008 桜サイド 転移直後
少し時間が戻り朝雄が転移した直後からのお話になります。
時は少し遡り、朝雄が姿を消した直後――。
「朝雄……?」
桜は、呆然とその場に立ち尽くしていた。
そこには、もう誰もいない。
朝雄が立っていたはずの場所。
手を伸ばせば届きそうだった場所。
だが、どこを見ても朝雄の姿はなかった。
「朝雄……?」
もう一度名前を呼ぶ。
返事はない。
「朝雄ちゃん……」
隣では、梅も同じように辺りを見回している。
つい数秒前まで、確かにそこにいた。
二人を庇うように立ち、トラックを止めていた。
白い光に包まれ、髪が銀色に変わって――。
最後に、笑っていた。
『ありがとう』
そう言って。
そして、消えた。
「朝雄!」
桜は我に返ると、朝雄が立っていた場所へ駆け寄った。
「朝雄! どこ!?」
地面を見る。
周囲を見る。
「返事して!」
当然、返事はない。
「桜さん!」
後ろから卓也の声が聞こえた。
振り返ると、卓也は壁へ激突したトラックの周囲を必死に確認していた。車体の前方から歩道、周囲の道路、さらにトラックの下まで念入りに調べている。
「朝雄はいない!」
「そんな……」
「少なくとも、轢かれては……いない」
卓也の声も震えていた。
いつもの軽い雰囲気は完全に消えている。
「でも……」
梅が泣きそうな声を漏らした。
「じゃあ、朝雄ちゃんはどこに行ったの?」
「……分からない」
「だって、目の前にいたんだよ!?」
「分かってる!」
卓也が思わず声を荒らげる。
梅がびくりと身体を震わせた。
「あ……悪い」
卓也はすぐに謝った。
「俺だって分からないんだ……」
拳を強く握る。
「でも、朝雄は死んだわけじゃない!」
「……」
桜と梅が卓也を見る。
「死んだなら……死体があるだろ」
卓也は苦しそうに続ける。
「轢かれてもいない。周りにもいない。それに俺たち、見ただろ?」
朝雄が白い光に包まれ、その姿が消えた瞬間を。
「だったら、どこかにいるんだよ」
「卓也……」
「何が起きたかなんて分からない。でも……朝雄がいなくなっただけで、死んだって決めつけるのは違うだろ」
桜は唇を強く噛んだ。
卓也の言う通りだった。
分からない。
何一つ分からない。
だからこそ。
「……そうね」
桜は小さく頷いた。
「朝雄は……生きてる」
「うん」
梅も涙を拭いながら頷く。
「絶対、生きてるよ」
その時だった。
ピリリリリッ。
「……?」
桜のスマートフォンが鳴った。
今、この状況で誰だろう。
震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見る。
「え……?」
表示されている名前に、桜は目を見開いた。
『お義父様(予定)』
朝雄の父親。
八神喜一郎からの着信だった。
「どうして……」
本来なら、まだ海外にいるはずだ。
しかも事故が起きてから、ほとんど時間は経っていない。
「桜さん、出た方がいい」
卓也に言われ、桜は我に返る。
「え、ええ」
通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『桜ちゃんかい?』
聞き慣れた低い声。
普段なら安心できる声なのに、今は逆に涙が出そうになった。
「お、おじ様……」
『朝雄に何かあったかい?』
「――っ!」
桜の呼吸が止まる。
「どうして……」
『やっぱり何かあったんだね』
「おじ様……朝雄が……」
言葉にしようとした瞬間、声が震えた。
『落ち着いて。ゆっくりでいい』
「はい……」
桜は一度、大きく息を吸った。
「さっき、歩道にトラックが突っ込んできて……朝雄が私と梅ちゃんを庇ってくれたんです」
『……』
「朝雄がトラックを止めて……身体が光って、髪も銀色になって……」
自分でも信じられない出来事を、一つずつ言葉にしていく。
「それで……最後に私たちに『ありがとう』って言って……」
『……それから?』
「急に……いなくなったんです」
『……』
「本当に、一瞬で……目の前から消えてしまって……」
堪えていた涙が、また溢れそうになる。
