一章・異国の少女(2)
──何だろう、あれ……。
身体の節々に鈍い痛みを感じながら、薄っすらと目を開ける。見覚えのない天井、見覚えのない部屋、見覚えのない空間にあって、見覚えのあるものが天井に吊るされている。
──そうか、あれ……私のパンツだ。
ぼんやりとした頭が、少しずつ覚醒していく。ここがどこで自分がどうなったのか、思い起こそうとするが蟀谷に走る鈍痛がそれを遮る。
どこからか陽の光が差し込んでいる。目の焦点が定まってきて、自分の下着の奥にある別の見覚えのあるものにも目が留まった。制服だ。
という事は。
自分の体を弄ってみる。あれれ。何も身に着けていない。
久美子は再び天井に目を移す。
よく見るとブラジャーも吊るしてある。あれは、恐らく干してあるのだろう。
「……あ、そうか」
あそこにあるのだから、自分が身に着けていないのは当たり前である。だってあそこにあるのだから。
「そうじゃなくて……」
そう、そうじゃなくて、なんだっけ。
回らない頭で何を考えようとしているのかを考える。
えーと。
そうだ。裸なんだ。
裸なんだけど、布団がかけられているからセーフだ。待って、それも違う。なんだっけ。あれ? 自分で脱いだんだっけ?
徐々に頭の痺れは取れてきて、痛みは感じなくなっているが、頭が回らないのはそれだけではない。
酷い空腹感だ。
そう、自分が裸な事よりも、そこに制服が干してある事よりも、そもそも久美子に目を覚まさせたのは、何か寄越せと要求する胃袋なのである。
上半身を起こしてみる。
「痛っ」
関節がバキバキと音を立てているように感じる。それもそのはずで、ベッドが固い。というか、ベッドじゃない。床だ、ここ。床に何か、超薄い畳のようなものが敷いてあって、その上に寝ていたのだ。
良く見ると、掛け布団と思っていたものもやたら薄っぺらい和服のようなもので、それが二枚重ねられている。
これを着ればいいのだろうか。というか──
「お腹すいた」
何か食べたい。ここがどこだかは分からないが、取り合えず何か食べたいのだ。何かないだろうか。
その時、音がした。
自分では機敏な動作で振り返ったつもりだったが、実際にはのっそりと首がその方向に動いた。
誰か入ってきた。
男?
というか──少年?
一瞬身体が強張ったが、その幼い感じを見て取って幾分ほぐれた。少年は声を掛けてきた。何を言ってるのだろう。
それよりも、少年が持っているものの方が気になった。
お椀から湯気が上っている。
鼻孔をくすぐる、食べ物の匂い。
私にくれるんだろうか? くれないなら奪おうか。少年は何やら喋っているが、イマイチ何を言っているか分からない。
少年は手に持っていたお椀と、一善の箸を差し出してきた。
お粥、くれるんだ。
ごめん、奪おうとか考えて。
久美子は少年からそれを受け取り、「いいの? ありがとう」と言って箸を取って口に運んだ。
少年が怪訝な顔で、「アリガトウ」と繰り返していた。
「あ、美味しい」
少年が「オイシイ」と繰り返すのが聞こえた。
貧相な感じから味は期待していなかったが、これが思いのほか美味しい。すっかり食べてしまったが、少々物足りない。
少年が手を差し出してきたので、空になったお椀を渡した。代わりに手に持たされたのは、水の入った湯呑だった。
「ありがとう」
と言って受け取ると、少年は相好を崩した。その表情にドキッとした。あれ、なにこの子可愛い。よくよく見ると、あの事務所のアイドル風の美少年。湯呑に口を付けながら、観察する。
年は十二歳か、十三歳くらい? 多分だけど。
少年は一旦出て行って、少ししてから戻ってきた。お椀にはまた湯気が立っている。
「オ・カ・ワ・リ」
少年はゆっくりと、一文字ずつ発した。オカワリ……おかわり。日本語だ。
「あなた、日本語が分かるの?」
久美子の問いかけに少年は少し困ったような表情を浮かべる。
おかわりを受け取り、その時久美子はやっと気付いた。そういえばこの少年の話している言葉は、さっきから部分的に聞き取れていたのだ。
最初にお椀を貰った時も、「カユ」という単語と「クエ」という単語があった。
二杯目を食べている時に、少年が先程と同じく、ゆっくりと話しかけてきた。久美子にはその言葉が全て理解できた。
久美子も同じように、一文字ずつ含めるようにゆっくりと話してみる。
今度は伝わった。
アクセントやイントネーションが異なるが、ゆっくりと言葉を交わしてみると、それなりに意思の疎通ができる。
久美子は曾祖母の葬式で九州に行った時の事を思い出していた。九州の鹿児島。
参列していた年配のおじさんやおばさんと父は普通に会話をしていたのだが、久美子には何を言っているのかさっぱり分からなかった。「お父さんの話している言葉が分からない」と母に告げると、母は自分もだと笑っていた。
父は「そりゃそうだろう」と笑う。
「そこのおじさんの娘さんな、結婚相手は奄美の人なんだってさ。おじさんが言うには、結婚相手のお爺さんが話している事がほとんど分からないって」
括りは同じ鹿児島県でもそうなのだ。
更に言えば奄美大島の人は、沖縄の年配の人が内地の言葉で話していても分かりにくいそうである。奄美方言はどちらかというと琉球語に属するが、世代が離れるとやはり言葉は伝わりにくくなる。
目の前との少年との会話に、同じような隔世を感じた。
日本語と琉球語ほどに違えばゆっくりと話しても伝わらないかも知れないが、そこまでの言語的な乖離はない。分からない単語や聞き取りにくい部分はあるが、少しずつ言葉を早めても会話は成立した。
お互いの言葉の確認のような会話で、名前の交換はできたがそれ以上の話をする前に再び眠気が襲ってきた。
取り合えずこれを着ろと差し出された浴衣のような服を受け取り、それを着るために立ち上がると少年は慌てて部屋を出て行った。良く考えたら全裸だったが、小学生くらいの男の子なので見られてもあまり恥ずかしいとは思わない。気を遣って出て行かれて、初めて性別を意識したくらいだ。
これ、どっちを前に合わせるんだっけ?
どっちでもいいかと適当に着て、帯を締めた。やはり少々心許ないので、干してあった下着だけ回収して履いておく。これから寝るのだからブラジャーはまあいいか。
「入っていいかい?」
いいよ、と応じると少年が湯呑に薬を持ってきてくれた。
「苦……」
とは言っても、漢方のような匂いがしたので薬に違いはなさそうで、悪いものじゃなさそうだ。グイッと飲み干し、横になった。
余程疲れが溜まっていたのか、あるいは薬の成分なのか、すぐに微睡み深い眠りへと落ちていった。




