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今まで関わったあらゆる人達の声の幻聴が、思考をかき乱す。
歩く暗い道の左右から、白い手が生え伸びては自分を掴む。
「助けてくれなかったお前達が」
憎くて憎くて仕方がない。
だけど…。
目の前に現れては消える幻影を、追いかける自分も居た。
「愛されたい」
母親に抱きしめて欲しかった。
「愛されたい」
父親に存在を認められたかった。
「愛されたい」
兄や姉に優しくされたかった。
「愛されたい」
お母様に褒めて欲しかった。
「愛されたい」
お父様と遊びたかった。
「愛されたい」
悠衣…貴女にも。
頬を伝う涙が、音を立てた。
ぽつぽつと、雨の様に鳴る。
彼女は暗い夢の中で、藻掻き足掻いた。
そして、掌で顔を覆い、叫んだ。
声にならない声が辺りを振動させ、震える全てのモノに罅が入っていく。
自分の身体も全て巻き込み割れ、その線が繋がった時、バラバラに砕けた。
立っていた暗い世界も自分も。
全てが壊れて散り散りになり、煙の様に消え、窓を穿つ様な勢いで降る雨の音が耳に届き始めると、夢は川を流し始める。
濁流が世界を…壊れて消えた筈の身体を、揺らしている。
揺れているのは現実での亜妃だった。
振り始めた雨が波を高くし、船を揺らしていた。
ベッドと共に、寝ている体も揺れる。
薄っすらと意識が戻った亜妃は目を開け、今いる場所が自分の割り当てられた部屋のベッドだと、すぐに気が付いた。
吐き気が襲い、ベッドを這いずり近くに在ったごみ箱に手を伸ばし、引き寄せ吐いた。
酸っぱい胃液と炭が混ざった液体が、びちゃびちゃと音を立てて袋の中に落ちていく。
サイドテーブルには水があったが、手を出す気にはなれない。
頭はクラクラとしながら、薄れゆく夢を追いかけようとする。
瞼も重い。
身体は寒さで震えていたが、かけられた布団を引き寄せられる程、力も無かった。
ベッドへ力なく寝転ぶ。
手の届く所にティッシュが有って良かった。と、二枚取って口を拭いた。
それも、ごみ箱へ投げた。
入ったのか入って居ないのか、確認する事も無いまま、口内に残った気持ち悪さと酸っぱさを、解消する手立てを考える。
口の中を拭くか?
ティッシュに手をやろうとしたが、いつかの…盗みを追及されている時の兄を思い出しやめる。
アイツ、並んで座らされてる時…。
ティッシュ食ってたな…。
白状しない為なのか、口一杯にティッシュ詰める顔は、忘れられなかった。
そんな異常な行動をしている兄に、確信を持ち切れず亜希にも疑いを掛けた母親の無能さを、思うと情けなくもなる。
どうせ、尚更嘔吐くだけだ。
もぞもぞと枕の方へ移動する。
首元が冷たく感じ、知らぬ間に吐いていたのかと危惧したが、流れた汗が離れた隙に冷えただけだった。
自分の意思とは関係なく、震えている体を更に冷やす前に、どうにか暖を取りたい。
そう思うが、力は入らない。
周りを見回しても、後藤も皓兄も居ない。
このまま凍えて死ぬかもな…。
亜妃はそんな事を考える。不思議と焦りも不安も無かった。
それも良いかも知れない。とまで思う。
次第に顔や手も冷えていくのが分かった。
トイレも行きたくなり『死ねば全て出る』と言う話を思い出す。
おねしょ…寝てないからお漏らし?
どっちにしろ嫌だと考える。
まずは起き上がろう。
いつも通り腹に力を入れたが、微動だにしない。
腕もシーツを押し、身体を持ち上げる動作すらできない。
だが、横に転がる事は出来た。
横向きの体勢になると、ズリズリとさっきと同じく、ベッドの端に寄る。
足が落ちるまで来ると、今度はベッドの高さを利用して床に座る体勢になった。
そして、四つん這いになる。
夢の中でもこの体勢になった事を、朧気乍ら思い出す。
ぐっと手と足に力を入れたが、立ち上がる事はやはりできなかった。
それどころか、眩暈が一層酷くなる。
船の揺れが激しいのではなく、自分自身が不安定に揺れ、いつバランスを崩して床に伏せってもおかしくなかった。
その場合、匍匐前進も出来るのだろうか?
四つん這いで無理に動くよりも、その方が早く動けるんじゃないか。
そう考えた。
しかし、不安が勝って実行に移れない。
もたついていると、胃が何かを押し上げてくる。
嘔吐くと同時に先程よりも黒さが薄くなった液体が、床にまき散らされた。
袖と床の絨毯にシミが広がる。
腕の震えも治まる気配はない。
亜妃はその場で腰を床に付け、座り込んだ。
トイレとの距離は縮まらない。
涙が出そうになる。
「気が付いたか…」
皓兄の声がし、ひょいっと軽く抱きかかえられる。
ベッドに足を向ける皓兄に、トイレに行きたいと言おうとしたが、掠れて出なかった。
仕方なく、トイレを指さす。
「あ…トイレか…」
こくんと頷く。
「一人で…」
行ける訳がない。
抱えたまま、ドアを開け便器の前で下ろす。
ズボンを下ろそうとして、亜妃に制された。
「そ…れは…で…る」
そう言いつつも、力は入らない。
皓兄は目を瞑り、ズボンを下ろした。
勢いでよろけた亜妃が、皓兄の肩を掴む。
「座れるか?」
「う…ん」
便器に腰を下ろすと、座った合図をした。
それを受けた皓兄は、立ち上げりドアを閉める。
「終わったら壁を叩け」
「ん…」
用を済ませ流した後、言われた通り壁を叩く。
微かなコンコンと言う音の後、ドアが開いた。
「拭けたか」
皓兄の言葉に亜妃は耳が熱くなる。
辛うじて拭けたが、下着を戻そうとするとバランスが崩れ倒れ込みそうになる。
その為、上げて貰うしかない。
衣服を整えられ、手洗い場に連れていかれた亜妃は、涙や吐いた物で顔を汚し、酷い顔をしていた。




