が、ほんの少しだけ気になった。
「ところで、クミコは異国の娘なんだって? 私にも、その異国の服ってのを見せてよ」
晶は静かにクミコへ視線を向けた。
「見せても構わないか」
「もちろん」
クミコの了解を得て、晶は奥の棚から一筋の風呂敷包みを持ってきた。
畳まれた布を解き、中から取り出されたのは──夏用の制服だった。薄手の半袖ブラウスと、プリーツの入ったスカート。
瑠衣は酒の手を止め、身を乗り出した。
白い上衣を両手で持ち上げ、火の近くへ翳す。
「薄いね。それなのに、織り目がほとんど乱れてない」
袖口を指で挟み、縫い目を追う。
「細かい。これ、全部同じ間隔で縫ってある」
瑠衣は指先で布地を撫で、光にかざし、合わせ目の縫製を喰い入るように観察する。
彗は以前にも目にしているため、むやみやたらに触ろうとはせず、少し離れた場所から静かにその光景を見守っていた。
「これ……あたし、着てみていい?」
「いいけど、入るかな? やってみよう」
晶と彗に後ろを向かせると、瑠衣は帯を外して着物をストンと落とす。襦袢と湯文字も取って全裸になる。
サイズが少し違うようだが、久美子は彼女の乳房にブラジャーをあてがってホックを止める。
パンツだけは久美子が今履いているので──これを履かないと久美子はやはり心細い──スカートだけになるが、瑠衣は久美子よりは背が低いから膝は充分隠れそうだ。
ブラウスを着せてボタンを止めて、腰回りは手ごろな糸で結んで支えた。
「軽い……」
「似合ってるよ瑠衣」
瑠衣は晶と彗にその姿を見せる。晶が「どうだ?」と訊く。
「うん、凄いよこれは。あんたが貴族と思うのも仕方ない」
瑠衣は両腕を上げ、肩を回した。袖が腕の動きを妨げないことを確かめるように、今度は肘を曲げ、腰をひねる。
「これだけ身体に沿っているのに、どこも突っ張らない」
晶と彗が厳しい顔で観察をしていた。瑠衣はくるくる回ったり、身体をひねったりしている。
下になにもつけていないのにと、久美子はハラハラしてそれを見る。
瑠衣がドスンと座り込むと、いよいよ久美子は前に回り込み、そのスカートを手で押さえた。
「どうしたクミコ?」
晶が怪訝な顔をする。久美子は別にと首を振る。
瑠衣がまじまじと観察する。
ブラウスの内側、首元につけられた小さな白いタグ。そこに印字された洗濯表示の記号や、小さな数字と文字。
瑠衣の視線が、そのごく小さな文字の列に止まった。
瑠衣は暫く物思いに耽っていたが、ふと目を上げて久美子に微笑みかける。
「面白い服ね。着せてくれてありがとう、クミコ。今度、私の家にも遊びにおいでよ」
「行っていいの?」
「ええ。神社の方には、もっと古い道具やら珍しい祭具がたくさん転がってるからさ。面白そうなものを見せてあげる」
「行く! 絶対行く!」
久美子は嬉しそうに破顔した。
そうして瑠衣は元の服に着替え、彗と共に帰っていった。
*
久美子は晶に字を書いてもらっていた。
紙は高価な物らしく、土間の地面に小枝で字を書いていた。
久美子は晶の肩に手を置いて後ろから、覗き込んでいる。
「クミコ、身体が近い。お前には俺が幼く見えるのだろうが、俺も一応男だ。あまり近づかれては具合が悪い」
「ごめん、気をつけるよ」
子供扱いしているつもりではなかったが、弁明するのも変になる。
久美子にとって、もはや晶は自分の庇護者であり、また兄のような存在でもあり、自分よりも大きく見えているのだが。
「これが俺の名前の文字だな」
書き連ねられたそれは、縦書きのアラビア文字の様に見える。草書体のように漢字を崩したものではなく、全く違う文化圏の文字。
久美子は晶の背後からさっきより近く、身体を押し付ける様に見ているが、晶は何も言わなかった。真剣に掘られた地面を見つめる久美子のために、他にも二つ三つ単語を並べて書いた。
「わたしこの文字、読めない。知らない」
「文字の読み書きはできるのか?」
なによ馬鹿にしてという言葉を飲み込んだ。からかいではない。珍しくないのだろう。
「うん、できるよ。それ貸して」
そういって晶から小枝を受け取ると「久美子」と漢字で書いた。
「なるほど文字だな。しかし──」
今度は晶が思案に沈む。いくつもの諸外国の記憶を辿っているのだろう。
「これに似た文字をどこかで見たが、どこだったかは思い出せん」
「日本ではない外国のどこか?」
「ニホン?」
「あ、そうか。エンではない外国?」
「いや……外国では見たことない、と思う」
「エンの文字?」
「エンで使われてるのは俺がさっき書いたような文字だ」
見たことあるけど、外国でも国内でもないってことか。
「なんじゃそりゃ」
「すまん」
「責めてるんじゃないよ」
と笑いながら、自然に晶から距離を取り、少し裾を整えた。
「話してると久美子が別の国から来たとは思えん。エンの言語は何千年も前に分離したと考えられていて──」
久美子は一生懸命理解しようと熱心に聞いたが、こっちの言葉はまだよく分からないな、と思うことにした。
久美子からすればエンの人達は──少々訛りは酷いけれども──日本語を喋っているわけだ。しかしニホンではなくエドでもない。
──異世界。
「それはそれとして──」
久美子は不意に疑問を思い出した。
「エンは国の名前なんでしょ?」
「そうだ」
「この村の名前はないの?」
「ある」
久美子は続きを待った。
「ヤマトだ」




