第11話 ハルミトン
背後から掛けられた、やけに低く、しかし驚くほど緊張感のない声。
アルトの背中に冷たい汗が吹き出す。全神経を尖らせてゆっくりと振り返ると、仕立てのいい衣服に見を包み、私兵を従えながらも、あえてゴミ箱に腰掛け、こっちを見下ろす男の口元に、いやらしい笑みが浮かんでいる。
「……ん?」
アルトの肩が、びくりと跳ね上がった。
そこには昨日、二人が財布を盗んだあの、太ったおじさんが立っていた。
高級そうなコートを肩にかけた男。昨日、財布を盗まれたことに気づいて大騒ぎしていたあのおじさん。
(ま、まずい……! )
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
アルトは恐怖と焦りのあまり、頭が真っ白になった。
ここで言い訳をしても無駄だ、誠心誠意あやまるしかない、そう思い込んだアルトは、思わず頭を下げて叫んでいた。
「あ…お、おじさん。昨日はごめんなさい。あの財布は、その……盗んじゃって…」
「ガッハッハッハッ! こいつは傑作だ! 自分からしゃべっちまいやがった!」
おじさんは腹を抱えて大笑いし始めた。
その豪快な笑い声に、アルトは呆然と立ち尽くす。
「な……え?」
「いやぁ、人違いかと思って声をかけようとしただけだったんだがなぁ。まさか、昨日ワシの財布を盗んだ泥棒猫が、向こうから白状してくれるとは夢にも思わんかったぞ!」
おじさんは楽しそうに口ひげを揺らしながら、アルトを指さした。
カマをかけられたわけですらない。おじさんはただ、そこにいただけだった。
自爆したのだと気づいた瞬間、アルトの顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
アルトの胸にしがみついていたリルは、恐怖に大きく目を見開いたまま、その瞳に涙をいっぱいに溜めてアルトの服の胸元をぎゅっと握りしめている。
恐怖で小刻みに震えるリルの小さな背中からは、昨日の事件の記憶と、今まさに捕まってしまうかもしれないという絶望感が痛いほど伝わってくる。守るべきその重みを感じながら、アルトは自分の失言の大きさに血の気が引いていくのを感じていた。
アルトが頭を抱えていると、おじさんは笑いを収め、ふところから一枚の紙を取り出した。
そこには、昨日アルトが見つけたものと同じ、王宮発行の「特級重要指名手配書」が描かれていた。
そこでアルトは、心に浮かんだささやかな疑問を、ただ純粋に解き明かしたいというように問いかけた。
「おじさん、一体何なんですか!?昨日の財布の中身、なかにに入ってた手配書……! あなたは一体、何者なんですか!?」
すると、おじさんは自分の胸をどんと叩いた。
「私か?私はハミルトン。商人だ」
「商人……?」
「そうだ。まあ、ただの商人ってわけでもないがな」
ハミルトンは意味深に笑うと、昨日とは打って変わって落ち着いた様子で、コートの内側から小さな革袋を取り出した。
「実はな、昨日お前さんたちに財布を盗まれたあと、私もいろいろと考えたんだ」
「……考えた?」
「そうだ。最初は腹も立ったがね……よくよく考えてみれば、あれも何かの縁だったのかもしれん。人との出会いというものは、時として思いもよらぬ運命を連れてくるものだからな。そこで、ひとつ提案があるんだが……よかったら、私の屋敷に来てみないか?」
「……屋敷?」
「そうだ。なーに、悪いようにはせんよ。話したいこともあるし、君たちにも見せたいものがあるのでね。どうだろう?」
昨日までは、ただの貧乏泥棒だった。それが今では、伝説の大泥棒の息子を送り届ける計画に巻き込まれ、国宝の王冠が懸かった賞金騒ぎの中心に立ち、正体不明の商人に連れられていこうとしている。
(……俺、何か悪いことしたっけ?)
アルトが内心で冷や汗を流していると、それまで彼の背後に隠れていたリルが、ひょこっと顔を出した。
「アルトくん、このおじさんについて行こうよ! どんなお屋敷なのか楽しみだね!」
さっきまで大きな体の大人たちに囲まれて警戒を剥き出しにしていたリル。しかし、商人の口から飛び出した「お屋敷」という言葉に、リルの想像力は一気に膨らんだようだった。頭の中で豪華な御馳走やふかふかのベッドを思い浮かべたのか、その瞳はきらきらとした輝きに塗り替えられていく。
「よーし…じゃあ、付いてきなさい」
「ほら、アルトくん、早く行こう!」
「……はいはい。行けばいいんだろ、行けば……」
こうしてアルトとリルは、またしても自分の意思とは無関係に、さらなる厄介事へと足を踏み入れることになった。
そしてリルたちはまだ知らなかった。
このハミルトンという男こそが、今回の騒動をさらにとんでもない方向へと転がしていく、もう一人の厄介人物であることを――。




