結束符
なんとか沼地にたどり着いた疾斗とヤルバーだったが、以前城に入ったときは半魚人と一緒だったことを思い出した疾斗は途方に暮れていた。
「潜るったって限界があるし、誰かに迎えに来てもらうこともできないな」
この疾斗の呟きに対してヤルバーが応える。
「オレの笛の音は、風だけじゃなくて水からも運んでもらえるんだぜ? ちょうどいいことにあそこに小舟もあるんだ。沼の中央まで漕いで、そこから笛で呼べばいいさ」
本当に笛の音が水中にまで響くのなら試してみた方がいいし、何も試さないままここにいるのもいけない。そう疾斗は考え、さっそくヤルバーと2人で小舟に乗った。
「ハヤトが漕いでくれよ?」
ヤルバーは当然のようにオールを疾斗に押し付けた。
「いいや、お前はもう少し身体を鍛えるべきだ。だからお前が漕げ!」
頼まれた疾斗はすばやくオールを押し返した。
「おいおいおい、冗談よしてくれよ〜。笛吹きに筋肉なんて必要ないし、筋肉モリモリのヤツが女のコに話しかけたらなんか違うだろ?」
『なんか違うだろ?』と言われてもナンパをしたことがない疾斗にその感覚はない。
しかし、ここで筋肉の話を続けるのも時間の無駄だと判断し、
「しょうがない、漕ぐか」
と言った疾斗は、少し雲が集まってきた空を仰ぎながら舟を進め始めた。
それから数分後。
沼の中央に着くと早速ヤルバーは笛を構えた。
ヒュルヒュー ヒュー ヒュー
すこし曇った空に、心をそっと撫でて去っていくような音色が舞上げられていく。
ヒュラルラ ヒュー ヒュルルー
これなら沼の奥底の半魚人たちにも届く。そう疾斗が思っていた時、ブクブクブクブク、と水面に大きな泡がたくさん浮いてきた。
「みんな気づいたんだ。やったなぁ、ヤルバー!」
そう言って、濁った水の中を覗く疾斗。しかし、うっすらと見えたのは半魚人の姿ではなかった。
「おい……。マジかマジか!? やばいって、アレはやばいって!!!」
だんだんとハッキリしてきたのは、大きな口を開けて急浮上してくるサカナのようなものだった。
「ヤルバーっ、し……下ァ!」
しかし名前を呼ばれたヤルバーはというと、疾斗が慌てて自分のことを呼んでいるのが可笑しくて舟の上で笑い転げてしまっている。
「だぁっはっはー! なんでそんなに必死なんだよ? 『ヤルバー、し…下ァ!』って……」
グオンッ
舟が凄まじい水しぶき、衝撃とともに宙へ浮き、水面へ落とされる。
「へ……。な、何? いまの?!!」
人は実際に自分の身になにか起こらないと自分の置かれている状況に気付けない生き物だと言う者がいたが、その話を信じるとしたらヤルバーはまさに“人らしい”といえるだろう。
びしょ濡れになった2人は数秒間見つめあってからそろって水中を覗き込んだ。
さっきのサカナはもう見えない。
疾斗は頭をかいた。
「まいったなぁ、岸に戻りたいって言ってもな……」
「ハヤト、」
ヤルバーは濡れた寒さで震えながら、「オマエの呪具はどんなモンなんだ?」と尋ねる。
「ん、俺も使ったことがないやつもあるんだけどな。形はお札で、名前を叫びながら掲げると……」
言いながら疾斗は、使ったことのある『頑強符』、『疾走符』の効果をヤルバーに見せながらわかりやすく教えた。
そしてまだ使用していない札に関しては、
「……この『結束符』ってのは1度試してみたんだが、何も起こらなかったんだ。そんで、試しもしてないのは、この『風斬』。どんな効果があるか想像もつかないな。あ、いや、でも“斬”の字が使われてるってことは、何かを切るってことなんじゃ……」
と(最後は完全な独り言だったが)、こんなふうに説明した。
全てを聞いたヤルバーは、おめあてのオモチャを見つけた子どものような笑顔を見せる。
