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帝国の水の都④

 元衛生兵に礼を言ってから、シェリィはハンカチを片手にずっと上の空だった。

 シェリィはバードに聞かなくてはならないことが、たくさんあった。


「ちょっと、ゴンドラから落ちるわよ!」


 教会からの帰り道、水路を行くゴンドラの上でゴードンの叱責が飛ぶ。

 相変わらずベネスティの光景は美しい。だが、シェリィは席の上で小さくなったまま、長い時間俯いて考え事をしていた。

 妙におとなしくなったシェリィが気になり、ゴードンが後ろの席から彼女の背をこづく。


「さっき教会で聞いた話だけれど。なんだか要領を得ない話だったわね。妖精と先代の公爵の側近に、繋がりがあったのかが、わからないし〜」

「そうですね。ユトレヒトがもしどこかで回復してくれていれば、重要な証言が得られそうなのに、歯がゆいです」


 だが、新たな収穫もあった。衛生兵の話によれば、ユトレヒトは正気に戻ることもあったという。であれば、そのわずかな時間に彼は、どうにか事実を伝えようと第一皇子の皇子印を、懺悔の間の暖炉に隠したのかもしれない。

 ゴードンが少し逡巡してから、慎重に口を開く。


「そのユトレヒトのことを、魂が使い物にならなくなった人形のような状態、って言っていたわね。なんだか、魔術師の立場としては、ゾッとする表現だわ。――アンタも王立グランデ学院で学んだなら、聞き覚えのある表現でしょう?」


 シェリィは一瞬なんのことを言われたのか、すぐに気づけなかった。

 だがそういえば、似たような言い回しが魔術の教科書に載っていたことを思い出し、コクコクと頷く。

 魔術は古来、さまざまな術式が生み出されてきたが、中には倫理に反するような術だったり、危険が大き過ぎる術であるとして、使用を禁止されているものもあった。それらは邪術と呼ばれている。

 シェリィは学院の試験勉強で覚えた内容を、懸命に思い出した。


「たしか、人の記憶を奪ったり、思考回路を破壊するような邪術を行うと、重大な副作用が起きやすくて、魂が使い物にならなくなって、術を掛けられた人は人形のようになってしまう、と授業で習いました」

「そうよ。人に催眠をかけて意のままにその体を操るのも、邪術よ。本人の意思に反することをさせられたせいで運悪く副作用が起きると、意識や魂が破壊されて、人は人形化すると言われているわ」


「人形化」という簡潔な言葉が、シェリィには不気味だった。

 人の意思や思考回路は、その人だけのものだ。

 誰も手を加えてはならない。

 術による上書きや強制は、取り返しのつかない副作用をもたらすのだ。

 そこまで考えてから、シェリィはハッと背筋を伸ばした。


「もしや、ユトレヒトは自分の同僚たちの悲惨な状況を見て精神を病んだのではなく、なんらかの呪術で人形化したのでしょうか?」


 ゴードンは神妙な顔で、首を大きく縦に振った。


「さっきの話を聞いて、少なくともアタシはそういう印象を受けたわね。ま、これだけじゃ確信は持てないけれども」


 確信は持てないが、シェリィは否定することもできない、と思った。

 実際に人形化した人間など、観たことがないはずだから、ゴダイバ帝国の救援隊の人々も、誰も邪術とは結びつけなかったのだろう。

 微かに鳥肌が立ち、シェリィが自分の二の腕をさする。

 シェリィの後ろで、ゴードンが難しい顔をして、腕を組んで座り直す。


「ただ、この仮説は実際には実現不可能ね。誰もやらないわ。人を殺すのと同じで、固く禁止されているもの。第一、相当な魔力が必要よ。王室か皇室の人間でない限り、そんな高い魔力は持っていないでしょうね」

