第10話 おじさんの写真
なんとか危機を脱したアルトは、屋根の隙間でリルを抱えたまま、肺が張り裂けんばかりの荒い呼吸を必死に押し殺した。心臓の音がドラムのようにうるさく鳴り響き、自分の耳にまで聞こえてくる。
「(……死ぬ。確実に寿命が百年は縮んだ……!)」
腕の中のリルは、口を塞がれたまま「むぐー」と不満げな声を漏らしつつも、瞳をキラキラと輝かせている。どうやら本当に『絶対に声を出してはいけない鬼ごっこ』という超エキサイティングな遊びだと思っているみたい。その純粋さが、今のアルトにとって致死量のプレッシャーだった。
アルトは一度深く息を吐き、狂乱が渦巻く下の通りを視線だけで警戒しながら、頭を急速に冷やし始めた。
「(落ち着け。なぜこんなことになった? いくら『始祖の祝祭の王冠』が国宝級のシロモノだからって、ここまで裏社会のゴロツキから一般市民までが一堂に会して血眼になるなんて、いくら何でもおかしい。情報の回り方が異常すぎる……!)」
何かが引っかかる。
そう感じたアルトは、空いている片手を自分の懐へと滑り込ませまた。そして、この悪夢の引き金となった、町中に貼り出されていた例の行方不明書をクシャクシャの状態で引っ張り出した。
「(ガルバとエルマの夫婦が、愛息子を保護した者に王冠を授ける……。内容はこれだけのはずだ。だが、この異常な包囲網を裏で糸引いている奴が、必ずどこかにいる……!)」
月明かりと、表通りを飛び交う松明の僅かな光を頼りに、アルトは行方不明書の文面を隅から隅まで凝視した。
すると、普段なら誰も気に留めないであろう
用紙の最下部──飾り文字の影に隠れるようにして小さく刻まれた、発行元と立会人の署名と顔が目に飛び込んできた。
その顔は昨日、アルトたちが盗みを働いた相手──あの『おじさん』の写真だった。
「……っ!?」
アルトの目が、これ以上ないほど見開いた。あまりの衝撃に、塞いでいたリルの口から思わず手が離れそうになる。
「このおじさんの顔…もしかして、俺たちが財布をスッた本人!!?」
「ぷはっ! やっとお手手どけてくれた!」
リルは塞がれていた口が自由になると、ぷくーっと頬を膨らませてアルトを少し恨めしそうに見つめた。しかし、その怒りも一瞬のこと。すぐにまた楽しげに声を潜め、アルトの手元にあるクシャクシャの紙を覗き込む。
「ねえねえアルトくん、このおじさん、あのときの『財布を盗んじゃった』おじさん? お財布にいっぱいキラキラの金貨が入ってたよね!」
無邪気に笑うリルの瞳は、自分たちが今、どれほど巨大な虎の尾を踏んでしまったのかを全く理解していない。
「……ん?アルトくん。なんでそんなに顔が青いの?心臓、さっきからドコドコいってて、僕の背中まで響いてるよ。もしかして……このおじさん、ただのおじさんじゃなくて、すっごく怒ると怖い、お化けみたいな人だったの……?」
リルの無垢な疑問が、張り詰めた空気の中にぽつりと落ちた。
アルトは、目の前で首をかしげるリルの無垢な瞳を見つめ、一瞬だけ躊躇した。本当のことを話せば、この小さな相棒を怯えさせてしまうかもしれない、という恐怖があった。
しかし、街を埋め尽くしていく包囲網の異常さと、自分たちを血眼になって追っているのが、あの昨日財布を盗んだあの「金持ちのおじさん」であるという奇妙な現実を前に、アルトはリルに本当の危機を伝える決意を固めた。
たかがスリの被害者が、なぜこれほどの私兵部隊を動かせるのか。あのおじさんは、一体どれほど恐ろしい力を持った富豪なのか─。
「……いいか、リル。よく聞いてくれ。笑い事じゃないんだ」
アルトの声は、恐怖と緊張で硬く震えた。
「あのおじさんは、ただの金持ちじゃない。もしかすると、この国の政治を動かせるほどの権力を持った人物なのかもしれない。俺たちが盗んだあの財布のせいで、あのおじさんは本気で怒って、湯水のように金をばら撒いて国中のゴロツキや私兵を動かして、俺たちを殺しにきてる。……これは遊びの鬼ごっこじゃない。捕まったら、俺たち二人とも、もう二度と太陽は見られないんだ」
アルトの必死の告白を聞いたリルは、一瞬きょとんとした後、その言葉の本当の意味を理解し始める。キラキラ輝いていた瞳から次第に光が消え、小さな身体が強張っていくのを感じながら、アルトはさらに言葉を続けようとした。
―――と、その時。
二人が潜む屋根のすぐ下から、複数の足音と、おぞましい肉声が響き渡った。
「おい、そっちの路地を探せ! 大臣からの命令だ、一族のガキどもを五体満足で捕らえた者には、望むだけの富を与えるとなぁ!」
「屋根の上はどうだ!? 念入りに調べろ!」
松明の容赦ない光が、屋根の隙間から差し込んでくる。息を潜める時間すら残されていない。
「…おい、本当にこっちに逃げたのか!?」
「屋根の上だ! 一枚たりとも見落とすな!」
すぐ真下、そして隣の屋根をドタドタと踏み荒らす追っ手たちの足音。松明の容赦ない光が、屋根の隙間から檻の格子のように差し込み、二人の肌をチリチリと焼くような錯覚さえ覚えさせる。二人には、息を潜める時間すら残されていなかった。
(――いや、まだだ。ここで動いたら本当に終わる……!)
アルトは恐怖で爆発しそうな心臓を無理やり押さえつけ、頭を急速に冷やした。動いて音を立てた瞬間、あるいは隙間から逃げ出そうとした瞬間に、あの冷酷な男たちの網にかかる。
アルトはリルの耳元に口を寄せ、声にすらならない吐息で「……信じて、じっとしてろ」とだけ告げた。そして、クシャクシャの行方不明書を小さく丸めると、二人が潜む隙間から、わざと数メートル離れた屋根の合わせ目へと、指先で音もなく弾き飛ばした。
「カサリッ」
それは、風がゴミを揺らしただけの、あまりにも小さな音。しかし、神経を尖らせていた追っ手にとっては十分すぎる「獲物の気配」だった。
「おい! あっちの屋根の隙間で今、紙が擦れる音がしたぞ!」
「いたか!? 囲め、逃がすな!」
ドスドスと重い足音が、二人の頭上を通り過ぎて離れていく。松明の激しい光と、それに伴うゴロツキたちの影が、二人のすぐ目の前を横切って、音のした方向へと一斉に群がっていった。
「……いない!? クソ、ただのゴミか!」
「チッ、もう別のルートへ抜けた後か? おい、表通りへ回るぞ!」
怒号とともに、男たちの気配が次第に遠ざかっていく。
アルトは、張り詰めた糸を緩めるようにふうっと息を吐き出した。
屋根の隙間からそっと下を覗き込み、安全を確認したアルトは、リルをしっかりと抱き直して静かに地上へと飛び降りる。
「タブンっ」と軽い着地音が路地に響いたその瞬間――。
「おいおい、空から降ってくるなんて、最近の若いのは景気がいいなぁ?」




