不穏
「…驚いたぁ。一晩でこんなになるんだね」
そう感嘆の声を上げるのはゴン爺の弟子であるヤイト。
彼が何を見ているかというと、ピューロという赤い鳥が落とす強酸性のフンを次々に避ける疾斗の姿である。
しかも場所はあの針山。太さがほんの60センチしかない足場の上で跳んだり、屈んだりして上手く避けている。
彼の上達ぶりにはさすがのゴン爺も驚いたようだ。
「四肢戦士としてそれなりの人数を稽古してきたつもりじゃったが、ここまでの者はおらんかったぞ…」
誰に向けてか分からないこの言葉を無視して疾斗が尋ねる。
「ゴン爺さん、これいつまで続ければいいんですかッ?」
少々表情に疲れが表れている疾斗に、ゴン爺は首を横に振った。
「まだおぬしは視覚に頼りきりじゃ。それでは死角からの攻撃には対処できんぞ」
言われて、「じゃあどうすりゃいいんだよ…」と小声で不平を漏らす疾斗。だが無理もない。
これまでの彼が異常過ぎたのだ。
持ち前の運動神経の良さを武器にこれまではなんとか(ならないこともあったが)やってきた。
しかし、この間まで会社勤めだった疾斗が急に「死角」などと言われても対応できるはずがない。それは周知の事実というやつだ。
そんな疾斗の心証を見抜いてか、ゴン爺がある提案をする。
「おぬしはどうやら実戦の中で成長する類のようじゃ。そこでヤイトと対人戦をしてみるというのはどうじゃ?」
これは疾斗にとって願ってもないことだった。ゴン爺が言った、「実戦の中で成長する」という部分はちょうど疾斗自身も思っていたことだったからである。
そんな彼は早速針山から普通の地面に飛び移り、腰の帯を解き、黒い上掛けを放ると、握った右手を左手で包むカンフーのスタイルでヤイトに一礼。
すると、ヤイトもそれに倣って礼をし、「その履いてるヤツ、なかなかいいね。ニッカポッカみたいだ」と、クスリ笑った。
ニッカポッカという言葉を耳にしたことがなかった疾斗はそれを聞いて、「このダボッとしたズボンはこの世界じゃニッカポッカって言うのか」と納得。
そう、疾斗は知らない。ニッカポッカが現世の言葉であることを。
「ま、とにかくよろしくな。ヤイト」
さて、こうして対人で修行をすることになった疾斗だが、ヤイトと向かい合った瞬間から自分の中に、闇ハヤトになる直前にいつも感じていた“何か”が沸き起こっていることに気付いてしまう。
「大丈夫だよな…?」
ボソッと呟くと、「ボクとの手合わせより大事なことかなッ」と何やら機嫌が悪そうな顔をしてヤイトが身を屈めて急接近。
直後に疾斗のアゴをまっすぐ蹴り上げ、蹴られた疾斗の体は完全に宙に浮いた後で地面に落ちた。
「痛て…」
強くなろうとする決心はついたものの、まだ頭がぼんやりしていた。
切り替えようと自身の両頬をパチンと叩き、深呼吸。
「失礼な態度で悪い。今から本気でやるが、俺が闇ハヤトっていうヤバいヤツになったら止めてくれ」
少々自分勝手な気もする発言だが、ヤイトはこれに、「うんうん、いいよ」と軽く返す。
しかし疾斗に聞こえないように、「ソイツがボクのお目当てなんだけど、ね」と付け足すヤイトである。
そんなことはつゆ知らず、疾斗は右半身を前に出し、右手はアゴの近くに。ボクシングのような構えを想像してもらえば1番簡単でしっくりくるだろう。
疾斗がそんな風に隙を見せないようにしたので、さすがのヤイトも潜り込んで攻撃するという方法は使えないと判断したらしく、優雅な立ち姿で様子を見ている。
自分から動けば即ちそちらが負けるという緊迫した状況の中、動かずにはいられないのが我らが疾斗。
相手と正対してしまうとそれが隙になってしまうという鉄則を知らないために、真正面からヤイトに向かって突っ込んでいく。
「あれ、本気出すんじゃなかったの? ヤケじゃん」
そう言うとヤイトは、掴まれかけた両腕を返して振り解き、逆に掴み返すと、グイッとそれを引きながら後ろに倒れ、疾斗を下から足で押し投げる、まるで巴投げのような技を繰り出した。
