第7話 最愛の天使リル
「……いや、待てよ? 伝説の夫婦は怒り狂って街を破壊するんじゃなくて、優しすぎるからこそ、今ごろ涙目で必死になってリルを探し回ってるはずだ。俺が安全に送っていけば、怒られるどころか、むしろめちゃくちゃ感謝されるんじゃないか……?」
アルトの脳裏に、都合のいい大逆転のシナリオが電撃のように浮かび上がった。
「よし、作戦変更だ! コソコソ返すんじゃなく正々堂々と玄関からお前を送り届ける作戦だ!」
(伝説の大泥棒に恩を売る!うまくいけば、お礼に金貨の山をたくさん貰えるかもしれないぞ……!)
「わあ! 家に帰ったら、ママとパパに、アルトくんが家に返してくれたって言うよ!」
パッと一瞬で弾ける笑顔になったリルを見て、アルトは不敵な笑みを浮かべた。国家反逆罪で指名手配されている『伝説の夫婦』に恩を売れば、裏社会での立場は一気に跳ね上がるし、何より安全が保障される。
アルトの胃の痛みは和らぎ、二人は「堂々と玄関から入って感謝されよう作戦」へと舵を切ったのだった。
だが、アルトはまだ知らなかった。
その夫婦の「優しさ」と「親バカ」の規模が、すでに国家の防衛網どころか、常識そのものを木端微塵に引き裂いているということを…
その夜、アルトの隠れ家で二人は一晩を過ごすことになった。リルは「アルトくん、おやすみ!」と無邪気な笑顔を見せると、クッションに包まれて静かに眠り込んだ。アルトはその小さな寝顔を見つめながら、手に入れた金貨の山で何を買おうかと、呑気に使い道を考えているうちに、心地よい眠りに落ちていった。二人の未来に待ち受ける大嵐など知る由もなく、その夜だけは、どこまでも平和で静かな時間が流れていく。
そして翌朝。作戦実行のため、秘密の隠れ家の扉を開けた瞬間――。
「おい……リル。何だ、この町の空気は」
扉を開けた瞬間に肌を刺した異様な気配に、アルトは足を止めた。
昨日までどこか平和だったはずの町が、まるで大軍勢に包囲された直後のような、張り詰めた静寂。行き交う住人たちの目は血走り、誰もが落ち着きがなく周囲を警戒していた。
そして、その原因はすぐに判明した。
町のいたる壁、柱、掲示板、守兵の宿舎の壁に、これでもかと大量の『貼り紙』が、パッと一瞬で弾けるように乱雑に、だが狂気的な密度で貼り付けられていたのだった。
それも、ただの貼り紙ではない。
文字の端々から、常軌を逸した魔力と殺気のような圧が滲み出ている。
「あ、ママの字だ!」
リルが嬉しそうに指差したその紙には、およそ指名手配犯のものとは思えない、堂々とした太い筆致でこう書き連ねられていた。
『我が最愛の天使・リル(9歳)が迷子になりました。無事に見つけて送り届けてくれた高潔なる御方には、お礼として王宮の地下秘密金庫から盗み出してきた【始祖の祝祭の王冠】を差し上げます。どうか、どうか我が子を助けてください。――ガルバ、エルマ』
「ち、ちょっと待て…」
アルトは貼り紙とリルを交互に見つめ、こめかみを強烈に押さえた。
じわじわと、せっかく和らいだはずの胃の痛みが、凄まじい津波となって戻ってくるのを感じる。
「おいリル。お前の両親、国家反逆罪で指名手配されてるんだよな?」
「うん!世界で一番強いんだよ!」
「そこを自慢するな。じゃなくて!なんで指名手配されてる本名を、国中の人間が見る貼り紙に堂々と書いてるんだよ!?お前の親はバカなのか!?それとも捕まりたいのか!?」
アルトの真っ当な叫びに、リルは不思議そうに首を傾げた。
「え?だって、名前を書かないと、僕を見つけてくれた人がどこに連絡していいか分かんないでしょ?」
「そうじゃなくて……!普通は王国に居場所がバレるのを恐れるだろ!」
だが、周囲の住人たちの怯えきった様子を見て、アルトは気づいてしまった。
この町にいる役人も、兵士も、誰一人としてこの貼り紙を剥がそうとしていない。それどころか、関わったら文字通り『消される』と言わんばかりに、貼り紙から目を背けて震えている。
国家の防衛網どころか、常識そのものを木端微塵に引き裂いている。
「常識が通用しない夫婦」とは聞いていたが、まさかここまで頭のおかしいレベルだとは。アルトは自分の見通しの甘さを、激しく後悔した。
この夫婦にとって、国家の追手など蚊に刺されるほどの脅威でもないのだ。息子を探すためなら、己の指名手配などという大きなリスクは一瞬でドブに捨てる。むしろ「ガルバとエルマの息子に手を出したら国が滅ぶ」という、最強の脅迫状として機能させている
さらに、お礼の品。国宝中の国宝である
【始祖の祝祭の王冠】
「……なぁ、リル」
「なぁに?アルトくん」
「俺たち、『堂々と玄関から入って感謝されよう作戦』って言ったよな」
「うん!ママたち、すっごく喜んでくれるよ!」
アルトはガタガタと震える手で、自分の顔を覆った。
その超特級の盗品を受け取った瞬間、自分は「伝説の夫婦」の共犯者として、裏社会どころか表世界からも完全に命を狙われる大悪党の仲間入りを果たすことになる。
そして最後は、この世界から抹殺されるかもしれない…
恩を売って安全を保障してもらうどころの話ではない。
乗る船を間違えた。これは泥舟なんて生易しいものではない、国家に突撃する特攻船だ!
「帰りたい……」
アルトの哀切な呟きは、すでに「王冠」を求めて目を血走らせ始めた賞金稼ぎたちの足音に、かき消されていった。




