【幕間】ギアンを先生と呼んだ少年
知識を持つ者たちによって作られた天空に浮かぶ都市、才都ヘイウォン。
その一角にあるスピカス家の豪邸でひとりの赤ん坊が産声を上げた。季節は冬。澄みきった空に半月が輝く静かな夜だった。
「生まれたわ」と、その子の母が夫に生まれたての赤ん坊を抱えてみせる。
「出産って非合理的ね。尋常じゃない痛みの割に得られるものは子供ひとりなんですもの」
「ああ、まったくだな。次回の学会までに研究をしよう」
ヘイウォンでは毎月“学会”が開かれる。それは、期限日までに各々の意見や研究などを書類にまとめ、提出すると、住民たちが集まった場でそれがひとつひとつ発表され、可否優劣について論ぜられる、というものだった。
「題はどうするの?」
「うん。『人工的に生命を生成する方策』とでもしておくか」
これに妻は無表情で、「いいわね」と答えた。
そしてこの日、誕生したその男の子はギアンと名付けられた。
それから月日は流れ、15年後。成長したギアンは日本で言うところの高校教育課程を修了し、すでに専門的な研究を始めていた。
そしてある日のこと。
1日の研究が終わり、ギアンが静かな家路を歩いていると、前からベレー帽のようなものを被った子どもが走ってくるのが見えた。
タッタッタッ
ドンッ
子どもが前を見ていなかったのとギアンが避けようとしなかったせいで2人はぶつかってしまう。
「いたた。ちゃんと前を見て走らなきゃダメじゃないですか」
先に立ち上がったギアンが手を差し伸べると、子どもはそれを払った。
「おまえなんかの手は借りない!」
声からして、どうやらこの子どもは少年らしい。
そして自分で立ち上がった少年は再び走り出すも、少し行ったところでつまずいて転んでしまう。
「あらら」と駆け寄ったギアンが少年の膝を見てみると血が出ていた。
心の中で、「なんて学習能力がないんだろう」と思う彼だったが、それは口に出さず、持っていた応急処置用の物を使って消毒、止血を済ませると、少年を自宅に連れて行った。
少年を見たギアンの両親の反応は“こう”だ。
「今日の研究成果はどんなものだ?」
いつもと変わらない質問が最初に出てきたことにギアンは驚きを隠せなかった。
「父さん、母さん。それより他に聞くべきことがあるんじゃないですか?」
「質問に質問で返すな。前々から言っていることだろう」
こんな風に言われてもギアンはめげずに続ける。
「父さん、この子は道で私とぶつかったのです。そしてケガをしてしまいました。話を聞いてみると家がないそうなんです。だからどうか一晩家に泊めさせてください」
ギアンの父は少し間を置いた後、「この話は終わりだ」と言って2人に食卓に着くように促した。
これがヘイウォンの住民だ。温かいのか冷たいのか、頭が良いのか悪いのか、ハッキリとしない人々なのだ。
さて、食事を終えたギアンと少年は交互に風呂に入ったあと、ギアンの寝床で一緒に寝ることに。そこでギアンは少年に色々と質問する気だった。
「まず、あなたのお名前は?」
机を挟んで座る少年にギアンはそう尋ねた。
「…シャバナ」
「シャバナ。いい名前ですね」と、うなずき、次の質問を投げかけるギアン。
「いったい、どうしてヘイウォンへ?」
こう問われた瞬間、シャバナの体がビクンと震えた。
「…なんでおれがここの住人じゃないって分かった?」
ヘイウォンの住人は外出の際に『居住証』を持ち歩かなくてはならない決まりなのだが、少年が入浴している間にギアンが彼の荷物を物色してみると、少年はそれを持っていなかったのだ。
しかし本当のことを言えないギアンは、「勘ですよ、勘…」と適当なことを言ってはぐらかすのみ。
「それで、理由はなんなんですか。方法は?」
この質問に対し、答えるのを躊躇したシャバナだったが、しばらくして意を決したように話し始めた。
「おれの親父は職人でさ、おまえら研究者が頼んだものを作る仕事してたんだ。けどおまえらが、安く仕上げる代わりに低品質の職人に移ったせいで親父の仕事はなくなった」
一息つき、再び口を開くシャバナ。
「そうしてだんだんと金に困るようになって、お袋は2週間前に奴隷商に売られていった。その10日後に姉貴、そんで最後はおれってわけだ」
話し終えたシャバナが顔を上げると、そこには目を覆うギアンがいた。
「気にせず、続けてください…」
「…どうしても奴隷になりたくなかったおれは家宝の呪具を持ち出して、その力でここに来た」
「何のため、ですか?」
「勉強するためだ。おれは勉強して勉強して、その頭使って金儲けして、お袋と姉貴を取り戻すんだ!」
この志に感銘を受けたギアンは黙ってうなづき、そして自分の机から昔の教科書などをどっさり持ってくると、それをシャバナに渡した。
「勉強なら私が教えます。一緒にシャバナの母さんと姉さんを助けましょう」
シャバナはこれを聞くと、目に涙を溜めながらも、差し出されたギアンの手を取り、うなづいた。
こうして始まった2人の勉強会。タイムリミットはたったの5日間。
ギアンは研究所に5日間の休みを申請し、両親に事情を伝え、万全の態勢を整えた。
「…あ、そこの計算間違ってます。正しくはこうですよ」
「そうか。んじゃ、ここも違うな…」
「よく分かりましたね!」