「あのバケモノは“その札”があれば倒せるかもしれないぜ」
彼の指先はまっすぐ結束符を指している。
「結束符? でも、これは使えなかったんだって……」
疾斗が戸惑っていると、左からさっきと同じく大きな泡がブクブクと鳴る音が聞こえてきた。
「また……なのか?」
「いいから結束符を掲げて沼に飛び込め、ハヤトッ!」
自分を駆り立てるその声を信じ、疾斗は結束符を天に向かって突き出した。
「結束符ッ!」
結束符は疾斗の右手へと沈んでいく。
そして2人は濁った沼へとその身体を投じたのだった。
この沼にはあのサカナがいる。それを考えただけで並の者は滅入ってしまうだろう。
しかしいまの疾斗にはとてつもなく深刻な別の問題が起きていた。それは入水する直前に息を吸うのを忘れていたということだ。
疾斗が慌てて息が苦しいことをヤルバーにジェスチャーを使って伝えると、ヤルバーは「ガマンしてあのサカナに触れ」というジェスチャーを返してきた。
ところがなんと疾斗にはこのジェスチャーが、「いいからオレにタッチしろ」なんていうふうに見えてしまったので、真面目な彼はヤルバーの肩にポンと右手を置いてしまう。
するとその瞬間、疾斗の右手は黄色い光に包まれた。これに驚いて手を引っ込めようとしたが手は“離れなかった”。
この時だった。
この時はじめて、ヤルバーの言っていたことを疾斗は理解した。
『あのバケモノは“その札”があれば倒せるかもしれないぜ』
この結束符は物体間の結束力を高めることができるのだ。それにいち早く気づいたヤルバーは、疾斗にあのサカナと何かをくっつけさせ、動けないところを仕留めるという作戦を思いついたらしかった。
そこまでの意思疎通ができたところで、一旦2人は浮上し、疾斗が術の解除の仕方を会得するまで浮かんでいた。
ここである一つの疑問がヤルバーの頭に浮かぶ。
「さっき泡ボコがブクブクなったよな。なんであのサカナが上がってこない……?」
疾斗は「さあ」としか言えず、なんとも言えない寒気が背中を走っていくのを感じた。
妙に静かなのもそれはそれで困る。聞こえるのは自分たちの髪から滴り落ちる水の粒が沼の水面を叩く音のみだ。
「まずヤツに触って、それから沼底なんかを触れば、2つが引き合ってサカナは動けなくなるってことだな?」
ヤルバーに問うた訳ではなく、自問自答して騒ぐ胸をなだめようとした必死のセリフだった。
そうしてついに、「よし、もう一度だ。潜るぞ!」と、勢いよく濁った水に潜っていく疾斗。これにヤルバーも続いた。
水の抵抗は凄まじかったが、腕が、肩が、脚が悲鳴をあげても水をかき続けた。
すると、
ズオォォォ
2人の真横を通りすぎる黒い塊。
「今だぜッ!」
ヤルバーのジェスチャーを横目に、疾斗は、そのウロコ一枚一枚が自分ほどもある巨体にサッとタッチをした。
すると先ほどと同様に、右手が黄色い光に包まれていく。あとは沼底に触れるだけ。
楽な仕事だと疾斗が完全に油断していた時だった。
サカナがその尾をしならせてムチのように疾斗を打ち、打たれた疾斗は沼の城一直線に飛ばされてしまう。
少し離れていたヤルバーにも衝撃波がくるぐらいだ。そんな勢いで飛んできた疾斗がぶつかった沼の城の破損度は言うまでもなく最悪そのものだった。
穴の空いた箇所からものすごい水圧で水が入り込んでくる。半魚人たちは平気でも、中にはアズーとドゥーナがいた。
誰しもが「もうおしまいだ」と諦めかけていたそのとき、水の中にいるはずであるのにはっきりとある声が響く。
「我が名はガンゾールゾ=ディタ=ヘルメフォン。ドゥーナ姫が仕えていた貴族である!」
皆が振り向いた方向にいた、その人物は……。




