第4話 秘密の隠れ家
二人が路地裏をいくつも曲がり、人通りの途絶えた古いレンガ造りの建物の隙間へと潜り込んだ頃、町はすっかり夜の闇に包まれた。アルトが周囲を鋭い目で見回し、誰もつけてきていないことを確認してから、一見するとただの壁にしか見えない隠し扉の鍵を開ける。
「ここが、俺の家……秘密の隠れ家さ。ほら、入って」
重い鉄の扉をくぐると、外の冷たい夜風が嘘のように遮断された。
部屋の中は、驚くほど整然としている。壁には手作りのピッキングツールや、様々な形状の鍵が綺麗に並べられ、スリとしての腕をなまらせないための「鈴がたくさんついた練習用マネキン」が佇んでいる。部屋の隅には小さな魔導ランプが、温かいキャンドルの炎のように光を放っていた。
「わあ……! すごい、アルトくん! お宝がいっぱいある!」
リルは目をきらきらと輝かせ、ブカブカの袖を振り回しながら部屋を見回した。
「これ、宝物じゃなくて全部ただの泥棒道具だから。ほら、勝手に触らない。それより、腹鳴ってたろ。これでも食べなよ」
アルトは呆れたように言いながら、棚の奥から紙に包まれた堅焼きのパンと、干し肉をいくつか取り出した。小さな暖炉に火をつけ、鉄の小鍋で仕込んであった素朴な野菜スープを温め直している。
スープがコトコトと音を立て、香ばしい匂いが部屋に満ちると、リルの小さなお腹が再び「ぎゅるる~」と元気よく鳴り響いた。リルは恥かしそうに顔を赤くして、両手でお腹を押さえる。
「あはは……また鳴っちゃった」
「はい、席に着いて。温かいうちに食べな」
アルトからスープの器とパンを受け取ると、リルは「いただきます!」と勢いよく飛びついた。熱いスープをフーフーと器用に冷ましながら、スプーンで口に運ぶ。
「おいしい……! アルトくんって
お料理もできるんだね。すごいなぁ!」
「別に、一人で暮らしてればこれくらい普通だよ」
アルトは木箱を椅子代わりに腰掛け、スープを飲むリルを静かに見つめた。
リルは嬉しそうにスープを口に運びながら、ふと、アルトが食材を取り出した大きな木棚に目を留めた。棚の中には、干し肉や干し芋、塩などの保存食が、スリの少年が一人で暮らすには不自然なほどきっちりと、大量にストックされている。
「ねえ、アルトくん。たなに、お肉とお芋がいっぱいあるね。……もしかしてアルトくん、くいしんぼさんなの?」
リルがスープのついたスプーンをくわえたまま、純粋な疑問として首を傾げた。
すると、アルトはビクッと肩を跳ね上げ、一瞬で顔を真っ赤にして立ち上がる。
「違うわ! 誰が食いしん坊だ! これは……その、万が一のための備えだよ!」
アルトはムキになったように声を荒らげた。「明日食えなくなるかもしれない」という恐怖から、動けるうちに限界まで蓄えておくのが彼の習慣だった。その理由を隠すように、アルトは腕を組んでふんぞり返る。
「いいか、俺たち泥棒は、毎日確実に盗める保証なんてどこにもないんだ。足に怪我をしたら終わり。大雨が降っても終わり。だから、いつ泥棒ができなくなってもいいように、こうしてたくさん準備しておくのがプロの鉄則なんだよ!!!」
「へえ、プロのてっそく……。アルトくんはやっぱりかしこいんだね!」
怒られたことにも気づかず、リルは「すごいや!」という風に目を輝かせて干し芋を見つめている。そんなリルの邪気のない態度に、アルトは毒気を抜かれたように「たく……」と息を吐き、再び木箱に腰を下ろした。
リルは木箱の上でスープを飲み進めながら、ふと、少し広い隠れ家を見渡して言った。
「ねえ、アルトくん。 お父さんとお母さんはいないの?このおうちに住んでないけど…?」
その無邪気な質問に、アルトの手がピタリと止まった。
アルトは目を少し伏せ、ポケットからリルの涙と鼻水を拭ってやった赤いハンカチを取り出した。ぐしゃぐしゃになってしまったハンカチを見つめながら、暖炉の火にかざして乾かし始める。いつもなら「うるさいな」と突っぱねるところですが、自分のために大号泣してくれた相棒の前だからだろう。不思議と普段は誰にも話さない言葉が口をついて出た。
「いないよ。親の顔も名前も知らない。俺は生まれた時からずっと、一人ぼっちの孤児さ」
「え……」
リルはスプーンを持ったまま、ぽかんと大きな目を見開いた。
お父さんもお母さんもいない。生まれたときからずっと一人ぼっち。そんな世界がこの世にあるなんて、純粋なリルには想像すらしたことがなかった。アルトの言葉の重さに胸が締め付けられるように痛んで、リルはなんて言葉を返していいか分からず、ただ小さく息を漏らすことしかできなかった。
アルトは乾いていくハンカチの端を、親指でそっとなぞり始めた。
「この街の路地裏で、ゴミを漁ったり、大人に蹴飛ばされたりしながら、ただ死なないために生きてきた。棚に食べ物をたくさん溜め込んでおくのも、その時の名残りさ。で、このハンカチなんだけど……」
アルトは暖炉の火を見つめながら、少し声を落とした。
「これはね、俺がもっと小さかったとき、初めて大人からカンペキに盗めた戦利品なんだ。その頃の俺はまだヘタクソでさ、いっつも失敗しては大人に蹴飛ばされて、路地裏で泣いてばかりだった。だけど、この赤いハンカチをポケットからシュッと抜き取れた瞬間、なんだか急に目の前が明るくなったんだ。『あ、俺はこれで生きていけるんだ』って。俺が泥棒として生きるって決めた最初の原点で、これを持ってればどんなに強い相手からでも絶対に盗めるっていう、俺だけのお守りなんだよ」