「がはッ!」
背中から地面に落ちたことがある人なら共感できると思うのだが、一瞬、本気で息ができなくなる。
今の疾斗の状態がまさにそれだった。
「師匠、いきなり対人はやっぱり無理ですよ」
この弟子の言葉を聞き、ゴン爺も、「う、うむ…」と考える。
「そうじゃの。やはりまずは基礎から…」
言いかけたその時。
「…待てよ」
大の字で、顔の上に手を乗せている疾斗から声が。だがその声に含まれる威圧感は疾斗自身のそれではなかった。
「まだ、終わってねぇだろが」
ギラギラと鮮血のような色に輝く目や普段と違う物言いからゴン爺とヤイトはすぐにこれが闇ハヤトだと理解した。
「ヤイトよ、良い機会じゃ。そのままおぬしが相手をせぃ」
ゴン爺にそう言われると、「待ってました」と言わんばかりに頷き、ツカツカと闇ハヤトの方へ向かっていくヤイト。
「さぁ、このボクに喧嘩売るからにはキミの本性全てを見せてもらうよ」
不敵に笑うヤイトが懐を探り、指輪を取り出す。嘆き顏の男の両目に青い宝玉が埋め込まれたデザインだ。
それを右手の人差し指にはめ、彼は静かに歩き出した。闇ハヤトの方へ確かに、一歩ずつ。
この態度に闇ハヤトは、「余裕かましてんじゃねぇ!」と殴りかかろうとする。
彼のブローがヤイトに迫り、あと数センチで直撃、ということろで何かが起きた。
形容に困るが、おそらく、一瞬ヤイトが消えた。
そのために闇ハヤトの渾身の拳はどこへ当たることもなく彼の体ごと地面にぶつかっていった。
「くそッ、なにしやがった!?」
動揺するのも無理はない。目の前で人が消えてまた現れたのだから。
しかしそんな闇ハヤトに対してヤイトは冷たかった。
「早く立ちなよ。話したいことがあるんだから」
「あぁ? 話したいこと、だぁ?」
「うん」とヤイトが頷き、尋ねる。
「キミは誰だい?」
「は、そんなもん…。俺は、俺だ」
「そっか。じゃあその体は誰のものかな?」
「こりゃ、疾斗のだろ…」
「そうだね。じゃあキミは疾斗?」
これには答えられない闇ハヤト。しばらく考え、ようやく出た答えは、「俺は、デュリオス…?」だった。
「そうそう、大当たり〜。クイズ番組なら10点問題くらいかなっ」
この異様な状況を目の当たりにして、ゴン爺は、「ヤイト、おぬしは一体…?」と頭を抱えることしかできないでいる。
そんな彼に気付くと、ヤイトは笑った。
「あ、すみません、師匠。実はボク、こことは違う世界から来た人間なんですよ」
もはやゴン爺の頭はぐちゃぐちゃだ。
「異世界…。教皇がデュリオスを使って攻め込もうとしていた世界か?」
「ご明察ですね」
「じゃ、じゃが、今ハヤトは自分がデュリオスと言いおった」
「困りましたねー」と、いかにも他人事のように腕を組みながらゴン爺のもとへと近づく八糸。
そうしてあと数歩というところまで距離を詰めると、何か細長い、鉛筆のようなものを投げつけた。
ザクッ
それはゴン爺に刺さらず地面に刺さっていた。注射器だった。
流石は四肢戦士最強の拳法の使い手。飛んでくる物を察して咄嗟にかわしたのだ。
「あ〜あ。避けなきゃキレイさっぱり忘れられたのに」
わざとらしく落胆してみせた八糸は、「今度は小細工なしッ」と、立っているゴン爺の首を狙って蹴りを入れる。
ところが、ゴン爺はそれを腕で止め、片足立ちの八糸の腹部に立て続けに2発、コンパクトな蹴りをお見舞いした。
「くふッ」
トトトッと後退りをする八糸にゴン爺が追撃を仕掛けようとしたその時。
「答えやがれぇッ!」
ビリビリと場が震える。闇ハヤトの声だった。
「俺がなんでこんなヤツの中にいるんだ。納得できねぇ答えはいらねぇぞ」
口元を拭いながら八糸はじっと闇ハヤトを見つめる。
そして、「あぁ、いいよ」と頷いた。
「どうせ師匠には忘れてもらうし、キミに話しても疾斗の記憶には残らないからね」




