寝返った貴方に、尋ねる②
シェリィは笑えばいいのか、泣いていいのかわからなかった。
だが、確かなのは一つだ。
「それなら、お父様のお身体を、迎えに行かなくちゃ。妖精界に行って、お父様を連れ戻……」
「いけません! 人間は本来、妖精のように二つの世界を行き来できません。妖精界から無事に戻れた人間は、歴史上一人もいないのです」
「お前はそれが分かっていながら、お父様をクレバスに突き落としたのね」
「クレバスを通れば、また戻れるはずだったのです。公爵様が生きていらっしゃれば……」
少し前のシェリィなら、例え人間界に二度と戻って来られないと分かっていても、すぐにでも父に会いにクレバスに飛び込んだだろう。だがクレバスはもうカイルによって破壊されてしまったし、今の彼女は人間界に未練があった。
カイルに恥じない自分でいたかったのだ。
バードは周囲を警戒する様子を見せ、視線を素早く巡らせつつ言った。
「妖精界からお身体を救出する方法は、簡単ではありませんが一つだけあったのです」
「条件って、何?」
「本来、もうすぐ達成できる条件でした。あと少し待てば、公爵様を迎えに行くことができると、そう思っておりましたが」
「バードが連れて帰って! お父様をクレバスに落としたのが、バードなら……」
「誰しも界を渡るには、召喚術が必須となります。ましてや普段のように妖精を召喚するのではなく、意思のない人間を呼びよせるのですから、途方もない魔力が必要になります」
(つまり、バードは誰かの大きな魔力で、お父様のお体を召喚術で呼ぶつもりだった?)
ハッとひらめくなり、シェリィは脱力した。バードの計画を、今悟ったのだ。
「――王族のマティアスなら、莫大な魔力を持っているわ。王族は妖精の召喚術をしないのが慣習だけれど、バードはマティアスに私のために、お父様を召喚させて救出しようとしていたのね?」
バードは答えなかった。だがそれが答えなのは明らかだった。
なぜその計画が破綻したか。禁を破ってまで魔術を行うほどのマティアスの愛を、シェリィが得られなかったからだ。
それを言葉にしないことが、バードなりの優しさかも知れない。
「前公爵様の野営地で、凄まじい数の魔獣が人間を屠ったことは、人間界にいた妖精はよほど鈍感でない限り、あの夜感じ取ったはずです。魔獣も妖精も、妖精界から来ていますから」
「やっぱり」
「あの夜……」
バードは言葉に詰まった。
だが沈黙を許すまい、とシェリィがすぐに続きを促す。
「その夜に、何が起きたの?」
「前公爵様の身を案じた私は、魔術を使って王都から急いで北部山脈に転移しました。――前公爵様は、野営地で数人の生き残りの騎士達と、必死に戦われていました」
シェリィは全神経を澄ませて、バードの話を聞いた。
ずっと知りたかった、父がどう最期の時間を過ごしたのかを、今バードがようやく話しているのだ。
バードが野営地に到着した時には、既に多くの騎士達が亡くなっていた。彼は当時の光景を思い出したのか、暗い面持ちで話し進めた。
「前公爵様は倒れた騎士を庇って、重傷を負われました。私たちは命からがら野営地を脱出しましたが、魔獣たちに囲まれ、逃げ場を失い……あの時、私たちは死んだも同然でした。そのため私は前公爵様を、クレバスまでお連れしました。リンツの王都から北部山脈までの転移術で、魔力の大半を消費していた私にできることは、もはや彼を妖精界に避難させることだけだったのです」
妖精は人間界で十分に魔力を発揮できない。
だがバードも妖精界に戻れば、シェリィの父が負った大怪我を魔術で治してあげられるのだ。
「だからあなたはクレバスにお父様を、突き落としたのね。それで、お父様は妖精界についてから、どうなったの?」
「――公爵様の後に続き、私もクレバスに飛び込みました。そして、その先で……」
バードの声が震え、後が続かなかった。