アルトはそこで言葉を区切り、乾いたハンカチを丁寧に折りたたむと、リルの頭をポンと軽く小突く。
「誰にも頼らず、誰も信じずに、一人で完璧に生きていく。そう決めた時の大事なお守りなんだよ。……なのにキミときたら、それを初っ端から涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてくれるんだから、まったく大した度胸だよ」
「アルトくん……」
リルはスープの器を置き、にわかに大きな目を潤ませた。アルトがどれほど過酷な孤独を生き抜いてきたのか、そして、そんな彼にとってこのハンカチや棚の蓄えがどれほど特別な意味を持っているのかを、その真っ直ぐな心で感じ取った。
リルは椅子から立ち上がると、ブカブカの服の袖をぎゅっと握りしめ、アルトの目の前にすっくと立ち塞がった。さっき路地裏でおばさんの前に立ち塞がったときと、全く同じ、必死で一生懸命な顔で…
「じゃあ、僕がいるから、これからは一人じゃないね!」
「はぁ!?」
「僕、アルトくんのあったかい相棒になる!!! アルトくんが泣きそうになったとき、今度は僕がアルトくんの涙を拭いてあげる!!!」
「なっ……だ、誰が泣くか! 俺は天才泥棒だぞ! 泣くのはキミだろ!」
案の定、耳を一瞬で真っ赤にしたアルトは、大慌てで顔を背けた。心臓がうるさいほどバクバクと鳴っている。リルの無条件のぬくもりが、アルトが今まで一人で凍えながら守ってきた心の氷を、ものすごい勢いで溶かしていくのを感じた。
「あーもう、本当にキミって奴は……! 声が大きいって言ってるだろ、秘密の隠れ家の意味がない!」
ぶつぶつと怒鳴りながらも、アルトは赤くなった顔を隠すように、残ったスープを一気に飲み干した。
外では冷たい夜風が吹き荒れていたが、アルトが血をにじませて手に入れた小さな秘密の家で、二人の不器用で、だけど何よりも温かい信頼の光で満たされていく。
「よし! しんみりするのはここまで。明日の作戦会議を開くよ」
アルトは「ゴホンっ」と咳払いをして、真面目な顔で木箱の椅子をリルの近くへと寄せた。
「今日の特訓でよく分かった。キミに『囮』をやらせて、臨機応変な動きを求めるのは絶対に無理だ。また俺の名前を連呼して大号泣されたら、俺の心臓が持たな……じゃなくて、俺の考えた作戦が完全に破綻するからね」
「うん……僕、また泣いちゃうかもしれない……」
リルは自分の大きな袖をいじりながら、シュンと耳を寝かせた。
「だから、作戦を根本的に変更する。明日はキミに『演技』は求めない。キミはターゲットになる人間の視線を、ほんの一瞬だけ、キミの『素』のままで引きつければいい」
「すのまま……? 僕、なにかするの?」
「そう。題して『あっち向いてホイ作戦』さ!」
アルトはビシッと人差し指を立てた。
「明日はお昼、市場の一番賑わう通りで、金持ちそうな仕立ての良い服を着たおじさんを狙う。キミは俺の合図に合わせて、そのおじさんの目の前で、派手に、盛大に、すっ転んでおくれ」
「えっ!? ころぶの!?」
リルは驚いて目を丸くしました。
「そう、わざとじゃなくて、いかにも『あーあ、ドジな子供が派手に転んじゃったな』って周りが思うようにね。キミなら演技をしなくても、ブカブカの服の裾を踏んづけて、そのまま前にフライングするだけで完璧な絵面になるはずだ」
「うん! ころぶのなら、僕。得意かもしれない!」
リルはなぜか誇らしげに胸を張った。
「キミが転んで、周りのみんなやターゲットのおじさんが『おっと、大丈夫か?』って一瞬だけ視線を足元に落とす。その、わずか一秒。それさえあれば、町一番の天才泥棒『漆黒のシャドウ』であるこの俺が、おじさんの懐から音もなく財布をいただく。キミが俺の前に立ちはだかる必要も、大泣きする必要も、最初からないんだ」
アルトは腕を組み、ふんぞり返ってみせた。リルはその言葉を頭の中で一生懸命に組み立てているようで、やがてパッと表情を明るくした。
「そっか! 僕がトコトコ走って、ペターンって転べば、アルトくんがかっこよく泥棒できるんだね!」
「言い方はどうかと思うけど、まあ、そういうこと。……今度はちゃんと、俺のことは『シャドウ』って心の中で呼ぶんだよ。声に出さなくていいからね」
「うん! 任せて、シャドウ!」
リルは元気に右手を挙げて、満面の笑みを浮かべた。その純粋で真っ直ぐな笑顔に、アルトはまたしても胸の奥が痒くなるような感覚を覚え、「ふいっ」と顔を背ける。
その後もアルトは、転ぶタイミングや、盗んだ後の逃走ルートを、まだ幼いリルにも分かりやすいように何度も丁寧に教え込んだ。
やがて夜が深く更けると、アルトは自分の狭いベッドをリルに譲り、自分は床に毛布を敷いて横になった。
暗闇の中、ベッドの方から「邪道、おやすみなさい」と小さな声が聞こえ、アルトは「……シャドウだろ。おやすみ」とぶっきらぼうに返す。
親の顔も知らない孤児のアルトにとって、誰かの「おやすみ」を聞きながら眠る夜は、生まれて初めてのことだった。




