005 決意
部屋を出ていくアリアを――正確には、その耳と尻尾を見送った後、朝雄はベッドの上で考え込んでいた。
どうやら、自分は異世界へ転移したらしい。この世界には魔法があり、獣の耳や尻尾を持つ種族も存在する。
今分かっていることだけを並べれば、ずっと憧れていた異世界転移を実現させたと喜ぶところなのかもしれない。
だが、分からないことも多すぎる。
『どうして僕が、この世界に来たんだろう……』
時折、身体の中で動く『何か』。トラックを止めた時に使った不思議な力や、狼の身体に大きな穴を開けた力も正体が分からない。
さらに、この世界に来てから何度も見る白い空間と、そこに現れる銀髪のエルフらしき少女。
「分からないことだらけだ……」
中でも一番気になるのは、自分が使ったあの力だった。トラックから桜と梅を助けた時にも、すでに使っている。
つまり、異世界へ来たことで突然手に入れた、いわゆる『チート能力』というわけではない。
「うーん……」
考えれば考えるほど謎が増え、思わず頭を抱えたくなる。
そして、もう一つ。
憧れていた異世界へ来たのだから、このままこの世界で楽しく暮らそう――。
朝雄には、そんなふうに簡単に気持ちを切り替えることはできなかった。
向こうの世界には、大切な人たちがいる。最後に見た桜と梅の顔を思い出すと、二人ともひどく悲しそうな顔をしていた。
「あんな顔をさせたままにはできないよね……」
卓也もいるし、もうすぐ帰ってくるはずだった父親もいる。みんな、きっと自分を心配している。
この世界がどんな場所なのか。どうして自分がここへ来たのか。元の世界へ帰る方法が存在するのか。
何も分からない。
それでも。
「絶対に帰る」
朝雄は、はっきりと口にした。
大切な人たちと、もう一度会うために。
◇ ◇ ◇
朝雄がそう決意したのと、ほぼ同時だった。
カチャリ。
部屋の扉が開く。
「お待たせしました」
アリアがトレイを持って戻ってきた。その上には湯気の立つ木製の皿と、スプーンが載っている。
「おぉ……」
いい匂いが部屋の中へ広がった。昨日からほとんど何も食べていなかった朝雄の腹が、早く食べさせろと訴えてくる。
アリアはベッド脇の椅子へ座ると、トレイをテーブルへ置いた。そしてスプーンを手に取り、皿から白いシチューのような料理をすくう。
「……ん?」
アリアはそれに、ふー、ふー、と息を吹きかけて冷ましている。
『まさか……』
嫌な予感がした。
その予感は、見事に的中する。
アリアはスプーンを朝雄の口元へ運ぶと、満面の笑顔で言った。
「はい、アーンしてください」
「えっ!?」
あまりに予想通りの言葉に驚き、朝雄は思わず口を開けてしまった。そこへスプーンが入る。
「んっ……」
口に入った料理を咀嚼する。少し甘みのあるクリームシチューのような味で、中にはジャガイモに似たものが入っていた。柔らかくなるまで煮込まれており、噛むとほろりと崩れて、素朴な芋の味が口いっぱいに広がる。
「おいしい……」
思わず目を丸くした朝雄を見て、アリアが嬉しそうに微笑んだ。
「おいしいですか?」
「うん!」
朝雄がぶんぶんと首を縦に振る。
「良かったです」
アリアは再びシチューをすくい、ふーふーと冷まし始めた。
「ちょ、ちょっと待って!」
朝雄は慌てて止める。
「じ、自分で食べるから……」
まさか、出会って間もない女性から、いきなり『はい、アーン』をされるとは思わなかった。
こんなことをされたのは、中学生の時に風邪で寝込んだ際、桜から半ば無理やり食べさせられて以来だ。あの時の羞恥心と、妙に満足そうだった桜の笑顔は今でも忘れられない。
しかし、アリアは朝雄の言葉に首を横へ振った。
「まだ身体を起こせないでしょう?」
「それは……」
「横になったままでは食べられませんよ」
まるで子供へ言い聞かせるような口調だった。
「はい」
「……」
二口目が、問答無用で口元へ運ばれる。
確かに、まだ身体をまともに起こせない状態では、シチューのような料理を一人で食べるのは難しい。
