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「オニキスは…」
「あの子なら大丈夫です」
食い気味に答えた。
「そう、なら良かった」
「御用はそれだけですか?」
別段、何事も無いかの様に振舞う。
「出来たら…会いたいのだけど」
彼女はここで降りる手筈になっている。
なので最後に会いたいと言う。
「残念ですが…、疲れたのか今は眠っておりますので」
少しの笑みを浮かべるが、相手は残念そうに眉を下げた。
「そう、じゃあ、よろしく言っておいて。…後…夫をよろしくね」
「ええ、もちろんでございます」
女は踵を返すと、客室の方へ足を向けた。
彼女は下船するが、夫は残る。
この船旅の折り返し地点…ここからが本番だ。
彼女はそれに耐えられないのだろう。
暴飲暴食の限りを尽くし性に溺れた人間が、それに飽きた頃…人間の残虐性が現れる。
とうに醜い化け物が、より悪魔へと変わる。
その片鱗を、彼女は経験している。
自ら線を一定に引いている、珍しい客の一人だ。
狂う前に現実へ。
そう思えるが、実際普通の人間からすれば彼女も狂ってはいるのだ。
「人間…それも子供を食ってて…普通も何もない…ですよね」
横から声がした。昀だ。
何か文句を言いたげだが、序列は皓兄が上な為言えず、ぎこちない敬語が零れ出た。
「何か用か?」
「…いえ…」
黒子の事だろうと思ったが、相手が口ごもるのだから何も言う事は無いと去ろうとする。
港に着けば物の指示を出さねばならない、それ迄にする事は有る。
「あ。そう言えば」
昀は不自然に思い出したと声を上げた。
「後藤…でしたっけ?探さなくて良いのですか?」
昀の口から後藤の名が出て、皓兄の眉間に皺が寄った。
どこに居るのか…と聞こうとして、嫌な予感が過る。
「彼、あまり優秀じゃないんですね」
「…」
昀の言葉の先を聞かなくても、皓兄は予感が当たった事を悟った。
皓兄は昀の黒子を刺したのを悔やんだ。
手の甲ではなく、殺しておけばよかった。と。
昀をその場に残し、船尾へ走った。
予想が正しければ…。
船尾には何人かの乗組員が、厨房から集めた血なまぐさい袋を開けて、海へ流していた。
袋からは残された残飯だけでなく、人間の内臓が風に乗り散らばって行く。
ごみなど港には持ち帰らない。
一カ所に集めた後、海に捨てるのが定石だ。
何故なら…非道徳的な行いの証拠隠滅にもなるのだから。
ぶるぶると震える袋の中身を、杓で掬っては投げる。
血を寒天で固めた物だ。
皓兄の目の前で調理された8番も、中には含まれているだろう。
人間を殺して、その肉を料理し食う。
それがあの食事会だ。
だが、一人を全て食べる訳では無い。
血も肉も、ほぼ全てここから捨てられる。
牛の方がまだ、綺麗に食べて貰えるのだ。
『人を食ってはみたい。だが、狂うのは困る』
そんな段階の人間用の…食事会。
小さなワイングラスに、一口程度の量。
各部位の…微々たる切れ端を並べたソテー。
薄めた血で作られたゼリー。
服を連想させる盛り付け…。
そして、血で煮詰めたイチゴジャム入りのチョコレート…。
アレを亜妃に見せたくは無かった。
まだまだこれから先も、見せずに済む様にしたかった。
「何故…始める時間に連れて来た…」
手摺の柱に揺れるロープに向かって、皓兄は呟いた。
乗組員が皓兄に気が付くと、捨てるのを止め、頭を下げる。
その間を通り、ロープに近付いていく。
「お前は知って居た筈だ」
食事会の内容を。
俺の考えも。
「だから、お前を付けたのに」
裏切り者め。
「なぁ。何故…亜妃に薬を飲ませた?」
俺がすぐ側に居たのに。
「お前以外が…出来るとは思えない、あの状況で」
手摺の上に両手を掛け見下ろし、視線の先のロープの先を見つめた。
海を切り裂いた白い波の、隙間にチラチラと何かが浮き沈みを繰り返す。
上下を繰り返すそれは意思も力もなく、枝に繋がれたまま川を漂う木の葉の様だ。
「…」
ロープの先で波に揉まれているのは、黒子の象徴である黒服を剥がされた後藤だった。
これの意味する事は「失敗」だ。
昀か…他の誰か、か。
皓兄以外の人間の指示を遂行できなかった罰。
「はぁ…」
手摺に腕を掛けたまま、頬に片手を当て溜息を吐いた。
「お前は…何をしたかったんだ…」
死体に問いかけるが、答えは帰って来ない。
皓兄の声すら、その耳に届いてはいない。
「亜妃を…殺す気じゃなかった…」
殺すならもっと量を増やした筈だ。
お前にはそれが出来た。
「連れ去ろうとしたのか?」
厨房から?俺に二人を目視させておいて?
「何を…指示されたんだ…」
何か…指示された事と違う事をした…から殺された。
「ヒントくらい残しておけよ…」
本当…優秀…じゃない…。
…。
……。
「いや、お前は優秀だ」
亜妃を見ながら、仕事も完璧にする。
部屋の掃除すらも。
皓兄の頭にお菓子の袋が浮かぶ。
「亜妃は…過食期か」
本人の意思とは関係なく、止まらない食欲。
言うままに与えれば与える程、止まらない。
だから、何であれ食い物の匂いで無意識でも口を開ける。
意識があっても…食えない肉以外の物であれば、食うだろう。
差し出された物が、何で作られているのかも知らないのだ。
初めてここで、皓兄は危機感を感じた。
「知らないまま」居させたい。
それは、この船に乗っている以上、無理な話なのだ。
「お前は…警告として…したんだな」
俺以外の誰かから、指示が有った事も言えないだろう。
それで、俺に問い詰められる状況になって…不要な事を言われる危険性を考えた誰かに、先に始末されたのか。
「…」
皓兄はゆっくりと手摺から離れ、乗組員の横を通り過ぎた。
彼の体が遠のくと、また、ごみ袋から海へ投げ込まれる音が響き始める。
皓兄にも甘さを捨てる時が来たのだと、冷たい風が背を押した。