「周りを探したんです。でも、どこにもいなくて……トラックにも轢かれてなくて……」
『分かった』
喜一郎の声が、明らかに変わった。
低く、真剣な声。
「おじ様……?」
『桜ちゃん。今、近くに梅ちゃんと卓也くんもいるかい?』
「はい……二人ともいます」
『三人とも怪我は?』
「ありません」
『他に大きな怪我をした人は?』
桜は周囲を見る。
壁へ突っ込んだトラックの運転手を何人かの大人が助け出そうとしているが、少なくとも自分たちの近くに倒れている人はいない。
「分かりません……でも、私たちの周りにはいません」
『そうか』
喜一郎が短く息を吐いた。
『なら、今すぐ三人でそこを離れなさい』
「え?」
『もうすぐ警察も救急も来るだろう』
「でも……」
『桜ちゃん』
普段の穏やかな声とは違う。
有無を言わせない、強い声だった。
『今起きたことは、普通の事故じゃない』
「……」
『君たちは、朝雄が目の前から消えたのを見たんだね?』
「……はい」
『それを、その場で警察に説明できるかい?』
「それは……」
説明できるはずがない。
朝雄が突然目の前へ移動した。
トラックを素手で止めた。
髪が銀色になった。
身体が光に包まれ。
そのまま消えた。
自分たちにだって、何が起きたのか理解できていない。
『今は、余計なことに巻き込まれない方がいい』
「でも、事故なのに……」
『君たちに怪我はない。それに、周りの人たちが救急も警察も呼んでいるんだろう?』
「……はい」
『だったら、今は朝雄のことを優先しなさい』
「朝雄のことを……?」
『詳しいことは、俺が戻ってから話す』
桜の胸が大きく跳ねた。
「おじ様……何か知ってるんですか?」
『……今は、まだ確かなことは言えない』
「そんな……」
『ただ』
喜一郎の声が少しだけ柔らかくなる。
『朝雄が死んだとは思っていない』
「……!」
『俺も、必ず朝雄を探す』
その言葉だけで、張り詰めていた桜の心が少しだけ軽くなった。
「……はい」
『明後日には日本へ戻る。それまで、梅ちゃんと卓也くんと一緒にいてくれ』
「分かりました」
『一人にならないようにね』
「……はい」
『それと、警察から後で連絡が来たら、その時は俺に連絡しなさい。俺が対応する』
「分かりました」
『じゃあ、今は三人で帰りなさい』
「……はい」
通話が切れた。
桜はしばらくスマートフォンを握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「桜ちゃん……?」
梅が心配そうに顔を覗き込む。
「おじ様、なんて?」
「……朝雄は死んでないと思ってるって」
「本当!?」
「ええ。それと、明後日には戻ってくるって」
梅が少しだけ安心したように息を吐く。
「あと……今はここを離れろって」
「え?」
卓也が眉を寄せた。
「警察が来る前に?」
「ええ。今起きたことは普通の事故じゃないから、詳しいことは自分が戻ってから話すって」
「……」
卓也はしばらく考え、朝雄が消えた場所を見る。
「確かに……俺たちだって説明できねぇよな」
「うん……」
梅が俯く。
遠くから、かすかにサイレンの音が聞こえ始めた。
桜はもう一度、朝雄が消えた場所を見る。
「朝雄……」
本当は、この場を離れたくない。
もしかしたら、突然戻ってくるかもしれない。
そう思ってしまう。
だが、喜一郎が何かを知っている。
そして、その喜一郎が帰れと言った。
「……行きましょう」
桜が言う。
「うん」
梅も頷いた。
「……分かった」
卓也も、最後に周囲をもう一度確認する。
朝雄の姿は、やはりどこにもない。
三人は警察と救急車が到着する前に、事故現場を後にした。
◇ ◇ ◇
事故現場を離れた三人は、いつもの帰り道を歩いていた。
だが、朝とはまるで違う。
いつもなら四人で歩く道。朝雄と卓也が前を歩き、その少し後ろを桜と梅が並んで歩く。
今日は三人しかいない。
「……」
誰も話さなかった。
会話をする気力がない。
途中、梅が何度も泣きそうになるたび、桜が手を握った。卓也は二人の少し前を歩きながら、何度も振り返っていた。
