思いがけない遭遇
一部の雑音は耳に入らないのか、アンジーが青いドレスの裾を広げて、皆に向かって深々と膝を折る。
クリスタルを散りばめたドレスの裾がフワリと広がり、アンジーの細い腰が沈む。
蜂蜜色の髪を結い上げて見せるうなじはどこまでも白く、再び顔を上げる仕草に至るまで、全ての動きが優雅で可憐だ。
大広間に集まった招待客たち一人一人に丁寧に向けられたアンジーの目は、どんな高価なエメラルドも見劣りしそうなほど、澄んで美しい。
シェリィの名を口にしてアンジーを批判的に見つめていた者たちですら、ほぅっと息を吐きその完璧な令嬢に心を奪われた様子だ。
アンジーの美がその場に与えた反応に満足し、マティアスが彼女の腰に手を当てて抱き寄せる。
マティアスは自身の新しい婚約者を誇らしげに見つめ、恋に潤んだ瞳をアンジーに向けながら、彼女の頬にキスをした。
「国王陛下も僕達の婚約を歓迎してくださっている。今宵、こうして皆に僕の真実の愛を捧げられる女性を紹介することができ、実に嬉しいよ」
アンジーがマティアスと見つめ合い、薄っすらと頬を桃色に染めた後で、恥じらうようにパッと俯く。
「なんて貞淑そうなご令嬢かしら」「まぁ、お可愛らしい」と周囲の貴族達が囁き合う。
そんな中、客の誰かが溢したらしき床のワインを拭いていたシェリィは、大理石の固い床に片膝をつきながら、自分の元婚約者と従姉妹を見ていた。
床を拭くシェリィに気づかなかった貴婦人の一人がシェリィに横からぶつかってしまい、シェリィを冷たい顔で睨み下ろす。
「危ないじゃないの、そんな所に這いつくばって。気をつけなさいな」
「申し訳ありません」
雑巾から手を離し、すぐに頭を下げて詫びる。
たとえぶつかってきたのは相手の方だとしても、謝罪するのは使用人でなければならない。これが貴族と平民の力関係の差なのだ。
床を拭くために屈んでいようが、毅然と立っていようが、これが使用人達が見ている世界だと、シェリィはワインでベタベタする指先を擦って物思いにふけった。
大広間に集った人々は、誰一人シェリィに注意を払ってはいない。皆がこの時、全てを手に入れて燦然と輝くアンジーと、自信をみなぎらせながらも愛に溺れるマティアスを見つめている。
(立場的には地獄のような時間だわ。でも……思ったよりは辛くないかもしれない)
赤く染まった雑巾をトレイに載せ、立ち上がる。
マティアスはアンジーが愛しくてたまらない、といった様子で彼女の肩や腰に触れている。
アンジーを見つめる碧い瞳は、まなじりがどこまでも下がっている。
シェリィはマティアス皇太子があんな風に愛しげに女性を見るということを、初めて知った。
(私の婚約者だった人。赤ん坊の頃から、ずっと結婚すると思っていた高貴な殿下……)
だが不思議だった。
歯痒い疼きが胸の奥底に残ってはいるものの、ショックや悲しみは案外なかった。
振られた後に泣きすぎて、マティアスに対する執着や想いは、体から流れ出ていったのだろうか。
シェリィはトレイをギュッと胸に抱えた。
無意識に頭の中に思い浮かべたのは、銀色の髪をなびかせ、青い瞳でシェリィを見つめる人――カイルのこと。
瞬間、ズーンとシェリィの胸が痛む。
カイルに会いたかった。
手紙だけでも、欲しいのに。
カイルは今、どうしているのか。無事でいるだろうか。
(私、マティアス王太子殿下のことは本当に、もうどうでもいいんだわ)
シェリィの中で大切な存在は、今やマティアスではなく、カイルだったのだ。
公爵が金色に輝くシャンパンで満たされた細いグラスを高く掲げ、大広間の隅にいる楽団に命じる。