こんな楽しい会話の時もあれば、ギアンが厳しく教える時もあったり。しかし、ぶつかればぶつかるほど2人の仲は近しいものになっていくようだった。
そんな生活の中でギアンの心中にある変化が生まれ始めていた。教えたことを素直に飲み込むシャバナを見ていて、人にものを教えることが楽しく感じられてきたのだ。
そしてシャバナが出発する前夜には、研究よりも教育の方が自分に向いているのではないか、と思うようになっていた。
「…とうとう、明日ですね」
例の如くギアンとシャバナは机を挟んで座っている。
「ああ」
「まずはどこへ行くんでしたっけ?」
「“下”に降りて、港町エニャーオで魚を仕入れて干物を作る。出来たら鉱都ゴォツェに売りに行く、だろ」
「よくできました」と、ギアンが手を叩く。
「しかしそういえば、シャバナの呪具の詳しい能力を聞いていませんでしたね」
こう言われ、「これだよ」と、いつも首に巻いていた桃色の布を取ってみせるシャバナ。
「こいつは『ハゴロモ』。縦方向にだけ物をすり抜けて瞬間移動できんだ」
つまり自分の真上もしくは真下に瞬間移動でき、上に屋根があればそれを通過できるし、下に床があればそれを通過して階下に移動できるというわけらしい。
それを利用して、シャバナは才都ヘイウォンの真下から瞬間移動したのだった。
「なるほど…」
「ああ…」
この5日間、嫌になるほど喋った2人だが、いざ別れの時となると何を話していいか分からないようだ。
しかししばらくして、「実は、」と、ギアンが口を開く。
「あなたに勉強を教えているうちに、どうやら私はものを教えることが好きになってしまったようなんです」
シャバナは黙って続きを待っている。
「だからシャバナ、私はあなたについて行って教育がしたい」
これに、「いいと思う。先生に向いてるよ、ギアンは」と恥ずかしそうにシャバナが鼻の下を擦ると、「あれ、初めて名前で呼んでくれましたね」と、ギアンが笑い、つられてシャバナも笑った。
「さて、明日は朝早いからもう寝ましょうか」
フッと灯を吹き消し、2人は眠りにつくのだった。
そして翌朝。
「おい、おい」というシャバナの弾んだ声で目を覚ましたギアン。
「もう、そんな時間ですか…?」
目を擦る彼をシャバナはお構いなしに引っ張り、急かす。
「行くぞ、ギアン!」
キラキラした目で子どもにせがまれたら応じるしかないギアンはおぼつかない足でなんとか支度を終え、両親と研究所の面々に別れを告げると、シャバナと2人でヘイウォンの縁へと向かった。
さあ、いざそこへ着いてみると込み上げるものがあるギアン。
そんな彼の横顔を見て何を感じ取ったのか、シャバナがその背中に手をポンと置き、「研究所の人たち、ギアンのこと引き止めてたな」と呟いた。
自分の背に触れる手が震えていることに気付き、「高い所が苦手なら早く降りましょう?」と、ギアンが笑う。
「…うるせえ」と言いながら、シャバナがギアンの手を取る。それと同時に2人は地上に立っていた。
「やあ、待ってたぜい」
そこには降りてきた2人、正確にはシャバナに手を振る太っちょの男が。
「あなたはどちら様ですか?」と聞いたあとで隣にいる少年の顔から明らかに色が失われていることに気づくギアン。
そこで彼はなんとなく事情を察した。今、目の前にいる男は奴隷商なのだ。
「あなたの父親はもう契約をしてしまったようですね」とは間違っても言えないギアンは自分に何ができるかを考え、そして理解した。
今の自分にできることは何もない、と。自分には止める権利も権力もなければ、腕力もない、と。
勉強しかしてこなかった自分が憎いのだろう。彼の唇からは鮮血がたらたらと流れ出ている。
教え子ひとり守れないで、なにが先生だ。
彼の頭はこの言葉に占められていた。だが、それでも口からは何も出てこなかった。
目の前ではシャバナが奴隷商に引っ張られて行っているのにも関わらず、自分はその場に立っているだけ。
一緒に行くと言ったじゃないかと自分に心で怒鳴りつけるも、身体は動いてはくれない。
そんな時だった。
「先生、ひとりで行ってくれッ!」
シャバナが叫んだのだ。
しかしそれが気に入らなかった奴隷商は彼の後頭部を殴りつけると、「勝手に喋るなァ。契約が成立した時点でテメェは物なんだよォ!」と唾を吐いた。
これを見た瞬間にギアンの理性は消し飛び、彼の身体は無意識に前へ前へと進んでいった。
そうして振り上げられた拳。それが奴隷商に向かっていこうとした時、「やめろォォォォ!」という声が響く。
これに我を取り戻したギアンは動きを止めて、声の方を向いた。
「先生とやった勉強、めちゃくちゃ楽しかった。だからおれ、先生が人を殴ってるとこ見たくない…!」
こんな風に言われては、ギアンにはもう何もできなかった。その場に膝をついて謝る以外には。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「いいんだよ、先生は子どもに夢を持たせられるんだから。おれみたいな子どもに」
そう言うと、シャバナは大人しく奴隷商に連れて行かれた。
「シャバナ。あなたを絶対に、救ってみせます……!」
地面に拳を打ち付けるギアンは血が出るのも気にせずに唇を噛み締めるのだった。