バードはゆっくりと空を見上げた。彼の紫色の瞳に、雲が映る。
そのままバードは目を閉じ、肺の中の空気を吐き切るように長いため息を吐いた。
そうして、口にすることはどうしてもできないのか、バードは時間をかけて、ただ頭を左右に振った。
妖精にしては珍しく、苦渋に満ちた彼の表情からシェリィは悟る。
「お父様は、妖精界に着いてすぐに……死んだのね」
バードがゆっくりと、だが確かに頷いた。
シェリィはバードの白い顔をしばらくの間、何も言えずに見ていた。ただ、痺れたように立ち尽くす。
突きつけられた事実は重く、口を開く気にならなかった。
シェリィにとっては、半ば分かっていたことだった。だから改めて傷つくことはなかったが、それでも父の死が確実になることは、辛かった。
ずっと微かな希望を抱き続けていたが、現実は厳しい。
長く留守にしてしまったことを侘びながら、いつか父が戻ってくる日を夢見ていたが、夢は夢でしかなかった。もう決して叶うことはない。
はっきりしたのは、父の遺体を人間界に帰してやらねばならない、ということだ。
バードはシェリィと同じくらい、今や沈痛な面持ちをしていた。彼も彼女の父の死を、悲しんでいるのだ。
だが妖精は人間ほど感性豊かではない。彼らは決して涙を流さないと言われている。
自分だけ泣いてしまうのが悔しくて、シェリィは涙をこらえ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「これでお父様のお身体を人間界に連れ戻すという、目標ができたわ」
シェリィはもう一つの疑問をバードにぶつけた。
「もう一つ、知りたいことがあるの。――お父様の側近のユトレヒトが、公爵邸に来ていたのを知っていた? 彼は今、どこにいるのかしら?」
「ユトレヒト様が公爵邸に? まさか」
バードは純粋に驚いているようだった。
いかにも予想もしないことを言われた、といった様子で眉間に皺を寄せてシェリィを険しい目つきで見つめている。
ややあってから、バードは考え込むように側頭部を押して、掠れた声で呟いた。
「それでは、やはり現公爵様はユトレヒト様の行方を知っているのですね」
「バード、貴方は何を知っているの? ユトレヒトのことで、何か叔父様かアンジーから聞いている?」
アンジーの名前が出た途端、バードの目の奥に冷たい色が宿った。
「現公爵様のことは知っていても、私はアンジー様の守護妖精ですから、何かをお教えすることはできません」
バードの表情が再び揺らぎのない、事務的なものへと戻っていく。
無機質なアメジストの瞳がシェリィの後方に向かい、馬車を見つめる。
「シェリィ様と長くお話ししていれば、公爵邸の方々やアンジー様からあらぬ疑いをかけられます。もう馬車に乗りますので、こちらでお別れします」
「ま、待って」
呼びかけるとバードは足を止めてくれた。
シェリィは右足をズイッと前に出して、バードに言った。
「靴紐を結んでちょうだい。さっき解けてしまったの」
バードはしばらくの間、何も言わなかったし、動かなかった。
だがやがて彼は自分の長いローブの裾を払って、その場に屈んで片膝をついた。そうして両手を伸ばしてシェリィの靴紐に指をかけた。
シェリィは祈るような気持ちでバードの指先を見つめた。
バードが靴紐をつまみ、器用に二つの輪を作る。そして彼は二つの輪を根元でくるりと結んだ。
シェリィの目頭が熱くなり、彼女はバードにバレないよう、ぎゅっと目を閉じた。
バードはかつてシェリィに歌いながら結び方を教えてくれたように、ウサギの耳の結い方で、蝶々結びをしてくれたのだ。
それは二人の間だけの、特別な結び方だった。
それだけで、今のシェリィには十分だった。
シェリィはバードを信じた。
結果は望んだ通りにならなかったが、バードはシェリィの父を助けようとしたのだ。