やがて、いつも待ち合わせをしている交差点に着いた。
三人はそこで足を止めた。
「桜さん」
卓也が振り返る。
「朝雄は絶対帰ってくる」
「……」
「さっきも言ったけど、死んだわけじゃない。どこにいるか分からないだけだ」
無理に明るくしようとしているのが分かる。
「それに」
卓也は少しだけ笑った。
「主人公がヒロインを置いていなくなるギャルゲーなんてない!」
「……」
「だから、絶対帰ってくる」
いつもの卓也なら、梅から殴られてもおかしくない発言だった。
だが今は。
「……うん」
梅は泣きながら笑った。
「そうだね」
桜も小さく頷く。
「ありがとう、卓也」
「おう」
卓也は少し照れたように笑った。
「桜ちゃん」
今度は梅が桜の手を握る。
「明日も一緒に学校行こうね」
「……ええ」
「朝雄ちゃんが帰ってきた時、いつも通りに戻れるように」
「そうね」
桜は握られた手を、そっと握り返した。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日ね」
梅が手を離す。
「ねーちゃん、帰るぞ」
「分かってるよ」
卓也が歩き出し、その隣へ梅が並ぶ。
「桜ちゃん、また明日!」
「ええ。また明日」
桜はその場で二人を見送った。
普段なら、この先も朝雄が隣にいる。
だが今日は、一人だった。
◇ ◇ ◇
九条家は、朝雄の家の隣にある。
桜は帰宅すると家族に事故について簡単に説明し、自室へ戻った。
現在、九条家で暮らしているのは祖父、母、そして桜の三人。父親は仕事の都合で一年前から単身赴任をしており、祖母はすでに他界している。
幼い頃から朝雄は、この家へ頻繁に預けられていた。
朝食を一緒に食べた。
夕食も一緒に食べた。
泊まったことも数え切れない。
桜にとって朝雄が隣の家へ帰ることはあっても、『いなくなる』という感覚は今までなかった。
部屋へ入り、制服のままベッドへ腰掛ける。
「……」
窓の外を見る。
すぐ隣に朝雄の家がある。
いつもなら、今頃あの家に朝雄がいる。
少しすれば、夕食を作るために桜が向こうへ行くはずだった。
「……朝雄」
名前を呼ぶ。
当然、返事はない。
頭に、あの瞬間が何度も浮かぶ。
トラックが迫ってきた。
朝雄が前に立った。
自分と梅を庇った。
そして。
『ありがとう』
「なんで……」
桜は拳を握った。
「なんで、ありがとうなのよ……」
助けてもらったのは自分たちだ。
朝雄が感謝する理由など、どこにもない。
「なんで、自分のことは考えないのよ……」
昔からそうだった。
誰かが困っていれば放っておけない。
自分が損をしても、怪我をしても、誰かを助けようとする。
そんな、自分より他人を優先してしまう優しいところが、桜は大好きだった。
でも、今だけは。
「そんなところ……嫌いよ……」
声が震える。
「私たちを助けて、自分だけいなくなるなんて……」
涙が頬を伝った。
「そんなの……嫌に決まってるじゃない……」
ベッドの上へ、ぽたりと涙が落ちる。
朝雄が消えた。
その事実を理解するたび、胸が締めつけられる。
けれど。
「……」
桜は涙を拭った。
「朝雄は……生きてる」
卓也が言った。
喜一郎も言った。
死んだわけではない。
なら。
「探す」
桜は顔を上げる。
「絶対に見つけるから」
朝雄がどこにいるのか。
何が起きたのか。
今は何一つ分からない。
それでも、諦めるという選択肢だけは最初から存在しなかった。
「待っててね、朝雄」
窓の向こうにある、誰もいない家を見つめる。
「絶対に……迎えに行くから」
そう口にすると、桜は胸の前で強く拳を握った。
朝雄は幼馴染で。
弟のような存在で。
そして――。
「……」
桜は僅かに頬を赤くした。
「朝雄は……家族だもの」
今はまだ。
それだけにしておいた。
今後は朝雄側と桜側のお話を数話づつ交互に進めていきます。
次話は23日7:00に投稿します。
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