「……アーン」
「……はい」
朝雄は顔を赤くしながら、仕方なく口を開けた。
その後も一口、また一口と、アリアは終始楽しそうな笑顔で朝雄へシチューを食べさせ続ける。
『なんだろう……』
その表情を見ていると、どうしてもあの時の桜と重なって見えた。
結局、朝雄はおかわりまで含め、最後までアリアに『アーン』され続けることになった。
◇ ◇ ◇
「ごちそうさまでした……」
羞恥心との戦いではあったものの、ここ数日続いていた空腹感は、ようやく完全に消えた。
「お腹いっぱいだ……」
朝雄が満足そうに息を吐く。
すると、それまで笑顔だったアリアが立ち上がった。
「アリア?」
「……」
そして朝雄へ向かって、深く頭を下げる。
「ヤガミアサオさん」
「はい?」
「妹を助けてくれて、本当にありがとうございました」
「妹……」
昨日、狼に襲われていた子供。
あの子は、アリアの妹だったらしい。
「ああ……」
事情を理解した朝雄は、困ったように笑った。
「でも、僕も助けてもらったから、お互い様ですよ。顔を上げてください」
実際、朝雄も空腹で行き倒れ寸前だった。狼に噛まれた腕まで治療してもらい、こうして家で休ませてもらっている。食事まで用意してもらったのだから、これ以上お礼を言われると、むしろこちらが恐縮してしまう。
だが、アリアは納得していないようだった。
「それでは足りません」
「え?」
「家にはあまりお金がないので、十分なお礼はできませんが……なんでも言ってください。私にできることなら、できる限りのことをします」
アリアが真剣な表情で朝雄へ詰め寄る。
「いや、本当に気にしなくても……」
「駄目です」
「でも……」
「妹の命を助けてもらったんです」
「……」
どうやら、何かお礼を受け取らなければ、アリアは納得してくれそうにない。
朝雄は少し考え、ふと、ずっと気になっていたことを思い出す。
「それじゃあ……一つだけお願いしてもいい?」
「はい!」
アリアは真剣な顔で頷いた。
「でも、これでお礼は十分だからね?」
「分かりました。なんでも言ってください」
朝雄は少し迷ってから、口を開いた。
「耳と尻尾に、触らせてもらえませんか?」
「――っ!?」
アリアが息を呑んだ。
「……あれ?」
朝雄が首を傾げる。
アリアの顔が、見る見るうちに赤くなっていく。
「あ……えっと……その……」
もじもじしながら、口をぱくぱくさせる。
『もしかして、すごくまずいお願いだった?』
朝雄が不安になり始めた頃、アリアは何か重大な決意でもしたかのように、ぎゅっと目を閉じた。
「それが……お望みなら……」
「え?」
「どうぞ……お好きなように……」
声が震えている。
アリアは顔を伏せ、頭を朝雄の方へ差し出した。
ぴこ。
目の前で耳が動く。
「……」
身体も小刻みに震えていた。
「や、やっぱりいいよ!」
明らかに様子がおかしい。
朝雄は慌ててお願いを取り下げようとする。
だが。
「いいえ!」
アリアが顔を上げた。
「それだけの恩を受けています!」
「いや、でも……」
「さあ! 遠慮なくどうぞ!」
再び、真っ赤な顔で頭を差し出してくる。
「……」
朝雄は迷った。
非常にまずいお願いをしてしまった気がする。
だが目の前では、柔らかそうな耳がぴこぴこと動いている。
『……触りたい』
その誘惑には勝てなかった。
「じゃ、じゃあ……少しだけ」
朝雄はそっと手を伸ばし、柔らかな耳に触れた。
「あっ」
「ご、ごめん!」
アリアが声を上げたため、朝雄は反射的に手を引く。
「だ、大丈夫です!」
「本当に?」
「はい! さあ、どうぞ!」
朝雄は再び手を伸ばし、今度は恐る恐る耳を撫でてみた。アリアの身体がびくりと震えたものの、何も言わない。
「おぉ……」
柔らかく、温かい。作り物とはまったく違い、指を動かすたびに耳がぴくぴく反応する。
「本当に生えてるんだ……」
感動しながら髪を少しかき分け、耳の根元まで確かめると――。
「ん~~っ!」