「さぁ、ワルツを! ゆくゆくは我が国の主となる若き二人の夜会での初めてのダンスを、光栄にも我が屋敷でお披露目いたしましょう」
テンポの良い明るい曲調のワルツが始まり、まずはアンジーとマティアスが踊り出す。
大勢が二人に注目し、意識をそちらへやっているこの状況は、シェリィに好都合だった。
シェリィは目立たぬよう顔を下げたまま、トレイを抱えて大広間の出口へ移動した。ちらりと周囲の様子を窺うが、皆今晩の主役達のダンスに夢中で、誰もこちらには気を取られていない。
(今だわ。宝物庫に急がなくては)
トレイを戻してなるべく足音を立てないよう、地下へと走る。
使用人用の階段ではなく、堂々と公爵家の者達専用の階段を利用し、踊り場で小さなランプを拝借してから階を一つ下りた。
この時間は使用人のほぼ全員の配置が、大広間とその周辺に割り当てられているため、廊下を走っても誰にも見つかることはない。屋敷の地下にはワインセラーがあり、夜会の最中は厨房からワインをとりに人が下りてくる可能性もあるが、宝物庫はワインセラーとは別の棟にある。
通り慣れた石畳の暗い廊下をランプを照らしつつ進み、シェリィは両開きの大きな扉の前に立った。
公爵家の宝石類は、全てこの宝物庫にしまわれている。
本来、この部屋は施錠されていたのだが、アンジーが住み着いてからというものの、彼女はしょっちゅう出入りしてはアクセサリーを取っ替え引っ替えしていたため、鍵はすぐに取りやすい場所にしまわれるようになっていた。
すなわち、扉の脇に置かれた花瓶の中だ。
隠しているつもりなのだろうが、屋敷内の者達にはバレバレだった。
シェリィは鍵を取り出すと、花瓶をわざと倒したままにした。
そのまま解錠した扉を素早く押し開き、中へと進む。
青のティアラは宝物庫の中ほどの区画に保管されている。宝物庫は両側に大きなキャビネや引き出しがあり、中央には子供の背丈ほどのガラスケースが設定されていた。公爵家にとって特に価値がある宝物は、ガラスケースの中で展示されつつ、保管されているのだ。
宝物庫の中央のガラスケースに近寄ったシェリィが、思わず小さく叫ぶ。
「ない! 叔父様は、保管場所を変えたのね」
仕方なく、シェリィはあちこちの引き出しや宝石箱を開けて回った。
(想定はしていたけれど、探すのに時間がかかるわね……)
丁度半分ほどの収納場所を探し終えるころ、シェリィは黒い布を被せられたティアラを発見した。
「あったわ。まるで隠すように布を掛けてあるじゃないの」
シェリィから掠め取るつもりが満々だったようだ。
もし普通に鍵を借りて宝物庫に入ろうとしていれば、もっと見つけられない場所に移されていたに違いない。
手にとってみれば青のティアラは昔と変わらず、美しい輝きを放ちながらもズッシリとした重みがある。
「お母様のティアラ!」
両手でティアラを包み込み、そっと胸に抱く。
青のティアラは母の実家で母から娘へと受け継がれてきたものだ。肖像画の中のシェリィの母は、必ずこのティアラを頭上に載せていた。
再びティアラを手に収めることができて嬉しいが、時間がない。
焦りで震える手でティアラを持参した巾着袋に入れ、丁寧に腰帯に結びつける。
ティアラだけを取れば、かえってシェリィの関与が疑われてしまう。賢明にもそう考えたシェリィは、機転を利かせて近くにあった指輪やイヤリングを適当に選び、それらも巾着に押し込んだ。
長居は無用だ。
ランプの火が消えそうな勢いで出口へ走り、両開きの扉を開けて音がしないように閉め、もと来た廊下を駆け出す。そうして地上階へとつながる階段を歩き――シェリィはギャッと悲鳴を上げた。
目の前に薄っすらと発光する妖精が立っていたのだ。
しかも誰あろう、バードだった。