「妖精にも、無理ですか?」

「妖精? ああ、クレバスで目撃された怪しい妖精を疑っているのね。でも、無理でしょう。妖精が人間界で使える魔力量では、到底足りないもの」

「そうでしたか……」


 シェリィは安堵のあまり、小さく息を吐いた。

 バードを本気で疑っていたわけではない。けれど、集まった情報から、確かめざるを得なかったのだ。


 ゴンドラを降りて賑やかな通りに戻っても、シェリィは心ここに在らずといった様子だった。

 教会で聞いた話が頭の中でグルグル回り、景勝地のベネスティにいるというのに、景色を楽しむ気持ちになれない。

 景色の全てが、霞んで見えてしまう。


「ほら、ご登場よ。アンタったら、今回の目的をほぼ忘れているみたいだけれど」


 そういうなり、ゴードンが太い指でとん、とシェリィのこめかみをこづいた。

 ゴードンは軽く突いたつもりだったが、体格の差のせいで、シェリィの首がグキッという音とともに反対側に曲がる。

 シェリィの腕を掴んで隣を歩いていたゴードンが一歩身をひく。


「ゴードンさん?」


 急に離れたゴードンの行動を訝しみ、シェリィが振り返ろうとした矢先。建物にへばりつくようにして並んで立っている屋台の影から、長身の男が姿を現した。

 魔獣ではなく、黒猫の仮装をしているのか、仮面にはピンと尖った耳がついていて、目の周りには金色の渦巻き模様が描かれている。

 顔の上半分が隠れているものの、シェリィは目の色と体格から、男が何者かすぐにわかった。

 カイルがシェリィを迎えに来たのだ。

 海を渡ってきた風に黒いマントが靡き、スラリと長身のカイルは人混みの中にいてもなお、かっこよくて目立った。

 水路の底の重たい岩のように沈んでいたシェリィの気持ちが、一瞬で浮上してカイルに意識と視線が集中する。


(また会えた。約束を守ってくれたんだ!)


「本当にカイルが……」と言いかけてゴードンを振り向くが、彼はすでにそこにいなかった。急いで視線を動かして雑踏を探すと、彼はひらひらと右手を振りながら、こちらに背を向けて元来た道を戻りながら離れていく。


(唐突に登場して、唐突に消えていくのね)


 シェリィがゴードンには見えないであろう手を一応振り返していると、歩いてきたカイルが彼女の肩を優しく叩いた。


「急に呼びつけて悪いな。ちょうどカーニバルの季節だったから、水の都を案内したかったんだ」


 そばに来たカイルをシェリィがじっと見つめる。


(本物のカイルだわ……)


 目と目が合えば、先ほどまでの不安と猜疑心で乾ききり、縮こまっていた気持ちが、みるみる水を吸って生き返っていく気分した。

 シェリィは会うだけで強烈な喜びと安心感を与えてくれるカイルに、心揺さぶられた。

 自然と口元に笑みがこぼれる。


「びっくりしたわ。私、移動陣で王都からここまで来たのよ! ゴードンって凄腕の魔術師だわ。一瞬でベネスティまで来られちゃったの。あなたの家の魔術師って、ものすごく腕がいいのね」


 カイルはほんの少し目をそらし「まぁな」と肩をすくめた。


「帝国軍の衛生兵にも会えただろう?」


 顔を傾けてカイルがシェリィの顔を覗き込む。


「ええ、会えたわ。探し出してくれてありがとう。色々な話を聞けて良かったんだけれど、情報を整理するのにちょっと混乱しているの」

「そうか。後で俺にも詳しく聞かせてくれ」


 そうして遠慮気味に手を伸ばし、シェリィの手を取る。


「まずは、ベネスティの祭りを楽しもう」


 カイルの手を握り返しながら、シェリィが恥ずかしいのを微笑みで誤魔化しつつ、彼に話しかける。


「お誘いが唐突でびっくりしたわよ。ゴードンさんってば、居間に突然現れたんだから」

「帝国見学が急になって、すまなかった。帝国の景勝地といえばベネスティだし、ベネスティといえばカーニバルなんだ。要するに、今のタイミングを逃したくなかった」

「こんなまたとない経験をさせてくれて、ありがとう」


 素直に感謝を伝えると、カイルがギュッとシェリィの手を握り返した。


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