アリアが両手で口を押さえた。
「……あ」
潤んだ目。
真っ赤な顔。
明らかに、これ以上はまずい。
「うん! 本物だって分かったから、もう大丈夫!」
「え……?」
朝雄は慌てて手を離した。
アリアは少し放心したような顔で朝雄を見る。
そして。
「つ、次は尻尾ですね……」
「いやいやいや!」
今度は朝雄が慌てる番だった。
「もう十分だから!」
「でも……」
「本当に十分! 耳が本物なんだから尻尾も本物でしょ!」
「……そうですか」
なぜか、アリアが少し残念そうな表情をした気がする。
『……気のせいだよね?』
朝雄は、そこへ突っ込まないことにした。
ともかく、耳は間違いなく本物だった。そして、本物の獣耳の素晴らしさを身をもって知ることができた。
「じゃあ、これでもう恩とか、そういうのはなしで」
「……」
アリアはまだ完全には納得していないようだった。
それでも、
「ヤガミアサオさんが、そう言うのなら……」
渋々といった様子で頷く。
そこで朝雄は、先ほどから気になっていたことを思い出した。
「あの、一ついい?」
「はい?」
「名前なんだけど……」
朝雄は自分を指差す。
「朝雄が名前で、八神は名字なんだ。だから朝雄って呼んでくれればいいよ」
「名字……?」
アリアが首を傾げた。
「ああ、えっと……家の名前みたいなものかな」
「家の名前……」
その瞬間、アリアの顔色が変わった。
「き、貴族様だったんですか!?」
「えっ!?」
アリアは慌てて床へ膝をつこうとする。
「大変なご無礼を――」
「ちょ、ちょっと待って!」
朝雄も慌てた。
「違う! 貴族じゃないから!」
「でも、家のお名前が……」
「僕のいた国では、普通の人にも家の名前があるんだよ!」
「……普通の人にも?」
「うん。僕は普通の平民……って言えばいいのかな。とにかく貴族じゃない!」
アリアはしばらく朝雄の顔を見つめ、やがて大きく息を吐いた。
「はぁ……びっくりしました。貴族様にとんでもない無礼を働いてしまったのかと思いました」
「僕の方がびっくりしたよ……」
「人族の国には、平民にも家の名前がある国があるんですね」
「……そういうことにしておいて」
どうやら、この世界では家名を持つのは貴族だけらしい。
『これから名乗る時は気をつけた方がよさそうだな』
朝雄は一つ、この世界での注意事項を覚えた。
アリアが立ち上がると、改めて朝雄へ軽く頭を下げた。
「では、アサオさん。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしく、アリアさん」
「……」
「ん?」
アリアが朝雄をじっと見る。
「『さん』はいりません」
「え?」
「アリアって呼んでください」
「ああ、それなら僕も『さん』はいらないよ。朝雄って呼んで」
「そういうわけにはいきません、アサオさん」
「えぇ……」
アリアはにっこり笑っている。
「じゃあ、アリアさん」
「アリアです」
「いや、だから……」
「アリアです」
「……」
笑顔のまま、絶対に引く気がない。
『この感じ……知ってる』
朝雄の頭に、一人の少女の顔が浮かんだ。
『桜姉と同じだ……』
こうなった時の桜も、絶対に引かない。
「……アリア」
朝雄が観念して名前を呼ぶ。
「はい!」
アリアは嬉しそうに笑った。少し年上に見えるのに、その笑顔はとても可愛らしかった。
「これからよろしくお願いしますね、アサオさん」
「……僕だけ『さん』付きなの?」
「はい」
「不公平じゃない?」
「気のせいです」
「気のせいかなぁ……」
朝雄は苦笑する。
異世界へ来て、分からないことばかりで、帰る方法もまだ何一つ見つかってはいない。
それでも、この世界で初めて信頼できそうな人と出会えた。
まずは、ここがどんな世界なのかを知ろう。
そして、必ず元の世界へ帰る方法を見つける。
朝雄は改めて、そう心に決めた。
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